日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

 フィリピの信徒への手紙4:1-3    女性の働き

2015-07-23 11:15:12 | 説教
わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
フィリピの信徒への手紙4:2




 フィリピの信徒への手紙が書かれた理由の一つは、フィリピの教会の有力なメンバーであった二人の女性信徒の間に、どういう事情か知らないが、仲違いが生じ、それが教会に暗い影を落とし、教会の一致を妨げていました。
その不和の問題を解決するためにこの手紙が書かれました。
二人の女性の名は、エポディアとシンティケといい(2節)、フィリピ教会形成に大きな働きをした女性たちであった。

  人間の仲違い(不和、争い)というのは、堤防の亀裂(きれつ)のようなもので、それが小さいうちに修理されないと大きな亀裂を引き起こし、甚大な被害をもたらしてしまう。
どうもこの二人は教会の中で敵対関係にあったようです。しかもそれは恋のライバルとか、家族騒動とかいうような個人的な争い、いがみあいではなく。教会の中の問題をめぐって対立していました。
フィリピの教会はもともと、女性の働きによって生まれました。パウロはこの女性達とも一緒に働いたこともあり、信仰の同士として活躍した人たちでした。
熱心に活躍していたゆえに、対立は激しく、修復しがたい状況にあったということが想像されます。意見は激しくぶっかり合っていました。
愛とゆるしの福音が語られているのに、争いが長く続くというのはいかなることかた、パウロ自信も悩んだようです。
主イエス・キリストは、こんなことを言っておられます。
「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物をしなさい」(マタイ5:23~24)。
 もちろんささげものも大事です。しかし人といがみあったまま、み前に立つて、ささげものをしても、神様は喜ばれません。
 フィリピの教会においてもそういうことがあったのでしょう。わざわざ二人の女性の名前を掲げて、パウロは和解を勧めます。「主において、同じ思いを抱きなさい。」
「主において」という言葉は、「主の中で」とか、「主に包まれて」と訳していくことができます。人間の生きる道は「主に包まれている」のです。私たちは、主イエスの愛のうちに生かされているのです。1節には「主によって、しっかりと立ちなさい。」と言われます。そして2節には「主において同じ思いを抱きなさい。」と、そして4節において「主において常に喜びなさい」と言われるのです。7節では少し形は違いますが、同じことを意味して「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 主にあって同じ思いとなることは、自己中心・虚栄を捨て去り、謙遜と他を顧みる心を持って、互いの間に一致を保つことであります。
パウロは、この二人の女性に対して、イエス・キリストによる和解の道を示しているのです。それは「主において同じ思いを抱きなさい。」という道、「主イエス・キリストに包まれている者」という思いに立ち返りなさいということです。
 私たちは主イエス・キリストという土台のもとに、主の愛を求めて「同じ方向」を向くのでしょう。
使徒はここで大切なことを教えています。
人と争わない寛容な心の必要性である。キリストにある赦しの心である。相手をさばくのではなく、包み込んでいく広い心である。そのような寛容さを皆の人に示しなさい。
争い合った二人の女性。ひとり一人を見れば、立派な信仰者でありますが、二人合わせるとうまくいきません。はりあったり、やっつけあったり、破壊しあったり・・・二人がひとつ思いになるために、もう一人、真実の協力者が必要であるとパウロが述べています。
ジュジュコスというギリシャ語が用いられています。真実の協力者とは誰でしょうか。
どうしてこの人だけは名前が伏せられているのかを考えさせられます。
 「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」とお願いしている。

 当人同士では、なかなか和解をすることは、難しいものです。いくら、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧められても、感情がついてこなかったり。それゆえに、真実の協力者に、間に入って、支えてほしい、仲裁してほしい。祈ってほしい。そう願います。
 私たちは互いに助けてくれる存在が必要です。
エボディアとシンティケの不仲に心を痛めるのは、パウロだけでなく、周りの人たちも同じ思いでしょう。又エボディアとシンティケ自身にも痛みであったと思います。
 パウロが語りかける「真実の協力者」とは、私たち一人一人のことです。
「真実の協力者」と言う言葉には、同じ軛につながれた者というような意味合いがあります。つまり、教会不和の問題は、同じ福音に生かされている者にとっては他人事ではないのです。
自分たちを支配し、人間を高ぶらせ、傲慢にし、対立させようとする罪の力に対して共に戦っているという事実が忘れられる時、戦うべき敵の力に捉えられ、むしろ戦友との戦いに奔走してしまうのです。信仰者たちは、共に戦うべき敵を見すえつつ同じ戦いを戦っていくことが大切なのです。
私たち一人一人が、エボディアとシンティケのために祈る事こそが、時代を超えて私たちが全てのキリストに連なる人々から祈られる存在であるという事にもなるのです。私たちがエボディアとシンティケの為に祈るとき、エボディアとシンティケもまた、聖書の彼方から私たちのために祈っていることでしょう。
 4節において、「主において常に喜びなさい」とパウロの一番美しい言葉が記されています。白鳥は死に際して、生涯で一番美しい声で鳴くと言われています。
 主おいてがなければ、受験合格 結婚 出世など、自分の努力でいいことが続くことが求められていきます。しかし、主あってということがつくと、好条件の中に置かれてなくても、喜びがあるということです。これは、希望と救いの確信があるということです。
これと同じように主において同じ思いとなるということにも、深い意味があります。
 憎み争いの現実の中にも、主が来たりて、共にいて下さり、一致へと向けて下さる。そそこに思いを向けることです。

最新の画像もっと見る