200302裏 60 vinarバイセクトを認めずセルビアのベオグラードで不足料を徴収
バイセクトの公式の承認について
クロアチアのザグレブの郵政局によりバイセクトが公式に認められたのは、二次チェインブレーカーの10 para切手を対角線状に2分の1に切って、国内印刷物料金5 paraとして使用する場合だけです。ただし、実際には外国宛て印刷物、郵便振替、郵便小切手にも使用された使用例が私の手元にはあります。
その他の切手のバイセクトに関しては、Priručnik Maraka Jugoslavenskih Zemalja, vol.5, 1945-47, Zagreb (Croatia)「ユーゴスラヴィア切手ハンドブック 第5巻」のp.353のドイツ語の部分に次のように記載されています:
『郵便局での必要な額面の切手の不足により、バイセクト切手の使用はかなり多く存在する。当然ではあるが、郵政局はこれらを心良く思っていなかった。そのためザグレブ郵政局は、1920年2月12日の公示No.10772でもってバイセクトの使用を禁止し、全郵便局に早目に十分な量の必要な切手の額面を準備するように要求した。しかし、郵政省の管理局は公示によって、郵便局や個人によるバイセクト切手の引き続く使用を認めたので、ザグレブ郵政局は1920年3月9日の新しい公示で、懲戒手続きによる脅しで使用を禁止した。しかし、郵便局は郵便局施設内部業務に関連した需要により、郵便為替、郵便送り状(小包送票)、その他の公式書式への貼り付けのために切手をバイセクトし続けたため、郵便局は各額面を必要な量だけ引き渡されなかったと考えられる。』
このように、二次シリーズの10para切手以外の切手のバイセクトに関しては、「ザグレブ郵政局が1920年2月12日に禁止令を出したが、郵政省の管理局は引き続きバイセクトを認め、その後再びザグレブ郵政局が1920年3月9日に懲戒の脅しつきで禁止令を出したが、それでも現実に必要な切手が不足したのでバイセクトは行われ続けた」というのが実態のようです。
ザグレブ郵政局と郵政省の管理局のどちらの権限が強いのか良く分かりません。あの当時は、統一国家の体制も整っておらず、各地方の郵政局(リュブリャナ、ザグレブ、サラエヴォ)の発行した切手が使用され、オーストリア、ハンガリー、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナの郵便規則が混在し、小包送票や郵便為替証書の販売価格(収入印紙として徴収)も地方により異なっていた時代ですから、地方によってバイセクトを承認する場合もあれば、承認しなかった場合もあると思われます。
この小包送票の使用例では、クロアチアのMITROVICA郵便局で行われた60 vinar切手のバイセクト(= 30 vinar)を、セルビアの首都ベオグラードの郵便局は承認せずに不足料を徴収しています。
不足料金:60 vinar切手のバイセクト30 vinarの2倍 = 60 vinar = 60 para (paraはセルビアの通貨単位、当時の交換レートは1 vinar = 1 para)
不足切手:セルビア王国の普通切手 30 para (Mi. 140)を2枚貼って60 paraの不足料を徴収しています。この普通切手には、不足を示すTあるいはPortoのハンドスタンプ加刷は行われず、普通切手をそのまま使用しています。
この使用例ではセルビア切手が貼られて、小包の宛先のセルビアの首都のベオグラードで消印していますから、小包の受取人から不足料金が徴収されたと考えられます。
切手の消印:BEOGRAD (上はキリル文字、下はローマ字)、30. 3. 20 (1920年3月30日)
小包受取人のサインの日付は1920年3月4日ですから、切手の消印の日付は本来1920年3月3日であるべきものが、誤植により1920年3月30日になったと推定しています。
小包受取人のサインの日付: 1920年3月4日 (ただし、191までは小包送票に印刷された数字がそのまま残され、それに0を書き込んだだけのため1910となっています。本来は下二桁は20と書くべきものです。)
小包引渡し印日付:BEOGRAD (上はキリル文字、下はローマ字)、4. 3. 20 (1920年3月4日)
バイセクトの公式の承認について
クロアチアのザグレブの郵政局によりバイセクトが公式に認められたのは、二次チェインブレーカーの10 para切手を対角線状に2分の1に切って、国内印刷物料金5 paraとして使用する場合だけです。ただし、実際には外国宛て印刷物、郵便振替、郵便小切手にも使用された使用例が私の手元にはあります。
その他の切手のバイセクトに関しては、Priručnik Maraka Jugoslavenskih Zemalja, vol.5, 1945-47, Zagreb (Croatia)「ユーゴスラヴィア切手ハンドブック 第5巻」のp.353のドイツ語の部分に次のように記載されています:
『郵便局での必要な額面の切手の不足により、バイセクト切手の使用はかなり多く存在する。当然ではあるが、郵政局はこれらを心良く思っていなかった。そのためザグレブ郵政局は、1920年2月12日の公示No.10772でもってバイセクトの使用を禁止し、全郵便局に早目に十分な量の必要な切手の額面を準備するように要求した。しかし、郵政省の管理局は公示によって、郵便局や個人によるバイセクト切手の引き続く使用を認めたので、ザグレブ郵政局は1920年3月9日の新しい公示で、懲戒手続きによる脅しで使用を禁止した。しかし、郵便局は郵便局施設内部業務に関連した需要により、郵便為替、郵便送り状(小包送票)、その他の公式書式への貼り付けのために切手をバイセクトし続けたため、郵便局は各額面を必要な量だけ引き渡されなかったと考えられる。』
このように、二次シリーズの10para切手以外の切手のバイセクトに関しては、「ザグレブ郵政局が1920年2月12日に禁止令を出したが、郵政省の管理局は引き続きバイセクトを認め、その後再びザグレブ郵政局が1920年3月9日に懲戒の脅しつきで禁止令を出したが、それでも現実に必要な切手が不足したのでバイセクトは行われ続けた」というのが実態のようです。
ザグレブ郵政局と郵政省の管理局のどちらの権限が強いのか良く分かりません。あの当時は、統一国家の体制も整っておらず、各地方の郵政局(リュブリャナ、ザグレブ、サラエヴォ)の発行した切手が使用され、オーストリア、ハンガリー、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナの郵便規則が混在し、小包送票や郵便為替証書の販売価格(収入印紙として徴収)も地方により異なっていた時代ですから、地方によってバイセクトを承認する場合もあれば、承認しなかった場合もあると思われます。
この小包送票の使用例では、クロアチアのMITROVICA郵便局で行われた60 vinar切手のバイセクト(= 30 vinar)を、セルビアの首都ベオグラードの郵便局は承認せずに不足料を徴収しています。
不足料金:60 vinar切手のバイセクト30 vinarの2倍 = 60 vinar = 60 para (paraはセルビアの通貨単位、当時の交換レートは1 vinar = 1 para)
不足切手:セルビア王国の普通切手 30 para (Mi. 140)を2枚貼って60 paraの不足料を徴収しています。この普通切手には、不足を示すTあるいはPortoのハンドスタンプ加刷は行われず、普通切手をそのまま使用しています。
この使用例ではセルビア切手が貼られて、小包の宛先のセルビアの首都のベオグラードで消印していますから、小包の受取人から不足料金が徴収されたと考えられます。
切手の消印:BEOGRAD (上はキリル文字、下はローマ字)、30. 3. 20 (1920年3月30日)
小包受取人のサインの日付は1920年3月4日ですから、切手の消印の日付は本来1920年3月3日であるべきものが、誤植により1920年3月30日になったと推定しています。
小包受取人のサインの日付: 1920年3月4日 (ただし、191までは小包送票に印刷された数字がそのまま残され、それに0を書き込んだだけのため1910となっています。本来は下二桁は20と書くべきものです。)
小包引渡し印日付:BEOGRAD (上はキリル文字、下はローマ字)、4. 3. 20 (1920年3月4日)