小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

信州サーモンの成功に続け!:

2012年11月15日 | 社会戯評
信州サーモンの成功に続け!:
イワナやヤマメ、ニジマスといった養殖マス類の生産量が、静岡県に次いで、長野県は、二番目だそうである。県が開発した「信州サーモン」の成功に続けとばかりに、ブランド魚作りの行方は、産地の将来を左右しそうな勢いである。養殖の半分以上を占めるニジマスの消費低迷もあって、生産者も半減、消費量も3分の1に減少しているそうである。ニジマスとブラウン・トラウトを交配させて開発した信州サーモンだけではなく、今や、大型イワナの開発の目途がついたらしい。既に、受精卵の温度管理の最終段階であるらしい。今後10年程度を目途に、大型イワナだけでなくて、更なる新品種、消費者ニーズにあったブランド魚のマーケティング開発に、官民一体となって頑張って貰いたいものである。佐久の養殖鯉だけでなく、安曇野や、その他の地域が、県内でも互いに、切磋琢磨して競い合って、近隣周辺県との競争を勝ち抜いてもらいたいものである。肉の色目が、信州サーモンの紅色に対して、白身で、日本人好みで、「紅白」とは、めでたい話になると良いが、、、、、、、。一日も早く、我が口に入ることを願ってやまないものである。こちらは、食べることで、協力をする所存であるが、、、、、、。海に面していなくても、陸上での魚介類の養殖など、鮑・トコブシ・とらふぐ等、技術開発で、成長戦略の一翼を担えるものは、もっと、あるであろうと思われる。



渋柿に想う:

2012年11月14日 | 俳句・漢詩
渋柿に想う:
東京のスーパーには、まず、渋柿は、売り場には置いてないが、小諸では、恐らく、手作り干し柿用なのであろうか、産直売り場やスーパーでも、見かけるのは面白い。そう言えば、昔、私が、子供の頃、祖母が、柿を食した後で、その種を播いたところ、芽が出て、大きくなり、実を結び、食べたところ、渋柿で、結局、ポリ袋の中に入れて、アルコールを噴霧して、暫く置いて、甘くなってから、良く食べた想い出がある。それにしても、里山では、随分と数多くの柿が、鈴なりになって、食べられることもなく、そのまま、実もたわわになっているのには、驚いてしまう。野鳥たちは、餌には、事欠かないであろうか?赤く色づいた葉に、夕陽が沈む暮れなずむ頃に、柿の実がなっている情景は、何とも、言えない趣きと里山の原風景がある。そんな時、どこからともなく、遠くから、梵鐘の音が聞こえてこようものならば、更に、嬉しくなってしまう。我が老犬は、知ってか知らずか、トボトボと、臭いを嗅ぎながら、力なく、歩いて行く。廃屋の傍らに、一本、柿の木が、静かに佇んでいるように、立っている。熟れた柿の実が、主じの帰りを待っているかのようになっている。一句、浮かんだので、書き留めることにしよう。
  廃屋に あるじなしとて 熟柿おり
  Abandoned house Nobody lives there Ripe persimmon



小布施、青い林檎の物語、プライムリー:

2012年11月13日 | 社会戯評
小布施、青い林檎の物語、プライムリー:
栗菓子で著名な小布施が、イギリス生まれの青い林檎、料理用に適するプライムリーという新たな品種を、開発栽培・販売マーケティングする過程をルポルタージュした信越放送の番組を視たが、なかなか、面白い取り組みである。とりわけ、農家、開発公社、消費者ファン、そして、料理方法の開発と洋菓子屋、和菓子屋、蕎麦屋、洋食・和食レストランなど、加工業者、並びに、広報・ブランド認知PR活動の包括的な取り組みは、信州産の農産物の生産・販売の在り方を、モデルケースとして示唆しているような気がしてならない。中でも、都会の消費者ファンへの直接的な組織化、ファンクラブ作りとか、或いは、肉との相性の良さの良さ、手造りジャムへの応用とか、マーケティング・商品開発での積極的な対応など、街をあげての活動は、ある種の「成長戦略」への提言とも云えなくはない。それにしても、タルトやアップル・パイ、パフェ、肉料理、ジャム、道明寺のような和菓子、コルゴンゾーラ・チーズとの青林檎ピザ、更には、青林檎の香りがする創作蕎麦まで、、、、、、、商品・品揃えの幅が、これでもか、これでもかという程の拡がりには、驚かされてしまう。たしかに、フルーツ・バイキングとか、りんご・ブドウ・なし・柿とか、著名なフルーツ・パーラーだけでなくて、日帰り温泉施設の食事処でも、工夫して、味わう場所があっても良いのではないだろうか?旧態依然たるやり方では、浮気な消費者は、逃げて行ってしまうことは必定であろう。何も、小布施だけのノウハウにとどめておくのは、信州としても、勿体ないのではないだろうか?再放送を期待したところである。



田島征三著・絵、「絵の中のぼくの村」を読む:

2012年11月12日 | 書評・絵本
田島征三著・絵、「絵の中のぼくの村」を読む:
小諸の大浦にある茶房、「読書の森」から、本をお借りしてきて、読むことにした。
少年の日々は、いつだって、生傷だらけだったと、著者は云う。肉体的な傷だけでなく、そのまだ、大人になりきれていなかった少年の精神は、この一卵性双生児の兄弟の弟の方である著者にとっては、自分自身の内的世界そのものか、丁度、反面鏡を見ているようなもので、もう一人の自分であった、、、、、、とも。喧嘩をしても、禁断の悪戯をしても、川で、溺れかけても、魚釣りをしても、野鳥捕りをしても、友達から虐めを受けたり、のけ者にされたり、或いは、自分よりも弱者を虐めたりしても、更には、母から教えられた性教育ですら、それらは、全て、少年の時の「今から想えば」、大人に成長する為に、必要だった時間と経験だったのかも知れない。高知の、未だ、手つかずのままに残されていた当時の自然と、現実的な戦後間もない厳しい生活環境、貧富の格差、親族・家庭環境の中でも、そこには、被差別の問題もあり、その限られた友達付き合いの中にも、決して、無縁な世界ではなかったし、或いは、今ならば、考えられないような教師による虐めや鉄拳制裁や、病気や怪我や、他人に、傷つけられたり、逆に、悪意がある訳でもないのに、知らないうちに、他人を、弱者を傷つけ、その結果、自分も傷ついてしまう。あらゆる経験が、時間の経過と自然という原風景のフィルターの中で、懐かしい想い出へと移ろい、歳を経ても、それらは、決して、消え去るものではない。しかしながら、それらの村は、或いは、そうした出来事や自然そのものも、動物たちや物の怪も、開発と便利さというもので、もう、自分の描く絵の中にしかない、、、、、、、、、、と。傷つけやすく、自身も又、傷つきやすい少年の日々は、今も、心の中に、宿っている、、、、。
原作が、映画化されて、第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞をしたというので、今度は、映画をDVDで、観ることにしよう。
PS) どうらくオルガンちちんぷいぷい、他、新潟県十日町市にある「鉢集落と田島征三、絵本と木の実の美術館」HP:http://www12.ocn.ne.jp/~ehon2009/


俳優、高良健吾を逆戻しに観る:

2012年11月11日 | 映画・テレビ批評
俳優、高良健吾を逆戻しに観る:
NHKの連続ドラマ、「おひさま」で、大人しい真面目な夫役で、その俳優を知ったものであるが、たまたま、ビデオなどを、選んでいたら、随分と、歳が若い割に、色々な作品に、出ていることが分かったので、時間を遡って、逆戻しに、それらの作品を覗いてみることにした。それにしても、俳優のイメージというものは、その作品によって、多いに、異なるもので、ある種固定観念や、フィルターを通してしか、その演技を観られなくなるのではないだろうか?だからこそ、時間を逆戻しにして、初期作品へと遡ってみてみることは、決して、遠回りなことではなく、その俳優の個性と演技を再評価してみることにな留のではないだろうか?それにしても、端正な顔立ちで、色々な作品で、ワルやら、チンピラ役を演じたり、更には、簡単に殺されたり、自死したりと、なかなか、巾が広い、むしろ、真面目な役などは、これまでは、余り演じていないことが分かったことは、実に、面白いことである。「蛇とピアス」、「軽蔑」、「ノルウェーの森」とか、固定イメージを壊しながら、観賞するのも、悪くないと思ったが、作品を理解するのは、なかなか、難しかったが、、、、、、、、。日本人の気質の中には、お笑い芸人やAKB48ではないが、将来どうなるか分からないが、デビュー当時から、暖かく見守って応援するというようなものがあるように感じられるが、、、、。逆廻しに、時を遡ってみるのも悪くはなさそうである。



ネット・バンキングとスパイアイ:

2012年11月10日 | 社会戯評
ネット・バンキングとスパイアイ:
何とも、ものぐさな人間にとっては、ネット・バンキングは、随分と、便利なシステムで、多少、セキューリティーが、ややこしくても、その利便性の恩恵には、大変、感謝するものである。しかしながら、反面、海外の事例をみるまでもなく、スパイアイなどによって、具体的な被害が生じていることは、知っていたものの、実際、日本でも、大手の、しかも、自分が利用しているネット・バンキング・システムで、被害が報告され、しかも、HP上で、警告もされようとは、、、、、、、。なりすましだけでなく、実際、アンチ・ウィルス対策も難しいようなウィルスが、出てくる現状では、どのように、自らのセキューリティーを担保・保全したらよいのであろうか?カードには、個体静脈識別のようなものがあるのに、、、、、、。何とも、皮肉なものである。出所不明の無料ソフトのダウンロードや、違法コピー、違法ダウンロードなどをしないとかは、当たり前なことではあるが、パスワードも、大文字小文字・英語・数字等の組み合わせを、もっと、複雑化しなければならないのであろうか?キー・ロガーや、フィッシング・サイト等も、つい先頃のことのようであったが、、、、、、、。いずれにせよ、適宜、口座の引き出しが、不正にされていないか、自分で、チェックしてゆかなければならなくなりそうである。全く、ややこしい、悩ましい問題である。無限な便利さと安心は、どうやら、無いものと思わなければならないようである。それにしても、目まぐるしい程に、変化が加速されてきて、ついて行くのも大変な時代である。




広葉樹林の別世界を愉しむ:

2012年11月09日 | 自然・植物・昆虫
=広葉樹林の別世界を愉しむ:
しばらく、東京へ戻っていたが、又、小諸へ戻ってきたら、里山は、その秋の彩りを、まるで、別世界のように、変容させていた。針葉樹も、唐松の黄金色も悪くないが、やはり、針葉樹は、冬の厳しい環境の中で、とりわけ、凍てつく寒さと大雪の中でも、凜として、佇立している姿が、何とも、存在感があって、理想的なように思われてならないが、、、、、、。それに比して、広葉樹の森は、何とも、秋らしく、やや、「柔らかな感じ」がしてならない。針葉樹の葉の形と違って、その葉の色の変化も、或いは、微妙な紅葉の仕方も、実の付け方も、実に、季節の気温に、適合したようなそんな「柔軟性」を感じざるを得ない。緑色や薄緑色だった世界も、今や、黄色、深紅、薄紅色、薄茶色、茶色と、まるで、その色のグラデーションを、これでもか、これでもかと、競うかのように、様々な色の爆発、オンパレードである。それにしても、生物多様性ではないが、色々な種類の広葉樹があるものである。そして、木々の種類、生育する場所の特性、陽の当たり具合、或いは、同じ種類の樹でも、早く紅葉するもの、遅く紅葉するもの、「色の変化」は、人間の独自な文化、考え方、感性を、磨き上げるよう気がしてならない。落ち葉の臭いとか、落ち葉を踏みしめる時のその跫音とか、或いは、太陽の陽のひかりの微妙な射し具合、逆光の中に輝く葉が、透けて見える瞬間の木漏れ日のしなやかな美しさなど、春とは異なる、或いは、夏とも、冬とも異なる初秋の、晩秋の趣きなどを愉しめることは、有難いことである。おおいに、広葉樹林からの柔らかな自然の恵みに感謝したいものである。モミジの落ち葉を今年は、押し花でなくて、ラミネートに直接、閉じ込めてみたが、、、、、、。



福岡伸一著、「せいめいのはなし」を読む:

2012年11月08日 | 書評・絵本
福岡伸一著、「せいめいのはなし」を読む:
専門分野が異なる4人のゲストとの対話を通して、生物、経済、時間、文学、意識の問題に関して、多岐に亘って、「動的平衡」(動的平衡とは、絶え間なく要素が変化して、更新しながらもバランスを維持するシステム合成と分解の最中にあって作り変えられてゆくその一片は、取り替えられているにも関わらず、全体として恒常性、バランスが保たれた状態。ある種の平衡が保たれている私達の身体は、分子のゆるい淀みで在り、絶え間なく分解され、新たに取り込まれたものに置き換えられ、個体は常に外界と入れ替わってゆくようなものである。そこにあるのは、流れそのもので、その中で、全体として一定のバランス、恒常性が保たれた状態のことを、動的平衡と謂われる。) というキーワードを媒介にして、新しい生命観を、読み解いてゆく。3.11以降の現代の諸課題に関しても、もはや、科学だけでは語れない、相補的に、科学は、文学を、文学は、科学を必要としているなど、今日的な課題への解決の「思考上の示唆」を多いに含んでいるところがある。分子生物学者らしく、今、注目されているES細胞やips細胞やついても、(それらは、まだまだ、分からないことが多いので、癌治療の応用を、急ぎすぎてはいけない。ブラック・ボックスが未だ残っている。)という著者独自の見解を付け加えているのは、興味深いし、そもそも、分子生物学者から眺めた新しい視点が、何より文系重視、金融工学重視の昨今には、実に、耳が痛いところが多く感じられなくはないが、、、、、その意味で、こういう視点が、もっと、具体的に、色々な分野で、傾聴されても然るべきではないだろうか?否、もっと、そうされて然るべきかも知れないとも思われる。どういう方法でこの世界の成り立ちを解明してゆくかという点では、文学でも、芸術、哲学でも、共通しているが、自分の映し鏡というか、自画像を描いているように、思えると、電子顕微鏡を通しても、そうであるらしいが、、、。
「言葉」とは、「記憶と意識」とは、「秩序と時間」の概念、「情報」とは、「神の摂理」とは、「メカニズム」と言う言葉とは、「効率と進化論」、「生きる」こととは、「物事を観る」と云うこととは、等…、根源的、且つ哲学的な課題も、この「動的平衡」というキーワードの前には、改めて、それらの問いは、考え直されて然るべきであると思わざるを得ない。もっとも、著者によれば、もはや、科学だけでは語れない今日、相補的に、科学は、文学を、文学は、科学を必要としているものの、無原則的な「組織論」等への拡張に際しては、その相補的な関係性をどういうものに置き換えるかと言うところに注意することが、重要であり、その相補関係は、時間の関数でもあり、文化の流れとして張り巡らされているものであることを念頭に置いて考えられなければならないと歯止めも忘れていない。今日、科学の想像力は肥大化して、すべてがメカニズムとしてある種の因果律でコントロール出来ると考えてしまうと。確かに、物事を解析するときには、この言葉を、我々は、今日、使いがちであるが、、、、、。メカニズムという言葉が持つ、この機械的な世界観にこそ、真実の自然があると現代人は勘違いし、世界の全てが、コントロールできると錯覚し、その果てに今日の文明の問題があるのではないかと思いがちであることは、間違いないだろう。世界を秩序として、捉えたいという脳の癖こそが、希望であるとも。メカニズムは、各パーツが固有の機能を分担することで成り立っているが、それぞれの機能は全体に繋がっているものである。

「生きている」と云うことは身体の中で、合成と分解が絶え間なく、ぐるぐると回っているその流れで、これこそ、生きていると言うことなのであると。一生懸命壊すのは、壊さないと新しいものが作れないから、壊すことによって、捨てるものがあると。何やら、身体の中では、自然に、既に、生まれたときから、スクラップ&ビルドが、組み込まれているようであるが、、、、、。「生命」とは、「動的な平衡状態にあるシステム」で、換言すると、可変的なサステイナブルであることを特徴とする。物質的な構造基盤にではなくて、この流れに準拠しているそれは、又、受け容れたものを多様な形で、次に送るときに、一番必要としている受け取り手を過たずに見つけて、そこにピンポイントでパスを送り込んでゆくことではないか?まるで、ラグビーやサッカーのパスのようなボール・ゲーム理論の如きである。コミュニケーション、生きる力そのものと等しいのではないか?と、鬱病なども、むしろ、細胞に尋ねた方が、良いのかも知れない。逆に、ネットという匿名の空間、個体識別出来ない言論活動というものは、実は、名前を秘匿するという意味の「匿名」ではなくて、まだ、自分になりきれていない、名乗るべき名前が未だない人間の世界なのであると。
分子生物学的なレベルで起きている「個々の細胞のふるまい」と社会活動のレベルで起きている「個々の人間の振る舞い」の間には、「構造的な相同性がある」のではないか?停滞する今日の経済システムにしても、経済システムの生命が、だんだん、衰弱しつつあり、商品の実用価値から、象徴価値へのシフトへ、誇示的消費とアイデンティティーの問題について、まだ、アイデンティティーがないから(お金がないから)という社会的な不遇を名無しという名乗りによって、誇示しているとも、パスの仕方においてのみ、その人のアイデンティティーが、示されるのではないかと。贈与経済(富)のパスの仕方とボール・ゲームの比喩を挙げて、退蔵してはいけない、グルグル廻していかなければ経済活動も死んでしまうと分析する。生物学の「動的平衡」の理論が、経済活動の本質にも応用できるのではないか?と論を展開してゆく。
細胞とは、周囲の細胞によって自分が決まるもので。細胞が何の細胞になるかは、予め、内部的には、決められていない。前後左右上下の細胞との関係性によって初めて、何になるか決まるのであると。「自分探し」の例えを引用して、自分の中には、自分はいないし、そんなことに時間を費やせば、結局、「永遠の旅人」になってしまうと。自分とは、他者と差別化されることで初めて生まれる概念であるのではないかと。ES細胞とよばれるものは、コミュニケーションが取れずに、空気が読めなくなった細胞であり、自分では何にもなれずに増殖し続けるものであると。まるで、自分探しをしている永遠の旅人、時間が止まった細胞、何にもなりきれずに、どんどん増殖して癌細胞になってしまうものであると、確かに、山中教授によれば、時間を遡って、遺伝子操作を通じて、巻き戻しした結果、ips細胞が、発見されたと云っていたことを想起する。ES細胞、ips細胞と癌細胞は、ある種似ていて、癌細胞は、何でもなり得るはずの状態に戻ってしまって増え続けるし、ES細胞、ips細胞はこれから何ものかになる訳であるけれども、なりきれずに増え続ける。両方とも、ある時点で立ち止まって足踏みをしている「自分探しの細胞」であると。なかなか、面白い比喩であるが、、、、、、。

空目の例えから、科学者は、観たいものを選択的に観るというところから免れることは出来ないのではないか?客観的現象が出てくるのではなくて、自身を丸ごと対象に投影して、自分を通じて、自然現象を捉えているのではないか?と。映し鏡や、自己投影ではないか?
原因が結果を生み出す「因果関係」ではなくて、絶えず、逆転して、相補関係にあって、どちらが先かは、特定できない、そういう「共時的関係」があるから、動的平衡が維持されるのではないかと。
どこかに、「神の摂理」はあるのか?常に、「原因と結果を結ぶ通路があるはずである」と、思いがちであるが、しかし、因果律は存在しないのではないか?と。もっと、「多元的である」と。何かを選び取ることは、並行する別の可能性をすべて壊さないと選び取ることはできないとも。本当の因果律は、存在しないのではないか?と。すべてが同時的に並行であること、これが、本当の自由であると。しかし、人間は、自由が怖いのではないか?と。
効率と時間は、常に、「分母が時間」で、割り算した結果、動的平衡はダイナミックな運動の中で、全体としてバランスが保たれている状態であるのに、「効率」とは、正反対の概念である。騙し騙しやることが出来なくなってしまった現代、白黒をつけたがる、「安易な効率化」が横行していると警鐘を鳴らす。遺伝子の基本姿勢は何かを厳密に定めているというよりも、むしろ、「自由度や過剰性」を担保している。ダーウィニズムが考えてこなかった「生物の自由さ」の問題があり、進化論だけでは全てが、読み解けないとも。ダーウィニズムでは、「退化」を説明できない、機能が無くなることで、逆に、有利になる状態でなければ無くならないのでは?。生物を顕微鏡で覗いていたりすると、「そうに違いないと考えていたことが、実は、全然、そうなっていないということ」の方が一杯あると。大切なのは、そういう感覚が持てるか持てないかである。電子顕微鏡を覗いている経験から、「見えるもの」は、実は、「本当は見えないもの」であると。この辺は、分子生物学者の実証的な経験から導き出されてきているようであるが、興味深いモノがある。まるで、哲学的な禅問答のようであるが、、、、、。更に、対話はどんどん進む。
「記憶とは、何か?」瞬間瞬間で新たに作られているもので、必ずしも、蓄積されていたものが蘇るものではないと、電気信号は、流れるとすぐに消えてしまう。生命にとって、「情報」は、消えることに意味があり、「すぐ忘れて消える」ことに意味があって、いつまでも変わらずに、残っていては情報にならないのである。生きていることは現象であり、常に動く機能であって、自己同一性を担保しているものは何もなく、人間の精神作用として、時間に錨をつけてどこかにつなぎとめておきたいと思うらしい。字に書いたり、記憶にとどめて整理しておこうとするのは、生命が瞬間的な現象であることに抗っているのであると。一時の流れを「点」にして捉え、ある時期に、名前をつけて、言葉の意味を地層として重ねて考えるのが人間である。画家でも天文学者でも数学者でも、この世には、目には見えないけれど美しい構造が存在していると信じる人がいて、その構造を記述可能なものにしたいという強い欲望があると思われる。瞬間的にどこかへ消えてしまうものを記述したい。フェルメールは、移ろいゆく光をとどめたいと願っていたと、確かに、著者は、フェルメールの作品に関しても著作があるのは、面白い。「美しさ」というものは、そこに客観的にあるのではなくて、動的なものをみたときに、自分の内部に立ち上がる作用として現れるものであろう。小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさというようなものがあるのではない。」という譬え話も、、、出てきて、分子生物学者の観点から読み解くとは、実に、面白いではないか?小林秀雄も、ビックリではないだろうか?。
生命現象の最大の特徴は、細胞一つ一つは全体のマップを持っていないのに、相互補完、関係し合いながら、分化を進めて、全体としてはある秩序を作ってしまうことである。「生命」は、その意味で、マップ・ヘイター、地図嫌いであり、鳥瞰的に設計されたものではなくて臨機応変に関係性を頼りに発生してきたものであると。偶然性と必然性、因果論による歴史観への疑問までも呈する。
「形態と意識」の関係、「秩序と時間」の関係、生科学はもっと絶え間のない動態のはずで、一瞬たりとも同じことは起こらないし、一回切りであり、時間を止めて見てしまう。人間の意識は、止まっているものしか、扱えないと。「情報とは、止まっている」ということを人は意識していない。
ものごとは、動的状態が本質であるとは考えられず、情報の方が本質的であると考えるのは、全てを言葉で表現しようとするプラトニズムであろうと。言葉が重すぎる時代になってしまったのではないかとも、、、、、。
あるときに一瞬に平衡状態をとるが、それがその時々の意識や注意と言うものなのかも知れないと。動的平衡が成立したときの機能こそが「秩序」であるのではないかと。意識は止まったものしか、見えない。情報は止まったものの典型である。時間を止めて秩序をみて、効率よく動く方に組み換えることが有利だとされていると。確かに、時間よ止まれ!と歌詞にも出てくるが、、、、、、。
この本には、確かに、こういう「動的平衡」という概念を、切り口にして、色々な事象を改めて見直すという面白さがあるように感じられる。山の景色も、里山の原風景も、植物や昆虫も、人間関係ですら、様々な事柄を、こういう視点から観るのも、良いかもしれない、、、、、、、。ダンゴムシですら、今度、観るときは、別の視点で、眺められそうである。一寸、人生、視点が変わって面白そうである。別の地平が、見えてきそうで愉しみであろうと思われるが、、、、、、、。



主審の誤審を考える:

2012年11月07日 | 社会戯評
主審の誤審を考える:
人間だからこそ、間違いはあるものの、、、、、、、これだけ、スローモーションのVTRが、発達していても、プロ野球というルールとは、何とも、面白いものである。決定が、そもそも、客観的に、第三者を交えて、検証されることがなく、且つ、その結審が覆らないというのも、何とも、この社会の一面を確実に、見せつけられたようで、実に、面白い。加藤という打者の演技も、何か、最近の「なりすまし」的な素晴らしい「騙し」をそこに垣間見られて、フェアープレー精神などは、どこかに、ぶっ飛んでしまったような気さえする。それは、まるで、社会の病巣の縮図みたいなもので、警察のPCなりすまし捜査の陥穽や、自白の可視化の問題、或いは、裁判での冤罪控訴棄却とか、成る程、共通するものが多いにありそうである。サッカーでも、ゴールの判定を幾つかの異なる角度からのカメラで、判定しようとする動きもあるらしいが、プロ野球は、実に、エスタブリッシュメントそのもののようである。導入するかどうかの議論よりもむしろ、その組織の考え方自体が、問われているように、思われるが、、、、、、。それは、丁度、警察や裁判所や、更には、経済界の白物家電業界ではないが、これまで、成功してきた、或いは、正しいと信じてきた成功体験自体を、一度、根本から、ぶち壊して、再構築しなければならない時期にきているのではないだろうか?主審の誤審は、色々なことを教えてくれる。それにしても、昔の日本シリーズの巨人宮本の南?スタンカからのサヨナラ安打も、その前のミスとも関係があったことを想い起こすが、、、、、今年のシリーズも又、結局、終わってみれば、金権主義者の勝利に至り、どうも、すっきりしないものがあるのは、私だけの感慨だろうか、、、、、、、?往年の巨人ファンは、どう思っているであろうか?又ぞろ、渡辺の爺さんだけが、ほくそ笑んでいるだけではなかろうか、、、、、?何か、プロ野球の改革も、おぼつかないように感じられるが、、、、、、、。そんなことを感じた次第である。



義理の兄の葬儀に想う:

2012年11月06日 | 社会戯評
義理の兄の葬儀に想う:
色々と闘病中の話を、義理の姉やら、親族から、聴くと、「余命を宣告される」ということは大変なことであると改めて思うし、介護師達に、自分の状況を説明させるような医師がいるということも、驚かされた。同時に、義理の兄の心情を察すると、それを平然と説明した本人の強さにも、又、驚く。夫婦揃って、癌に罹り、一時期は、義理の姉の方が、重篤で、手術を決断し、除去に成功して、その後は、快方に向かっていったのに対して、義理の兄の方は、逆に、その後、症状が悪化していった節がみられる。「残された時間というものに限りがある」と知ったときには、不安と恐怖が出てきて、神経質になり、夜もよく寝られないことが続いて、おまけに、食事も十分取れずに、徐々に、「生きるというエネルギー」が、失われていったようである。それは、頬が痩けたり、脚が細くなっていったことにも、表れているようである。親族だけのひっそりとした葬儀であるが、参列者の中には、最低でも4人の癌闘病患者がいて、お互いの会話にも、何か、触れてはいけない、ぎこちないものがあった。「どのように生きたら良いか?」は、考えがちであっても、「どのように、死期を迎えたら良いか?」は、どんなに、父母や祖父母、親族、友人の死を観たとしても、なかなか、普段は、思いもよらないものである。日頃から、ある程度の年齢になったら、それを思い描くことは、決して、無駄ではなさそうで、生前から、色々な人と、家族を含めて、話し合っておくことは、大切なことであるのかも知れない。棺の蓋を閉じる前に、義理の姉が、額を撫でて、「有り難う」と言った言葉が、印象的であった。「看病を通じて、濃密な夫婦の会話が出来た」と、話していたのは、決して、大げさなことではなかったのであろうと思う。近しい親族であれ、友人・取引先の知り合いの人であれ、葬式の度に、色々なことを考えさせられるものであることに、変わりはない。これからは、妻や家族との何気ない会話も、もっと、大切にしなければいけないとも思うことしきりであった。そんなことを思いつつも、ついつい、又しても、人を知らずに、傷つけるような言葉を、平然と吐いてしまうのが、凡人の凡人たる所以かも知れないが、、、、、、、、。



冬用コートを着る:

2012年11月05日 | 動物・ペット
冬用コートを着る:
と言っても、自分のことではない。我が老犬も、散歩には、そろそろ、寒いのではないかと思い、今年も、よく可愛がってくれた母の冬用スラックスを、山の神が、リフォームして作ってくれた暖かい犬用コートを着せて、散歩にお出かけをすることにした。これまでであると、夏毛からふっくらした細かい冬毛に変わり、身体も何とはないしに、ややふっくらした感じになるのであるが、何せ、もう歳であるから、余り、はっきりとした冬毛という感じではない。陽に当たりながら、コートを着て散歩していると、確かに、手で触ってみると身体が、暖まっているようである。最近は、家の中で、過ごしているせいか、多少、外気温の変化には対応が弱まっているのかも知れない。少し、外に出すと、寒がっている様子なので、勝手に、そんな風に思って、コートの着用を始めることにした。本人も、まんざらではない様子なので、ひとまずは、安心である。



義理の兄のお見舞いに行く:

2012年11月04日 | 社会戯評
義理の兄のお見舞いに行く:
と予定していたところ、突然、入院先から、退院することが決まり、見舞いが延期されることになってしまった。そして、帰宅して、自宅療養が落ち着いた頃に、頃合いを見計らって、見舞いに行こうと決めていた矢先に、今度は、突然、義理の母から、電話で、「急に、亡くなってしまったよ」と、、、、、、、、、。義理の姉に、1ヶ月程前に、会ったときには、そんなに、急に、逝くとは思えなかったのであるが、、、、、、。ついこの間までは、自分が、見舞われる立場であったが、今度は、見舞う番になるはずだったのに、何とも、人生、一寸先は、本当に、何が起こるか、分からないものである。肝臓を患っていて、肝硬変になり、それも、徐々に、悪化して、腹水が溜まるようになり、末期の肝硬変から、肝臓癌になったらしく、放射線療法を、病院で、受けていたらしいが、結局、その甲斐もなく、帰らぬ人になってしまった。大体、人生のライフサイクルから、考えても、両親を見送ってからは、結婚や出産などのお祝い事が続くのが、通例ではあるが、それを過ぎると、今度は、順番に、葬式が、巡ってくるものである。1歳年上だから、少し、まだ、早過ぎる気がするが、これから、ゆっくり、老後を過ごせる時期に、こういう結果になるとは、何とも、理不尽なことである。もっとも、人生、何事も、全て、順風満帆という訳にはゆかないのが、そもそも、人生それ自身かもしれないが、、、、、、、。今年は、自分が、入院・手術・退院・自宅リハビリ療養を経験した矢先だったから、又しても、考えさせられてしまった。それにしても、ホスピスの在り方や、身内の献身的な看護のこと、患者の死への不安と恐怖、医師や介護の人達との意思疎通、治療に対する方針の共有など、色々と話を伺うにつれて、自分も、その立場になったら、どうだろうかと、思いを巡らさざるを得ない。たまたま、同じような病気で、治療中にも関わらず、逆に、余命を宣告までされていた義理の兄の次兄という方に、個人の思い出話を伺ったが、その方は、元気に回復されてはいたが、非常に、複雑な思いで、話をなされておられた。頭は、抗がん剤の為か、お歳の為かは知らないが、既に、丸坊主であったが、、、、、、、、。それにしても、義理の兄の頬は、げっそりと、こけていた。命にとっての食べると云うことの大切さを、改めて、ホスピスだけでなく、考えさせられた。



要注意外来生物リストの偽アカシアの樹:

2012年11月03日 | 自然・植物・昆虫
要注意外来生物リストの偽アカシアの樹:
要注意外来植物の急速な繁茂についての警鐘を促すローカルのニュースを、時々、見聞きするが、確かに、里山の周辺でも、色々な種類の要注意外来草木が、とりわけ、人の住んでいない土地や、耕作放棄地に、かなりの数で、簡単に確認出来る。とにかく、繁殖力が強いのが、特徴で、しかも、他の植物などが、嫌う過酷な自然条件の所でも、確かに、遠慮会釈することなく、平気で、繁殖し、最終的には、既存の植物を駆逐してしまう。我が家でも、昨秋、友人の奥様に言われて、偽アカシアの樹を根元から、切り倒し、株の根元に、熱湯をかけて置いたのに、今年の春先には、地下茎により、別の所に、公然と芽を出して、アッと言う間に、大きくなっていた。その地下茎が、長いこと、切り倒した場所以外からも、力強く、芽を出し、小さな樹が、成長している。それにしても、何と生命力が強い樹だろうか?場所によっては、既存の樹木を、覆い尽くして、陽を当たらなくさせ、枯れさせて、自分の子孫を大量に、増やしてゆくようである。養蜂業者には、その花の蜜が、必要だそうであるが、悩ましい、困ったことである。いずれにせよ、子供の頃から、学校でも、こうした要注意外来生物リストに関する知識を、もっと、周知徹底させる必要があろう。さもなくば、いつしか、立場が逆転して、彼らの天国になってしまうことは必定であろう。



術後3ヶ月検診にゆく:

2012年11月02日 | 社会戯評
術後3ヶ月検診にゆく:
それにしても、もう、手術後3ヶ月経過したのか!早いものである。相変わらず、病院の整形外科は、診察予約済の患者であるにも関わらず、満員御礼である。事前に、診察前には、地下にあるMRIの腰部診断の予約が入っているから、それを終了すると同時に、そのデータが、担当医のパソコン上に、自動的に転送され、診察時に、それを観ながら、診察、解析してくれるのである。なかなか、うまく出来ている。輪切りになった腰部腰椎の撮影画面と脊椎の神経組織の画像を、コンピューター上で、手術前と後の比較画像を見せてくれる。そして、何処が、どのように、改善されたのか、解説してくれるのである。これまで、3箇所、神経が、分断されていた箇所は、お陰様で、太く回復しつつあり、画像でも了解・識別出来るくらいに、鮮明に、連続していて、ホッとした。又、輪切りの画像からも、神経組織が、太く、順調に回復していることが、見てとれた。その画像を、すぐに、プリント・アウトして貰って、持ち帰ることになる。これからは、リハビリも、腹筋と背筋を鍛える運動も、歩行だけではなくて、積極的に、行うようにと指導された。足首の柔軟性を高めるために、アキレス腱や脚のストレッチも行うように、勧められた。次回は、又、3ヶ月後の術後6ヶ月検診である。その頃には、杖なしで、浮き足も改善し、スイスイ、歩けるようになると良いのであるが、、、、、、。焦らずに、じっくりやる以外に、手はなかろうが、、、、、、、、。



映画、「アウトレージ・ビヨンド」を観る:

2012年11月01日 | 映画・テレビ批評
映画、「アウトレージ・ビヨンド」を観る:
小諸には、映画館がないので、東京に用事のついでに、観てきた。粗筋は、前作のアウトレージを観ていないと、若干、戸惑うかも知れない。初めて観る方には、事前に、予習してもらった方が、良さそうである。ヤクザの世界も、アウトローであるにも関わらず、結局は、カタギの世界の縮図そのものであるようだ。それにしても、拝金主義、欲と権力・金、経済ヤクザ・インテリ・ヤクザ、グローバル化、成果実績主義・実力主義、古参・年長組・年功序列排除、組織内いじめ、密告・陰謀と裏切り、武闘派・権謀術数家・知謀派、冷酷・冷徹さ、旧い義理・人情、我慢と暴発、緻密な計画としたたかさ、恫喝と威嚇、慈悲と無慈悲、組織vs個人、妥協と非妥協、組織防衛と組織増殖・拡大、マル暴対策の最前線現場と警察組織上層部、そして、加害者であり、且つ、被害者ともなる者、殺す側の論理vs殺される側の無念、一時の繁栄・栄華と没落、等等…、これでもか、これでもかという程の全編「人生賽の目転換」ゲームが繰り広げられる。映画とは言え、人間とは、いとも簡単に、しかも、理不尽にも、抹殺・制裁されるものであることが、実に分かりやすく、まるで、宗教的な教訓劇か、仏教的な煩悩を、徹底的に、教化してゆくかの如く、展開する。成る程、全編に、溢れんばかりの暴力・バイオレンスシーンは、こうした観点からみると、又、別のものが見えてこよう。それでも、細かく観ていると、カメラ・ワークや、タケシ・キタノ監督の独特な現代社会に対するシニカルなメッセージが、随所に、込められていて、まるで、ジグソー・パズルを解くようでいて、面白く愉しめる。暴力的なタマ(命)の奪い合いだけでなく、「言葉の闘い」も興味深い。とりわけ、関西言葉は、一見、耳障りが、柔らかく、耳心地が宜しいように感じられるが、喋る人間が違うと、こうまで、慇懃無礼にも、恫喝や脅しがきつくなるのかと、改めて、関東弁の直截な物言いとは、異なり、面白く感じられる。ここら辺は、西田敏行や神山繁は、なかなか、うまく、関西弁を台詞に載せていたように、感じられてならない。それにしても、デリバティブや先物取引などの自分にとっては耳慣れた経済用語が、石原役の加瀬亮から、聞こえてくると、何故だか、ヤクザの世界も、シノギがきつい、辛い渡世であるのかなぁと、おかしなことに、変に、感心してしまう。加瀬は、双日の会長の長男で、ワシントン州ベルビューに、7歳まで、生活していたそうで、成る程、前作での英語も、堂に入っていたのが頷ける。神経質そうな繊細な経済インテリ・ヤクザの若頭役は、ピッタリである。マル暴組織暴力団対策の最前線での片岡刑事役の小日向文世は、最期に、大友に射殺されてしまうところで、映画は、終わるが、確かに、警察組織での供述の在り方や、誘導の仕方、そして、何よりも警察組織、そのものの在り方ややり方が、問われるような役所で、繁田刑事役の松重豊ともども、なかなか、味があって、前作同様、敢闘賞ものではないだろうか?関西系の花菱会のヒットマン役で、一言も台詞を発しなかった高橋克典は、何とも、勿体なく、物足りない感じがしてならないが、随分、贅沢な役所である。何か、次回作にでも連なる意図が、隠されているのであろうか?木村一派のチンピラ役をもらった桐谷建太、新井浩文は、一寸、軽い役所ではあったが、将来の潜在的な成長が、期待されるものがあるように、思えたが、、、、、、、。褒めすぎだろうか?古参の山王会幹部役の中尾彬は、いきなり、消されてしまい、もっと、演技が観たかったのにと、まるで損をしたような、裏切られたような感覚で、これ又、随分、贅沢なキャスティングであると思えなくはないが、、、、、、、。韓国系フィクサーの登場や、政界絡みのスキャンダル等、何か、又、今後、新たなる展開が、ありそうな伏線が、随所に、ちりばめられていて、今後が、まだまだ、期待出来そうな展開ではなかろうか?それにしても、往年の青春スターや喜劇俳優が、全く別人格の極道役を演じることが出来るというのは、実に、映画俳優という職業は、羨ましい限りであろう。人間の潜在的な多面的な性格の発露や変身願望を、シャバの現実世界で、実行する訳にはいかない以上、「人生の賽の目」を、映画というサイコロに託して、反面、味わってみることは、とても、意義深いように思えてならない。ビヨンドの次は、フォーエヴァーとか、、、、、、、とかになるのであろうか?是非、続編・次回作を観たくなってきたが、、、、、、。キタノ監督のお力で、「あなたへ」のお返しに、今度は、健さんでも最期に、出演して貰えないだろうか?「ブラック・レイン」の時の高倉健と松田優作が、想い出されるが、、、、、、、、。贅沢なお願いだろうか?大友の年上の兄貴分とかという設定でも、何でも良いから、、、、、、。是非観てみたいものである。