小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

銃規制と刀狩り:

2016年01月10日 | 社会戯評

銃規制と刀狩り:

流石のオバマも、自国内での銃によって繰り返される惨劇には、涙ながらに、大統領令による銃の規制を訴えかけないといけないというところまで、追い込まれてしまったのであろうか?この問題では、ハロウィーンの仮装行列がもてはやされる時には、いつも、若い日本人留学生の『Freeze』のあの悲劇的な事件を想い起こさざるを得ない。一体、日本では、歴史的に見ても、秀吉による刀狩りではないが、明治維新での廃刀令ではないが、よくも、思い切って、こんな大胆な政策が、無事に、上から行われたものである。とりわけ、後者の場合には、連綿と保たれてきた『武士の魂』を、一挙に、丁髷と共に、日常生活の中から、見事なまでに、消し去ってしまうと言うことを選択した日本人は、当時、何を思っていたのであろうか?米国の銃保持を、建国の思想とか、国是とか主張するライフル協会のようなロビー団体は、この当時の日本人の意を決した選択を、どう考えるのであろうか?或いは、当時の日本人から観て、現状の米国の銃規制は、どんな風に、その目に映るのであろうか?刀と銃とは、基本的に、考えてみれば、大きな抑止力が、異なるモノがあるのかも知れない。刀というモノは、高い、長い歴史的な武士による、一種の謂わば、抑制的な『倫理観と規範・哲学』が、働いていたいのかも知れない。銃による自己防衛という理屈は、何やら、核兵器保有の理屈ではないが、一種の『恐怖』に裏打ちされたような、まるで、今日の喫緊の課題である、『テロに何を以て、対峙しうる理論を提起しうるか?』というものとも、共通するのかもしれない。誰か、少壮の社会学者でも、この辺りを具体的に、解明してくれないであろうか?ガンジーの哲学的な非暴力主義の主張の中で、子供の頃に、育った私としては、何やら、世界中で、これまで、行ってきた米国の戦争の理屈というものも、成る程、これでは、分からない訳ではないでもないし、一方、欧州でのテロの恐怖も、日本海の向こうの困った何処かの輩も、考えようによっては、分からぬことでも無いか?しかしながら、現実的には、『それに替わるべき哲学的なテーゼ』が、今日、確立されていないことは、事実であろう。

 

 



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