小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「九相図」と、松井冬子の「浄相の持続」、「夜盲症」を考える

2012年04月15日 | 社会戯評
最近、度々、美しすぎる才色兼備の日本画家、松井冬子の名前を、目にするようになった。開催されていた美術館が遠かったせいもあり、その展覧会で、実際に、彼女の作品に、触れたことは残念ながら、まだない。勝手に、これまでの知識と映像によって、知り得た中から、感じたものを書きとめる物である。嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后(橘嘉智子)は、その信仰深かった仏教思想の影響から、諸行無常の真理を、身を以って、示すために、その死後、遺体のその九つの変化の過程を、人々の救済を願って、絵師に、「九相図」を、仏画として、描かせたと謂われている。河鍋曉斎も、「地獄極楽図」を、著しているが、それらの延長線上に、現代では、松井冬子の「浄相の持続」、「夜盲症」は、形としては、類似しているものの、どうも、その「思想性」が、異なるように感じられてならない。その「おぞましさ」や、「生と死、そして性の生々しさ」、或いは、「不浄と美の紙一重の差」、等は、一体どこから、来るものなのであろうか?「知覚神経としての視覚によって、覚醒される痛覚の不可避」やら、「攻撃型自己顕示実践型」と自称することは、「エッジの効いた耽美的なウェットで、どろっとした絵が好き」というご本人のコメントには、鑑賞する側にも、「極度の緊張と痛み」を覚悟しないと、或いは、余儀なくされるという暗黙の共通の了解が無ければ、その作品は、鑑賞できない代物なのではないだろうか、、、、、。何とも、仏画や、曼荼羅画の仏教的な「万人の救済」という宗教的なメッセージ性からは、若干、異なるような、その「内発的な攻撃性と暴力的な刃」とを「女性の性」とともに、描き出しているようにも思うが、、、、、。どうやら、注射をして貰うときに、恐る恐る、注射針の刺さるあのチクッとする瞬間を、事前に、覚悟を強いられるようなそんな感慨を、絵を観るときに、準備しておかないと、「その絵との格闘技」には、打ち負かされてしまうのではないかと、想像するが、、、、、。やはり、美術館で、見なくてよかったのかも知れない、、、、。年寄りには、体力も、気力も、消耗してしまうかも知れない、、、、、。感動は、本当に、「痛み」によって、初めて、「美」に変わるのであろうか?