那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

良寛さんの短歌

2012年12月18日 | 
選挙も終わり、自公連立政権が始まる。
民主党が余りにお粗末だったからまた昔に返った訳だが、昔と同じことをやっていたら今度こそ本当に国民の怒りが爆発するだろう。

というわけで、今日も簡単に。
以下のサイトに良寛の和歌が紹介されていた。解説も優れているので2首だけ取り上げる。


http://www15.ocn.ne.jp/~kamido/ryoukan/meika1.html

あわ雪の中に顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る

 まず、三千大千世界とは、仏教の世界観による世界のことであり、須弥山(しゅみせん)を中心に日・月・四大州・上天を含む世界を一世界として、これが千個集まったものを小千世界であり、それが千個集まったものを中千世界、中千世界が千個集まったものを大千世界といい、これらを総称していう。
「国上山に住む良寛様の目の前には、あわ雪がしんしんと降り続いており、その中に三千大千世界が視えたのである。その中の一つ一つの世界にもあわ雪が降り続いていることだ」と解釈できる。良寛様の空想の歌であり、あわ雪は総てを覆い尽くすということである。つまりこれは宇宙の総ての世界が同じような現象に覆われるということである。あわ雪ならばあわ雪、花吹雪ならば花吹雪である。宇宙は一つに繋がっているということであろう。とても奥行きの深い代表的名歌である。

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私は子供の頃から、宇宙の中に自分がいるわけだが、自分の細胞それぞれに宇宙がまたある、という感覚があった。もっと極端に言えば、素粒子の中にまた宇宙が存在している(物質の最小単位が素粒子だから物理学的にはあり得ないが)という無限に連鎖しイレコ状に重なり合う宇宙の感覚もある。
 全ての存在が相互にウェブ状態で絡み合っている感覚は一念三千論を勉強したこととも繋がっている。もっとも、こういう風に深読みしなくても、淡雪を通して全宇宙を思い浮かべて万物と一体になっている自分を自覚し、また新たな変性意識のなかで淡雪を見つめている、という風に読めなくもないが、この歌は深読み(創造的解釈)のほうが面白い。
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つきてみよひふみよいむなやここのとを十とをさめてまた始まるを

 貞心尼は良寛様に弟子にして下さいと歌を認め手鞠を置いていったが、その入門の許可の手紙と共にこの返歌が添えられてあった。
「手鞠をついてみなさい。一二三四五六七八九十で、十までついたらまた一から始めます」と直訳できる。しかしこれには深い意味があり、「仏の道はこれで終わりということなく、ずっと続くものです」ということが含まれている。またニーチェがツァラトゥストラに語らせた永遠回帰の思想にもつながっている。とにかく、ここから二人の交流が始まったのである。

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貞心尼は40才年下の良寛の弟子兼愛人。二人の関係に興味のある人は検索してみてください。
 ところでこの歌は少しでも禅をかじった人なら数息観のことが含意されている、と直ぐ分かる筈だ。ストンと丹田に息を収めたら、1,2,3~10まで心で数えていく。途中で雑念(数以外の言葉やイメージ)が湧いたら、また1から始める。見事10まで数えられたらまた1から出直すのが数息観。
 微笑禅のやり方では、吐く息を意識せず、毛穴から漏れるイメージでなるべく長く息をもたせる。すると1分を越えたあたりから密息が出来るようになる。これは一種「皮膚呼吸」のような感覚で、実際は鼻からごく細い息が漏れ、同時に吸っているのでしょうが、「ひと~つ」が何分も持続して嬉し涙が零れ、申し分のない数息観が出来るようになる。
 ともかく、いつも懐に鞠を入れて子供と鞠つきをして遊ぶのが好きだった良寛さんは、鞠つきに例えて、一緒に数息観をやりましょう(弟子入り許可)、と返した、と解釈するのがごく普通でしょう。
 
今日はこれで失礼します。