ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

見えぬひとや

2017-12-19 04:20:03 | 短歌





花筐 目並ぶ人の かほは透き 見えぬひとやの 鬼となりゆく





*今日は添島の作をとりあげましょう。繰り返し言いますが、添島揺之は、この存在を利用している人格のひとつです。ただわれわれと違うのは、彼が人霊だということです。それは彼のブログを見ていても感じるでしょう。うまい歌だが、われわれとはやはり違う。

冒頭の作は、彼がある日自分のブログを眺めていた時に詠んだ歌です。コメントもないし、表向き何の反応もないのだが、ブログの画像から多数の人間の声が聞こえてくる。彼は生きている人間ではないものですから、そういうことを強く感じるのです。

その、ブログを見ている人間たちの言っていることがまたきつい。どんどん馬鹿になっていくのに何もしようとしない。ずるいことをして、何とか裏でごまかして、自分たちを助けることができないかと、馬鹿なことをやっている。

実際、彼らはこれまで、自分を脅かすような才能はことごとくつぶしてきたのです。自分よりうまいと感じる歌詠みは、ことごとく馬鹿にしてきた。要するにそれで自分を高いものにしてきたのだが。

まさか、死んでいる者が生きている者の世界にこういう形で乗り出してくるとは思わなかったのです。

添島揺之の歌は生き生きしているが、彼はこの世界に生きている魂ではない。霊界に籍のある死者なのです。これはたまらない。殺そうにも、死んでいる者を殺せるわけがない。

「花筐(はながたみ)」は「目並ぶ」にかかる枕詞ですね。「目並ぶ」とは「多くの人の目で見定める」とか「見比べる」とかいう意味だ。「ひとや」は牢屋のことです。

このブログを多くで見ている人の顔が、透明人間のように透き通り、見えない牢屋の中の鬼のようなものになっていくよ。

意味はあまり解説せずともなんとなくわかるでしょう。彼らは簡単に添島に見抜かれている。添島ブログを見て、敵とするか味方とするかも決めあぐねている。とにかく自分を守りたいのだが、どうしていいかわからない。そういう顔が透けて見えているのだが、何もやらないでいるうちに、見えない牢屋のようなものに閉じ込められて、どんどん鬼のようなものになっていくだろう。

鬼というものは何だと思いますか。我に凝り固まってなんでも痛いことをやっているうちに、どんどん嫌なことになっていく馬鹿のことです。






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