那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

父の思い出:明治男の生き様

2012年12月10日 | 思い出の記

以下のエッセーは「微笑禅の会」の「見性体験記」にも載っていますが、昔のHPを掘り起こして見つけ出し、さらに手を加えてみました。
 全く個人的なことですが、明治に生まれた父のエピソードはその時代のエトスを知る上で皆さんに伝える価値があると思い選んだ次第です。
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明治元年、紀州和歌山から有馬福三郎(もとは八三郎との説あり)という武士が愛媛県と高知県の県境に妻子を連れて逃げてきた。戊辰戦争において戦略上の諍いから命を狙われ、四国の寺寺を転々と飛び石伝いに渡り、現在の愛媛県東宇和郡野村町惣川小松、という地に居を構えた。寺寺を伝わってやってきたということは、そこは寺社奉行の管轄だから役人が手が出せないことを意味する。明治維新の激動の時代にはそういう危急の事態があちこちでおこったのだろう。
 福三郎は本当は現・海南市の名門・森家の長男だったが、伝え聞くところによれば不行跡があり、親族の有馬家に養子に出されたという。古いことなので確かではない。

紀州時代のエピソードとして、道を歩いていたら飲み屋の二階から同僚が「おいハチ、一緒に飲もう」と声を掛けたところ「武士に向かって犬ころのようにハチと呼び捨てにするとは何事か」と激怒して果し合いを申し出て、仲裁役のお陰で決闘にならなかったとも聞く。彼が特別短気だったのか、それが武士の普通の作法だったのかは分からない。

彼は妻と娘を連れ和歌山から愛媛に渡った。娘の名前をお梅という。

福三郎は学問も才覚もあったために地元の有力者に気に入られ、今で言う司法書士や行政書士のような仕事に就いた。この縁で福三郎に改名したらしい。
 平民に苗字がついたのが明治3年だから、当時有馬という姓を名乗るだけで珍しい存在だった。地元の郷土史を読むと、当時姓を持っていたのは庄屋と神官ら5名のみで、有馬福三郎の記述は漏れている。郷土史が杜撰だったのか、脱藩扱いあるいは帰農帰商の推奨に従ったのか、機会があれば調べなおしてみたい。

また、それが紀州武士(旗本)の癖というものだろう、夜になると自宅を博打場にして地元の人間相手にさいころ賭博をしていたらしい。役人に見つからないように、福三郎の妻は庭の生垣に糸を張り巡らせて、その端を片手でつまんで、糸がピンと張られると、役人が来た、と告げるのである。すると、福三郎はさいころと壷を家の前の川に放り投げ、突然演説をし始める。まるで地元民を前に学問の講義している振りをしてごまかした、という逸話が残っている。
 不思議な話ではない。江戸時代の公家たちも賭場を開いてそれを副業としていたものだ。それに加えて、旧幕臣にとって明治の役人は敵である。新参の役人が、何を生意気に、という反発もあったのだろう。勘の鋭い人だったので、博打がばれたことは一度もなく、昼間は名士として村で尊敬されていた。

ちなみに福三郎は非常に博打が強く、ある意味伝説的な人物となった。彼の墓石は博打好きの人々によって削り取られ縁が丸くなっているのを私は実際に見ているし、今もその欠片を仏壇に供えてある。

娘お梅は長じて、山本覚治という男と結婚した。不思議なことに、有馬と山本とが結婚して「那田」という姓を名乗ることになった。その理由について私はかなり調べたが未だに謎である。

お梅は4人の子を産んだ。その3番目が私の父親、那田和三郎である。父は兄弟の中で飛びぬけて頭が良かったらしい。当時、「人買い」という者が存在しており、その人買いがやってきて、この子は神童だ、ぜひ売って欲しいとせがんだという。

夫は何でも妻に従う鷹揚な人柄で金には無頓着の人だったらしいが、お梅は一頭の牛を飼い、それを徐々に増やして財を成し、4人の子供全てに家と山を与えてた。他の兄弟は主に農民になったが、父親は教員になることを目指して、高知の旧制中学に進んだ。当時、校長になるには師範学校出身者でなければいけなかったが、もう一つの稀な方法として、検定試験制度というのがあった。学費がなかったのか父は後者を選び、八度連続して合格した。最後まで合格して残ったのは愛媛県で3人だけだったという。

父は30そこそこで小学校校長となった。
 初めて校長として赴任するとき、学校への行き道を通りすがりの老人に尋ねた。学校にたどり着くと、その老人がいて「さっきの坊よ、何しにきた」と声をかけた。老人は学校の用務員であった。それほど若くして校長になった。

父は毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に登校するので、村人は父が家の前を通る時間に合わせて時計の針を合わせたらしい。これと同じ話はカントの伝記にでてくるが、私は当時を知る人から直接聞いたので嘘ではない。

また、こんな逸話も残っている。父が登校したとき、背広の襟元から値段の付いたタグが飛び出ていた。そこで女教師がそのことを告げて切り取ろうとすると、「わざと出しているんだから、切らずにいてくれ」と言った。
 実は、その背広は非常な安物で、ひらの教師たちは大概父より10倍も高い背広を着ていた。そこで父が安物をこれ見よがしに着て見せるものだから、校長より高い背広は着れない、ということで校内の華美な風潮が治まった、という。
 
また、あるとき大きな地震があった。父以外の家中の者は驚いて家の外に飛び出し、地震が収まったのを見て戻ってくると、父は笑いながら「外に出たら揺れない場所があったか?」と尋ねたという。父は胆力の座ったユーモリストであった。

父は大病に何度もかかった。一度は胃潰瘍で、洗面器一杯の血を吐いた。しかし医者にいかず、というよりも非常な山岳地帯であったため、近くに医者がなかったのだが、絶食療法を選んで自力で潰瘍を治した。
 また肺水腫にも罹った。これは自然呼吸が出来なくなる難病だが、これも何日も眠らず自力呼吸することで医者にかからず治した。
 父は、のちに私に「多少の病気は腹式呼吸をすれば治る」と教えた。

このころ、一人の乞食坊主が家を訪ねてきた。家人が嫌がるにもかかわらず、父は家に上げ、風呂に入れて食事をもてなし、一晩泊まらせている。これは父の最初の妻の日記に書かれている事実である。父は、このお坊さんは立派な人だから丁寧に扱うように、と妻に告げた。私の推測ではその乞食坊主は、四国を旅していた山頭火ではないか、と思うのだが、確証はない。

父は小学校校長を務めた後、農協長、村会議長、収入役、助役など、町の要職はほとんど勤めた。村議立候補は自ら望んだことでなく、村民の要請に答えたものだった。父は一円も使わず、全て村民が手弁当でトップ当選した。現在は対抗馬がなくても飲み食いのために、町議レベルで2000万はかかるらしい。父の理想的な選挙の様子は神代の昔の物語のようで、なるほど明治の人はそういう気風であったから、世界中から日本人は尊敬されていたのだろう。

第二次大戦のときは「大尉相当官」として村民に軍事訓話をし、敗戦後も父親はしばらく陸軍の軍服を着ることを好んだ。
 明治生まれの人間らしく父は天皇を敬愛していた。「小豆色の車に乗った陛下の姿が見えると、思わず涙がこぼれるのが日本人だ」と言っていた。が、私は面白い父の文章を読んだことがある。父が70代に退職公務員用の文集に書いた文章だ。父が天皇陛下を当地にお迎えしたときの思い出話をしているのだが、夏目漱石のような簡潔な文章で、側近の誰かが一発放屁された、と書いているのである。この辺り、父はやはりユーモリストであって、盲目的なロイヤリストとは一線を画している。

戦後は楽隠居の身分で、同じく再婚の母と結ばれ、私が生まれた。このとき父親は63歳である。私が生まれる前後に二人流産している。私と違って精は強かったようだ。

母は事業家肌で、戦後は料亭と芸者置屋を経営し相当に儲けていたが、私の将来の教育のためにならないと父親が意見して、一時期質屋を営んだのちに、衣料店に落ち着いた。

父は資金を出しただけで経営には一切タッチしなかったが、母が不在のときに留守番ぐらいはした。たまたまそのときに客が来た。客の女性は上着を欲しがった。ところが父親は「その上着はまだまだ着られます。着られなくなってから買えばいいのでは」と言って、その女を追い返してしまった。嘘ではない。母はその客から事実を聞かされて、ものすごい剣幕で父親をなじった。全く商売には向かない人間であった。

私は完全な父親っ子で、子供のころから、なんと、高校2年生まで父の布団に一緒に寝ていた。
 父親は東京で言う「麦焦がし」(地元ではハッタイコ)を自分の口で噛み、私に「ワンと言え」と命じて私が「ワン」と答えると、嬉しそうに口移しで食べさせていた。あるときから私がそれを嫌がるようになると、実に寂しそうな顔をしたのをはっきり覚えている。

父は地元では、神様のような人、と言われるほど温厚な人柄で、典型的な刻苦勉励型の人物だった。その根本には武士の子孫という強い誇りがあった。

私が物心付いたころから「尚史、お前の先祖は、と聞かれたら、紀州和歌山黒江のジョウ森丹治五郎兵衛の子孫でござる、と答えなさい」と耳にタコが出来るほど言われた。「ジョウ」のところは子供の耳には「ジョウ」「城主」など色々に聞こえ、後年父に尋ね直したところ、父も口語りに祖父から聞いていたのではっきりしない様子だった。

今少し調べてみると「国司とは朝廷から各国に派遣される、今で言う知事にあたり、守(かみ)はその長官、介(すけ)は次官にあたります。ちなみに三等官を掾(じょう)、四等官が目(さかん)と言い、朝廷では役所によって字は異なるものの、すべて「かみ・すけ・じょう・さかん」の順になっています」とあるから、多分掾(じょう)のことではないか、と思うが定かではない。

武士団が発生したばかりのころなので地域によって名称が定まっていなかったのでは?いつかジックリ調べてみたいものだと思い、大学を卒業したころ、森家のある和歌山県黒江(現・海南市)まで旅をして地元の人や図書館で調べてみた。ハッキリ分かったことは、森家は南北朝時代の後村上天皇(南朝)に仕えた守護(地頭、守護大名)で、海南市の市史に「森家文書」の項があり、本能寺の変の直後に明智光秀から無敵の鉄砲隊・雑賀衆の援軍を依頼する最期の書簡を持っていた(本物は確か東大図書館に寄贈されている)。江戸時代になり初代徳川南龍公になって代官を務めている。いわゆる「何なら代官」で猟官運動をしたのではなく、なんなら代官ぐらいは引き受けましょう、という姿勢である。明治になってからは子孫の森庄太夫が県会議員になり、退職時には南北朝のころから育っていた莫大な森林を地元に寄付している。森家と有馬家は親戚同士の関係だった。以上、子孫のために書き記した次第である。

小学生のころ、私は寝物語に、俳句や短歌の作り方を父から習った。
 小学4年のとき盲腸で一週間余り学校を休んだとき、学習の遅れたぶんを父親が教えてくれた。その指導法は独特のもので、学校で習っていた方法と全く違っていた。数字で計算するところを図形を使って理解するやりかたで、父に習うと難しい内容がゲームのように楽しくなるのである。久々に学校に行くとちょうどテストだったが私一人だけが満点を取ることが出来た。教師が、「習ってないところなのによく解けたね」と褒めてくれた。私は誇らしく、父が教えてくれたことを告げた。

子供のころ夜中に目が覚めて寂しくなり、横に寝ている父親に声をかけると毎回必ず「どうした?」と答えた。これは推測だが、武士は熟睡しないという習慣があったのではないかと思う。私は勝手に「密眠」と名付けている。今でも不思議でならない。

高校1、2年のころ喫煙が父にばれたとき、「そういえばどうも最近一緒に寝ているとタバコ臭いと思っていた」と言われた記憶がある。そんな不良高校生になってまで父親と寝ていたのである。それほど父が好きだった。

高校時代の私は勉強はそこそこ出来るが問題児童であり、教師をつるし上げてその教師を一週間ほど登校拒否にしたことがあるほどの、教員にとっては実に扱いにくいワルだった。
 当時、私の通っていた高校では、男子生徒は後ろの髪の毛を制服のカラー以上に伸ばしてはいけない、という規則があった。私は教員たちに「生徒は自分の肉体まで教員に預けているのではない。他人の髪の毛を切る権利など教員にはない。お前らは勉強だけ教えておけばいい」と言い放って問題になった。担任が困り果て、自宅に訪れて父親に私の言動を伝えたところ、父は「それは息子の言い分が正しい」と答えた。教員は二の句が継げなかったという。この話は、父が死んでから母から聞いた。そんな父親だったから、私は高校二年まで父の布団で寝たのである。

私は文学者になりたかったが、人間の資質を見抜くスペシャリストである父は、しばしば「お前は弁護士に向いているから、法学部を受けなさい」とアドバイスした。当時は馬耳東風で気にも留めなかったものの、さすがに父は良く見ていたものだと、後々分かった。私は普段理屈を言うのはキライだが、言い出すと鬼のようなところがあり、ギリギリと錐で揉みこむような議論が好きだ。もしそちらのほうへ進んでいたら中々の弁護士になっていたに違いない。

私が早稲田大学一年生の夏、父は83歳で大往生を遂げた。日蓮の遺文に成仏の相として「色白く、身は鳥の羽毛のように軽く、柔らかになる」とあるが、まさに父は成仏の相だった。顔は上品に白く、死後2日立っても手足は柔らかく動き、大柄の人間だったにもかかわらず、四人で遺体の入った棺桶を持ち上げるとふわっと頭の上まで持ち上がった。まるで超常現象のようだった。
 火葬場で骨を拾うときに、喉仏が綺麗に残り、その姿がまるで僧が合掌している姿に見え(だから喉仏というのだが)、参列者全員も思わず合掌した。おんぼやき(火葬場職員)も、こんな綺麗な骨は見たことがありません、と褒めてくれた。もっともオンボヤキというものは誰に対してでも骨を褒めるのが仕事である。それにしても美しい喉仏だった。

どう思い出しても、私は父親が胡坐をかいているのを見たことがない。常に古武士らしいたたずまいで正座していた。80を過ぎて膝を悪くした後も、一人椅子に座って背筋をまっすぐに伸ばしている姿しか記憶にない。母に聞いたところ、母も父が胡坐をかいている姿は見たことがないという。20年の結婚生活の間に一度も胡坐をかかなかったというのは、かなり異常なことである。武士の娘に育てられた明治男の、それが美学というものなのだろうか。この逸話ひとつだけでも父の異様な、しかし自然体の気迫というものが伺われる。

時々母と死んだ父の話をする。私は幽霊でもいいから父と再会したいと思うのだが、夢にさえ出てこない。母の夢にも出ないという。一生を自分の意思のままに生きた父のような人間は、もうこの世に未練はないのであろう。
 もし霊というものがあるとすれば、父は今の私をどう思っているだろう。不甲斐ない息子と思っているだろうか。多少は褒めてくれるだろうか。それがいつも気にかかる。仏教では輪廻転生を説く。私がもう一度生まれ変わるとしたら、私は同じ父母の元に生まれたい。そして今度は高校2年生でやめず、父が亡くなるまで一生父の布団で一緒に眠りたいと思う。