日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マタイによる福音書21:28-32「信仰による生涯」

2017-10-20 11:17:28 | 説教
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
マタイによる福音書21:29



 この聖書箇所は主イエスと敵対者との論争の中でなされたイエス様の譬です。格闘技をテレビで見ると、その息づかい・体と体がぶっかる音などが聞こえてきます。
 この譬えも、緊迫した論争の中でのぶつかりの中で生まれてきたものです。
口語訳聖書では、兄と弟の態度が逆転しています。最初に良い返事をして、行かなかったのは兄の方としています。その理由は伝承が二つあったということが想像されます。
いい返事をしたが、拒否したのは兄の方がふさわしいと考えたからでしょうか。選民思想を持った民で、主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ教の指導者を、頑なものに固定しようとしている試みを見ることが出来ます。神の教えに出会ったのが圧倒的に古いユダヤ教の指導者を主に従うことの出来ないものと確定しているのです。
 共同訳の立場にたてば、良い返事をしつつ、従わない弟に象徴されるように、この状況は後で福音に触れた私達にも起こりうることであります。
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
「二人の息子のたとえ」そのものはとても分かりやすいたとえと言える。「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」と父親に言われた二人の息子たち。「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた」。それに対して「弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった」。「承知しました」と答えても出かけなった弟よりも、「いやです」と答えたけども、後になって出かけて行った兄の方が「父親ののぞみ通りにした」というたとえです。
本当は、二人の兄弟のいいところをとって、いけばいいのですが。兄の方だって、最初は拒否していたのですから、100点満点とは言えない状況です。
 どちらの息子も完璧ではありません。根本のところで、二人とも反抗の経験があったということです。
 ただ、大切なことがあります。それは後で「考え直す」ということです。
 この譬えを従う人と従えない人と二元化してとらえる方法もありますが。私のとらえ方としては、人間にはこの二つの可能性があるということです。「従います」といい返事をしても、自分の弱さや環境の変化から、従うことがむずかしくなったり、でも「考え直して」、立ち返ったり。
 赤ちゃんが、いろいろな事にチャレンジしたり、泣いている状態から立ち上がることが出来るのは、お母さんという安全基地があるからです。愛に支えられてこそ新しい一歩を踏み出せるのです。やってみようという気持ちが起こります。
 この関係が弱いと、新しいことに取り組むことも力も弱くなります。大人になると、新しい事柄へのチャレンジに対して、消極的になりがちです。又新しい使命に従いえない現実があります。
 しかし、「私がいつも一緒にいる」「失敗してもフォローしてあげる」「転んでも立ち上がれるように助けてあげよう」と言って下さる方がいれば、チャレンジする力、ぶどう園で働く力が与えられるのです。
 兄が「考え直す」ことが出来たのは、二人とは別の兄弟のおかげです。その兄弟とはイエス様です。
  敵対者達は主イエスを殺そうと闘いを挑みます。主イエスは、そのような者を真理へと導こうと愛に基づいて闘っておられます。このぶつかりの中で出てきた音が、今日の譬えであります。
イエス様の深い愛がぶどう園への道を切り開いて下さるのです。洗礼者ヨハネを越える愛の主イエスが、私達の安全基地となって、新しい使命へと押し出して下さるのです。
 このイエス様の愛に心打たれる時に、考え直すことが出来ます。
この譬えを通して、主イエスの私達を救おうとされている熱い思いを受けとめましょう。
信仰による生涯とは後で「考え直す」という、救い主との交わりを深めていくことです
 「いやです」と返事をしても、反抗的な態度をとっても、その間違いに気づいたなら、後で考え直して行動する。それが、父親の望みどおりなのです。神さまの望みどおりなのです。
 
 塚本虎二先生がこのようなことを言っています。「ここにキリスト教なる登り口がある
1900年の間おおくの人に踏みならされた、平丹な、決して迷うことのない、しかも一番の近道がある。これはいかなる足弱も、心臓の弱い者も、老人も、少女も、いな弱い者であれば、あるだけ、やすやす登ることが出来る。ところが、不思議にも人はなかなかこの道を選ばない。なぜであるか。この登山口では、最初に謙遜の谷を通らなければならないからである。しかし、他人は知らず少なくとも私は、キリスト教口のケーブルカーによって登る。」
 キリストのもとで、考え直す、自分の力を誇らず、謙遜にキリストの助けを受けることが、後で考え直すことで、一番大切なことではないでしょうか。

最新の画像もっと見る