こころ模様

人はなぜ生きるのでしょうか。希望、居場所、時間というキーワードから、人生とは何かについて考えていきます。

西の魔女が死んだ

2008-07-05 22:23:45 | 映画
西の魔女が死んだを観た。

スクリーンに映る自然が美しい。その中で少しずつ変化していく少女。思春期って、こんなも繊細で、こんなにも残酷なものなのか。そんなことを思いながら、スクリーンを眺めていた。

映画の冒頭で、少女が裏山の野イチゴ畑に寝転がって、「エスケープか」とつぶやくシーンが印象に残った。都会の中学校でいじめにあって、田舎の祖母の家にやって来た少女。問題事態から離れて、別の暮らしをし始めた少女は、新しい暮らしを受け止める。

問題事態は本質的には変わっていないのだから、文字通り「逃避」としてのエスケープなのだが、そうした行動をよしとして受け入れられるかどうかは、それ以降の事の推移を左右する。とりあえず、まあいいかと思えること。そんな心のゆとりを生み出すのも、自然の力なのかもしれない。

逃げ出したいと思ったときに、すっと逃げ出して、それを負い目に思わないこと。どうしようもない袋小路に追い込まれたときに、そんなふうにエスケープできることも、この世の中を渡って生きて行くには大事な力なのだなと思う。

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4 コメント

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Unknown (koyasu)
2008-07-16 11:38:18
私も見たんですけど、そのシーンの台詞を失念していました。
都筑さんのこのような捉え方は、なんだか大切そうな気がしました。
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Unknown (都筑)
2008-07-17 06:39:36
koyasuさん、ピンと張った糸は切れやすいけど、ちょっとたるみがあれると切りにくくなる。そんなゆとりのようなものを持つことって、今の時代に必要ですね。
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糸,糸から布へ (yuta)
2008-08-20 21:23:51
都筑先生,こんばんわ。
中学のころ,私も「学校にいかない」と宣言したことがあるんです。理由はまいとは全く異なりますが。
子どもなりに本当に嫌になる瞬間てあるんですよね。父も母も理由を聞くことをしませんでした。叱られることもありませんでした。お弁当を持って家族で栗駒山に行き,普通の日の普通のお休みの時のように山の中の散策をして過ごしました。そのときのせせらぎの音と水の透明さが今でも鮮明に記憶にあります。裏山のイチゴ畑の「エスケープか」のシーン,自分の思い出と重なりました。あの時,叱られていたら,無理やり学校に行かされていたら,きっと今とはまた違った人生になっていたような・・,と思います。
 思えばそのころから,自分を追い込んでいってしまうような癖があったようです。それをほぐしてくれる人がいてくれたことに感謝しなければいけなかったのだと思います。張り詰めた糸に緩みを持たせる操作は,今は自分自身での仕事と思っていたのですが,どうもそれだけではないなと思います。都筑先生のブログにはじめて書き込みをして以来,何度となく先生の言葉に励まされ癒されてきました(前に進む勇気をいただいたような気がします)。最近では,「愛は地球を救うのではなく,人を救うのだ」というのにも(笑)。中島みゆきさんの「糸」という歌に,縦(あなた)と横(わたし)の糸が織り成す布が,いつか誰かを暖めうるかもしれない,といったフレーズがあるのを思い出しながら今書いています。共鳴しあえるような人と人との関係性は,未来のあたたかな関係性の広がりをも作る可能性があるのだろうと思います。先生との対話を通して,そんなふうに思うことに怖さを感じなくなりました。これからもどうぞよろしくお願いします。TBをありがとうございました。
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線から面へ (都筑)
2008-08-21 11:25:56
yutaさん、いつもどうもありがとう。そのときに心の中から湧き上がってくることを書き連ねているだけなのですが、それがきっと心の本質という意味での真相を現しているのかもしれませんね。私も『あたたかな気持ちのあるところ』を書くときに、ブログに書くことやコメントを書くことが意味を成していたと思います。インターネットは線だけど、線が連なると、いつしか面になっていくのですね。クモの糸がクモの巣になるように。
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