小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

アンダークラスへの転落不安

2019年07月19日 | 社会戯評

=アンダークラスへの転落不安:

学者というモノは、過去の緻密な分析を行えても、その過去から、未来を予測するような洞察を、提示できる人間に、巡り会えず、これまでも、何人かのメデアで、華々しく持ち上げられたものの、いつの間にやら、消えていったことを、思い起こす。それにしても、就職氷河期以来の第一次フリーター達が、まもなく、60歳を迎える時期になる今日、これまでの<中間層という概念>が、確かに、年金2000万円問題等により、改めて、階級社会という懐かしい概念やアンダークラスという概念に、眼を向け始めるきっかけが訪れつつあるという現実には、驚かされる。そうした不安にも関わらず、何故、若者は、安定志向に向かい、怒れる元若者の年寄りが、デモに参加するのであろうか?そして、政治、とりわけ、野党というモノは、与党のリベラルも含めて、こうした流れに抗する<アンチテーゼを打ちだせないのであろうか>?昔ならといったら、笑われてしまうが、振り子が、どちらかに揺れると、所謂、保守層からでも、リベラルという、或いは、新保守主義という改革の芽が、伸びてきて、バランスが、保たれるにも関わらず、トランプやミニ・トランプではないが、一向に、そうした、傾向が、日本のみならず、全世界的な傾向で、進行中である。雇用・移民・失業・社会保障・貧困格差・テロ・健康不安・GAFA一極支配、等、どれをとっても、明日への不安、未来への確信が、持てない、<依然として不確実性の時代>なのであろう。非正規雇用という形態や、竹中や小泉が推し進めたグローバル化に乗り遅れる式な国際競争力維持への恫喝も、今になってしまえば、ある種の懐かしさも感じられるのは、皮肉なことである。決められない政治の図式から、一強多弱の<何でも決められてしまう安定志向への恫喝の図式>と、どこが、一体全体、違うのであろうか?個人の自助努力による能力のアップやアンダークラスへの転落不安や可能性を、<全面的な自己責任論>に、果たして、委ねることは、正しいことなのであろうか?最低限度のミニマム・セイフティー・ネットの構築や、社会保障政策、弱者救済、利益再分配の仕組み作りがなければ、いつまでたっても、相変わらず、絶望感や諦め意識の解消には、いたらないであろうし、秋葉原での過去の無差別殺傷事件ではないが、紙一重で、同じ環境にも関わらず、自制して、踏みとどまったという、似たような環境にいた元同僚のコメントではないが、そういう個人倫理や意識のありようで、問題解決して宜しいモノなのであろうか?アントレプレナーは、GAFAではないが、恒に、先進的なビジネス・モデルを構築して、リブレではないが、暗号技術などの最先端技術革新の先を行き、ヒトは、後追いを強いられ、学者は、或いは、政治家は、未来への処方を提示できずに、置き去りを強いられているのが、現状である。社会の分断とか、中間層の没落、とりわけ、健康不安・役職定年制による年収減収不安などによる、誰でもが、<陥りやすい平等なリスクの社会>には、民主主義とは、資本主義とは、一体、何なのか?或いは、<人間の平等>とは、何なのかを、改めて、金持ちも、貧乏人も、階級を超えて、考えざるを得ない状況が、すぐそばまで、来ていることは、間違いなさそうである。それとも、こうした現代社会の兆候を、何らかの形で、排外主義や、一国優先主義や、愛国主義などという、<疑似的な自己正当化手段>で、乗り切ろうとしてゆくのであろうか?或いは、荒っぽい、<自己責任論で一刀両断>して良いものなのであろうか?学者も、況んや、政治家も、与党も、含めて、とりわけ、野党も、宗教界も含めて、未来への処方箋を出し得ていないようである。

さて、一時、雨も止んだようだから、期日前投票へでも、散歩がてら、足を運ぶことにするかな!?



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