瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

努力感のないサティ

2005年05月04日 | 瞑想日記
朝の瞑想は50分くらいか。ある程度時間が経つと、あまり努力感なしに自然にサティが入るようになる。これを「集中」が増すと言ってよいのだろうか。「集中」には自我の努力によるというニュアンスが付きまとう。

ただ、努力感なしにサティが続く状態にも程度というか、深さのレベルがある。瞑想をはじめてすぐにこういう状態になれるように、そのレベルが深まっていくように。

後半、努力感なしに腹の動きへのサティが続いていたのに、突然ある思いが入り込んできた。エドワード・ズウィック監督の「ラスト・サムライ」と「グローリー」は、死の描き方がよく似ているということだった。「グローリー」は、南北戦争時、北軍に初めて結成された黒人部隊の最後を描いたものだ。テーマは好きだが、その「栄光の死」を美化する描き方が「ラスト・サムライ」と本質的に同じなのだ。そこにこの監督の哲学が見えるが、私はその不自然さが嫌いである。ああいう死の美化は間違っている。

なぜ瞑想中に突然こんなことを思ったのか分からない。話はまったく飛ぶが、吉本ばななの作品はどれもみな、「死」に深く縁取られている。たとえばこんな文章。
「なぜ、人はこんなにも選べないのか。虫ケラのように負けまくっても、ごはんを作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでゆく。それでも生きてゆかなくてはいけない。
 ‥‥今夜も闇が暗くて息が苦しい。とことん滅入った重い眠りを、それぞれが戦う夜。」(『満月』)
意図してこの文章を選んだわけではないが、エドワード・ズウィック監督の描く死とは、まさに正反対だなと思う。それでも吉本ばななの作品は、最後に淡い光が射し軽いカタルシスと感動がある。