ひとのよの めざめをさそふ 朝鳥の かほをかぶりて つひに鳴かずと
*これは一年前のツイートから持ってきました。すぴかが絵付きの短歌をやっていたころのものですね。この歌がついていた絵は、子供のような顔をした人物が、雄鶏の顔を頭にかぶっているというようなものでした。
人の世界の目覚めをさそうという朝鳥の顔をかぶっておきながら、ついにそれは鳴かないという。
つまりは、この世の中にはいろいろな人がいて、次の新しい時代がどうとか、人間社会を次代に導くとか、そういう類のことを言っている人がかなりいるのだが、言っていることの内容は、実に過去の世界からの引用ばかりだったりする。それかそれを絶妙につくり変えたり言い変えたりしているだけだったりするのです。
だれも新しい時代を知らないのです。
もうそれはそこまで来ているというか、ほんとうはもう来ているのだが、だれもそれを見たがらないというか、認めたがらないというか。いつまでも古い世界の価値観を着て、それがどんなにいいか、すばらしいかということばかり言っている。
つまらない女優を最高の美女だとほめそやし、うそでつくりあげたサッカー選手を英雄だともてはやしたりする。世界はまだ狂劇の最中にいるようだ。見ている人は半分目をさまして、もうあきれてきているというのに。
この世を作り上げているなにものかの正体が馬鹿だと気づいた時、人間はどうすればいいかを、ほとんど知らないのです。なぜならそれは今まで経験したこともないようなことだからだ。だから朝鳥のように新たな時代の到来を高らかに歌えるはずがない。時代の変容を感じておずおずと世界を見回しているのが関の山だ。
それならば、新しい時代がどういうものであるかを知っているか、それがどうしたらわかるかを知っている者に教えを請わねばならない。人類はもうそろそろ、人類よりも高い存在などたくさんいることを認めねばなりません。
万物の霊長と奢っていられたのは、まだ人類が幼く、そういう幼児性の自己完全性の意識が必要だったからだ。自分が最高の者でなければ、生きてはいけない時代だったのだ。しかし真実はそうではない。神ははるか高みにいる。
人類を新たな時代に導くために、あらゆる努力をしてくださる、偉大なる存在がいる。
その存在は言うのです。
神を信じてついて来いと。恐れずに、神の胸に飛んで来いと。
人類はまだ、それを信じることができず、古い時代の幻にとまったまま、逡巡しているのです。