近年、ナショナリズムの高揚を受けて、古美術品の返還を、現在保有している国に、求める動きが、活発になってきている。確かに、昔、ロンドンの大英博物館や、パリのルーブル美術館、台北の故旧博物館で、観覧可能である膨大な著名な古美術品は、その質と言い、量と言い、実際、素晴らしいコレクションである。歴史的な背景から、それを略奪品と判断するのか、それとも、人類共有の遺産として、保存を託したと解釈するのか、とても難しいところである。日本でも、江戸から、明治期に掛けての頃、廃仏毀釈運動などによって、古美術、とりわけ、興福寺の五重塔までもが、売りに出される始末とかで、何とも、文化的な、或いは、歴史的、美術的な価値を、評価する余裕すらも、当時は、無かったのであろうか。きっと、二束三文で、売りに出されたものであろう。又、そういう鑑定家という人材すら、存在が許されなかった時代だったのであろうか?ボストンの北にあるセーラムという港町は、昔、捕鯨と東アジアとの交易拠点港として、栄えたところであるそうである。そこにあるエセックス博物館の動物学者であり、後に、大森貝塚の発見で、有名になったモース博士や、日本美術の再興に、貢献したフェノロサ、その弟子に当たる岡倉天心、フェノロサに感化された医者のビゲロー、ウェルド等、或いは、その古美術の取引に、携わった後の海外古美術商となる山中吉郎衛等、更には、異国の地での文化財の修復活動に携わった匠達、とりわけ、円城寺法明院に、揃って、分骨までしたフェノロサ、ビゲローは、シーボルトのような只単なる博物学の収集家としてのみならず、自ら進んで、文化財保護活動に止まらず、宗教、特に、密教文化、浮世絵、陶磁器、工芸品、染織、刀剣、等のそれまでの中国文化の一分野という程度にしか評価されていなかった範疇から、固有の日本文化、ジャポニズムへと、歴史の扉をこじ開けてきたことは、古美術品が、海外へ、流出したとか、しないとかという狭小な議論以前に、大いに、評価されて然るべきである。こうした系譜は、今日、文学の世界で、ドナルド・キーン博士にも、脈々として、受け継がれ、今後も、クール・ジャパンとして、発展してゆくことであろう。若い外国人美術家、研究者の活躍、更には、日本人の若い研究者の活躍にも、大いに、期待したいものである。ボストン美術館が、海外の正倉院と呼ばれても、決して、悪いことではないだろうか?価値のわかる審美眼を有する人間には、国境はないのではなかろうか?