那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

秋山実之について

2012年12月23日 | 歴史
今日は天皇陛下の誕生日につき、まずはご長寿とご健康をお祈りします。

というわけで、連想が明治天皇から日露戦争に跳び、東郷平八郎の声をまず拾ってみた。晩年なので、また確か喉頭癌で亡くなられたので声には力がない。
http://www.youtube.com/watch?v=MsXkrwGa6Vg

若い頃の写真を見れば分かるようにかなりの美男で、イギリス留学をしているので英語もペラペラ、海軍でも英語で命令するので軍人たちが困ったという逸話もある。

そこで連想が秋山実之に飛んだ。(秋山も非常な美男で先祖は水軍)
http://www.z-flag.jp/saneyuki_akiyama/battle_of_tsushima/seven_step.htmlには日本海海戦に備えて秋山が立てた作戦の一つ、7段構えの戦法をこう解説している。
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然らば七段構えとは何ぞ?

これは大別昼戦夜戦と正攻奇襲を交互に活用するもので、済州島近海から浦塩沖に至る海上を七段に区分し、それぞれの区域に於て最も有効適切なる攻撃法によってこれを撃滅しようというのである。

即ち順序を追うていえば、
先づ第一段は我が駆逐隊、水雷艇隊の全力を以て彼我主力艦隊の交戦の前夜に敵艦隊を襲撃せしめ、
第二段は右の襲撃を行ったその翌日我艦隊の全力を挙げて敵艦隊に正攻撃を加え、
第三段第五段は之に引続き其夜間、我が駆逐隊水雷艇隊の全力を以て再び敵艦隊に対し、奇襲的水雷攻撃を試み
第四第六段は更に其翌日我が艦隊の大部分を以て敵の残存部隊を鬱陵島附近及び浦塩港前に追撃し、
第七段は先きに浦塩港口に敷設して置いた水雷沈設帯に敵艦隊を追い込むという用意周到の作戦で、雄大かつ緻密なることは古今の海戦を通じて未だその比を見ざる所であった。

しかし実践に臨んで諸般の事情から実際に用いられたのは、僅かに第二段から第四段までであった。何故かというと、戦争の始まったのは昼間であったが為めに、夜戦の目的の第一段は自然省かれ、第五段以下はそれを用いるまでもなく、第四段までに既に敵艦隊は全滅してしまったのでこれ又その必要がなくなったのであった。

出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より
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この他、余りに有名な「T字ターン(東郷ターン)」と呼ばれるアクロバット的な戦術など
秋山は狂ったように知恵を使い考え抜いた。それで世界最強のバルチック艦隊との戦いの前夜、正夢をみる。そして正夢の通りに海戦が終わった。
 この体験から彼は神秘主義者となって、wikiによれば
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大学校教官時代に佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘されて経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家川面凡児に師事して神道研究を行い、皇典研究会を設立した。新宗教皇道大本には海軍機関学校教官の浅野和三郎との縁(秋山と浅野の初対面は大本時代)で入信し、綾部参り等を行ったものの、目的は信仰ではなく神道研究だったとされる。大本側の資料によれば、大正5年12月14日に出口王仁三郎の招きで綾部に立ち寄り大本教主顧問となったが、大正6年5月に喧嘩別れした[2]。
大正6年(1917年)5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の山下亀三郎別邸にて死去した。死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたという。享年49。
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という不思議な生涯を短命で閉じる。
 浅野和三郎は日本における心霊学の父ともいえる人物で著書も多く、イギイスで講演なども行っている。

正夢の話は何度か書いた。それは今度まとめて記すことにして、今夜はこれにて失礼します。