小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

2019年11月01日 | 映画・テレビ批評

映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

 美術館での絵画の鑑賞には、私は、いつも解説のイヤホンを余程のことがない限り、借りることなく、ますは、自分の感性を信じて、自分なりの想像の中で、画家と対話することにしている。ここのところ、幾つかの映画を観ることになったが、映画の場合には、DVDでも、再度、シーンをじっくりと、見直すことも可能であるから、実に面白い。その意味では、この<JOKER - put on a happy face>という映画も、じっくりと、それぞれのシーンやカットに、込められた脚本家・監督・役者・カメラマン達の<挑戦的な問いかけ>が、解らずに、見逃してしまいそうである。風聞するところでは、主役のホアキン・フェニックスが、お気に入りのシーンですら、監督に、バサリと削除カットされてしまったとか、それならば、完全ノーカット版というのが、仮にあるとすれば、それはどんなモノなのか、一体何故、どうして、こうなったのか、、、、そして、この映画の続編は製作されるのであろうか?期待したい作品である。一体、<どこからどこまでが事実>であり、<どこから先が、妄想>なのか?今風に言えば、<FACTとは何で、FAKEはどこまで>?といったところであろうか、果たして、アーサーという主人公が、ジョーカーという人物なのであろうか?一般的には、ジョーカー誕生までのストーリーであり、それでは、富豪の両親を射殺されてしまうブルース・ウェインという子どもが、結局長じて、バットマンになるのか?別に、私は、バットマンの映画をシリーズで観ているわけではないから、細かな人物の設定まで、コミックスを読んでもいないから、知識はないが、ある程度は、推測可能なのかもしれない。唯、事は、そう簡単には、この映画の脚本家も監督も役者もカメラマンも、卸してくれそうもない。そもそも、様々なシーンに、どこかの映画で観たようなシーンや、雰囲気が、<謎めいたパズル>のように、意図的に、ちりばめられているように感じてならない。

例えば、<笑いとダンス>のシーンが、様々な場面で垣間見られる。元来、笑いというものは、人間だけが有するもので、類人猿でも、仲間内でも、敵意がないことを示す顔つきはしても、心からの笑いというものはなく、ましてや、文化としてのコメディーやコントや落語、などは、あり得ないわけで、もっとも、その根源には、対比としての<悲しみ・悲劇>があることも忘れてはならない。その意味では、アーサーが、奇しくも言うように、<人生の悲劇は喜劇>にもなることに繋がっているのかもしれない。そして、役者としてのホアキン・フェニックスの真骨頂は、その<笑いとダンス>のシーンに、数々の場面で、遺憾なく発揮されているように思われる。まるで、コンテンポラリー・パーフォーマーが、即興で踊るように、その高揚感と悲しみを、このダンスの場面で、<心の高揚感・充足度>として、まるで表現しているようで、その変化は、微妙に、アーサーというコメディアンを目指していたピエロが、徐々に、ジョーカーへと変貌してゆく過程でもあろう。年老いた母との二人でのダンス、地下鉄階段での様々なシーンでのダンス、トイレの鏡に映し出された自分の分身である姿を見ながらのダンス、他、明らかに、そこには、<ある種のメッセージ性>が隠されていると思われる。重い足取り、軽いステップ、歩き方にも、細かい心境の変化がちりばめられているように感じられてならない。明らかに、映画を観ている観客への挑戦であろう。

目だけ、或いは、表面面の顔だけが笑っていても、心の底からは、決して、笑っていない、笑えない心境を、表現している演技なのだろう、脳の障害の為に予期せぬ時に、笑ってしまう病気なので、お許し下さい、というメッセージを準備して、バスの中で黒人の子どもの母親から、構わないで下さいと言われるシーンでも、第一の殺人を犯すきっかけとなる地下鉄車両の中でのピエロの衣装をまとったままでの突然の笑いも、様々なシーンでの笑いが、観られる。

この映画は、どこまでが、事実で、或いは、妄想であるか、解らないと評したが、それを判断するのは、観る側の想像力で大きく評価が分かれるところであるが、今日的な病巣である、厳然たるFACT(事実)であるところの<精神疾患>、<出自の秘密>、<幼少期でのネグレクト・DV・体罰>、<シングル・マザー>、<貧困格差>、<1%の富裕層>、<ソーシャル・ワーカー>、<暴動・暴力・殺人・治安>等の問題が、更には、<テレビのショー番組>という<エスタブリッシュメント>が、ゴッサムという都市の中で、描かれている。

出自・出生の秘密に絶望し、隣人女性に拒絶され、職場を解雇・失職され、自分の居場所を喪失してゆく、そして、福祉予算支援も削られ ソーシャル・ワーカーによる相談も廃止の憂き目に遭うこととなり、自分の尊厳と存在そのものも、喪失してゆく。そんな折に、偶然、ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンという人気司会者のショーに、出演するきっかけを掴むが、、、、、、。既に、そこに至る過程で、自身の人生は悲劇だ!これが、今や、喜劇と化す、一大ライブ・ショーを自らが、演じることになる。そして、それは、<我々はピエロだ!存在そのものも>、、、、、、というあたかも、<we are not 1%>或いは、ウォール・ストリートを占拠せよというムーブメントに呼応するかのように、<暴動・略奪・殺人>が、デモと共に、起こる。ここから先は、ネタばれにもなってしまうので、是非、映画を観てもらいたいものである。

私は、バットマンやジョーカーの俳優に関して、全くの門外漢であるが、(カッコーの巣の上で)のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーの役を、今回のホアキン・フェニックスは、十分、凌駕するにたる演技ではないだろうか、R+15という映画だから、ある程度の殺人場面は、やむを得ぬが、これらも、今日的な意味合いからすれば、FACTなのであろうから、やむを得ないのかもしれない。こびと症の同僚を、唯一、良くしてくれたのは、君だけだったからという理由から、解放したり、幾つかの<心理的な葛藤>が、その演技の中に、垣間見られる。

最期のラストシーンは、どのように、解釈したら良いのであろうか?

連行されるパトカーの中から、暴徒達に、助け出されて、カリスマ的な悪の犯罪リーダーとしてのジョーカーの誕生に、この当人が至ることになるのか、それとも、それは、単なる妄想の中で、アーカム州立病院の精神科の中に幽閉されてしまう精神病患者の連続殺人犯が現実なのか、一体、どちらなのか、どう解釈したら良いのであろうか?仮に、ジョーカーなる人物は、アーサーではなくて、<アーサーが作り出した仮面のジョーカーの哲学>に、共鳴した別の人物が、トーマス・ウェイン夫妻を殺害して、その子どもである、ブルース・ウェインが、後のバットマンに、なるのであろうか?そうなると、バットマンの執事は、誰なのであろうか?(それはどうでも良いかな)

 追伸):映画で、いつも楽しみなのは、音楽である。門外漢の私でも、チャップリンの映画、モダンタイムスの中で使われているスマイルの曲は、<どんな辛いときにも、スマイルすれば、乗り越えられる>、というメッセージは、母親から言われた、<どんなときも笑顔で、、、、、>も、まるで、皮肉にも受け取れてしまう。スローテンポの映画内の甘いメロディーは、まるで、<懐かしいよき時代のアメリカ>と大きな対比なのであろうか?字幕の歌詞も、意味深長なものである。想像力がかき立てられ、<現実のギャップ>として、浮き出てこよう。