19年12月19日(水)曇り晴れ間あり。-7℃
平均年齢が男・79.84歳で全国1位、女・86歳48で5位という。
これはゼロ歳児の平均余命を基準とするので、今生きている人の余命ではない。
しかし一つの目安にはなるので、計算するまでもなくあとわずか。
もっと大切に、充実させていきたいものと思う。やりたいことは山ほどある。
ふるさとプロジェクトのT会長からしゃれた名刺とともに、事業計画を話し合う新年会の案内がある。1月8日というのでOKをする。
麓まで樹氷の浅間山
昨日よりはましだが、今朝の寒さも厳しい。
庭には霜なのか、真っ白になっている。大好きな浅間は裾野まで白く光っている。
たぶん樹氷ではないだろうか。寒いのでマフラーを巻いているようでもある。
彦左衛門稲荷
今年のふるさとプロ、何をメインに取り組んでいくか?試行錯誤している。
そんな時塩沢堰開拓の貢献者であるR夫人から、自分で歩いてみたという巡見道ウオークの提案がある。
早速にと手書きの地図を頼りに、R夫人、T氏と公民館のS主任の運転で道を走り、そして降りて歩く。
13時に出て15時45分と2時間45分。ウオーキングマップにするには、ロング、ミドル、ショートと3つぐらい作成したほうがよさそうである。
全部を歩くのは、弁当持ちの1日コースにしたらまた楽しいだろう。
社口の上にある池
ここは初代の六川長三郎氏が、最初に世話になったという社口。
村上さんという百姓の家があったところである。一番上には田んぼ用の池がある。
日の出は遅いが、日当たりの良い場所である。
双体道尊神
小諸城の藩士が、稲の取り入れど期に回った道の角には多く立っている。
道標となっていたのだろう。道尊神めぐりでも面白そうである。
獄門場の石碑
小諸藩に年貢を納めに行く米を奪い,つかまった賊が処刑された場所である。
畑の高台にあり、立派な石碑が立っている。可哀想だと思った村の女性達が建立したという。「念仏供養塔」だが「養」が「米」偏に「良」になっている。
歴史に詳しい人に聞いてみたいが、「良い米が取れますように」か?「米が良く採れますように」と願いをこめたものか?
大将屋敷跡
初代が開墾に入ったという「田屋原」地籍である。いまは塩沢に越しているが、
この下のほうから開墾を始めたそうだ。今も時期になると、ここで祭り事をやっているとのこと。流石に「大将」である。
田屋稲荷社
浅間山と蓼科山の中間点、直線点に位置し,葦の生えた広い場所である。
子ども相撲が毎年開催されるが、今は勝つのが女の子だというから驚きである。
昔は祭り事のすべてをここでやったが、今は公民館が近いのでそこを利用するそうだ。
石碑の裏には六川氏を筆頭に、関係者の名前が刻まれている。
この大地からは360度パノラマで山々が見え、まさに絶景である。
蓼科山に,浅間山と、そして愛用する立科ゴルフ場まで見えるロケーションはお気に入りである。
六川長三郎宅
歴史を感じさせる立派な屋敷である。最近まで水の配分で人々が集まり賑わったそうである。
そのためのご夫人の苦労は並大抵ではなかったようだ。
寒い午後のひと時を、S主任やR夫人には大変お世話になった。有意義な日なり。
近いうちの今度はT氏の軽トラで、距離を測るために走ってみたい。
狭い道があり、圃場整備で消えてしまった道もあるのだ。
欲を出せば、立科町の各地域の「巡見道」を先のマップを参考に作成したいものだ。八重原堰や桐原もマップに載せたい。
蓼科山{明治38年?までは立科山といっていた」の研究もしたいと、ふるさとP
だけでなく、歴史研究会とも連携で町の歴史を掘り起こしたいものである。
平均年齢が男・79.84歳で全国1位、女・86歳48で5位という。
これはゼロ歳児の平均余命を基準とするので、今生きている人の余命ではない。
しかし一つの目安にはなるので、計算するまでもなくあとわずか。
もっと大切に、充実させていきたいものと思う。やりたいことは山ほどある。
ふるさとプロジェクトのT会長からしゃれた名刺とともに、事業計画を話し合う新年会の案内がある。1月8日というのでOKをする。
麓まで樹氷の浅間山
昨日よりはましだが、今朝の寒さも厳しい。
庭には霜なのか、真っ白になっている。大好きな浅間は裾野まで白く光っている。
たぶん樹氷ではないだろうか。寒いのでマフラーを巻いているようでもある。
彦左衛門稲荷
今年のふるさとプロ、何をメインに取り組んでいくか?試行錯誤している。
そんな時塩沢堰開拓の貢献者であるR夫人から、自分で歩いてみたという巡見道ウオークの提案がある。
早速にと手書きの地図を頼りに、R夫人、T氏と公民館のS主任の運転で道を走り、そして降りて歩く。
13時に出て15時45分と2時間45分。ウオーキングマップにするには、ロング、ミドル、ショートと3つぐらい作成したほうがよさそうである。
全部を歩くのは、弁当持ちの1日コースにしたらまた楽しいだろう。
社口の上にある池
ここは初代の六川長三郎氏が、最初に世話になったという社口。
村上さんという百姓の家があったところである。一番上には田んぼ用の池がある。
日の出は遅いが、日当たりの良い場所である。
双体道尊神
小諸城の藩士が、稲の取り入れど期に回った道の角には多く立っている。
道標となっていたのだろう。道尊神めぐりでも面白そうである。
獄門場の石碑
小諸藩に年貢を納めに行く米を奪い,つかまった賊が処刑された場所である。
畑の高台にあり、立派な石碑が立っている。可哀想だと思った村の女性達が建立したという。「念仏供養塔」だが「養」が「米」偏に「良」になっている。
歴史に詳しい人に聞いてみたいが、「良い米が取れますように」か?「米が良く採れますように」と願いをこめたものか?
大将屋敷跡
初代が開墾に入ったという「田屋原」地籍である。いまは塩沢に越しているが、
この下のほうから開墾を始めたそうだ。今も時期になると、ここで祭り事をやっているとのこと。流石に「大将」である。
田屋稲荷社
浅間山と蓼科山の中間点、直線点に位置し,葦の生えた広い場所である。
子ども相撲が毎年開催されるが、今は勝つのが女の子だというから驚きである。
昔は祭り事のすべてをここでやったが、今は公民館が近いのでそこを利用するそうだ。
石碑の裏には六川氏を筆頭に、関係者の名前が刻まれている。
この大地からは360度パノラマで山々が見え、まさに絶景である。
蓼科山に,浅間山と、そして愛用する立科ゴルフ場まで見えるロケーションはお気に入りである。
六川長三郎宅
歴史を感じさせる立派な屋敷である。最近まで水の配分で人々が集まり賑わったそうである。
そのためのご夫人の苦労は並大抵ではなかったようだ。
寒い午後のひと時を、S主任やR夫人には大変お世話になった。有意義な日なり。
近いうちの今度はT氏の軽トラで、距離を測るために走ってみたい。
狭い道があり、圃場整備で消えてしまった道もあるのだ。
欲を出せば、立科町の各地域の「巡見道」を先のマップを参考に作成したいものだ。八重原堰や桐原もマップに載せたい。
蓼科山{明治38年?までは立科山といっていた」の研究もしたいと、ふるさとP
だけでなく、歴史研究会とも連携で町の歴史を掘り起こしたいものである。