ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

國分功一郎+千葉雅也 言語が消滅する前に 幻冬舎新書

2022-10-17 20:34:02 | エッセイ
 気鋭の哲学者2名による対談である。若手、と言いたくなるが、國分氏は1974年生まれ、千葉氏は1978年生まれで、40歳代半ばから後半、1956年生まれの私から見れば、ほぼ20歳下、相当に若いのではあるが、むしろ充実した年代というべきだろう。特に國分氏は『中動態の世界』などの著作で、現代の世界を問い直す学問全般の基礎付けを行ったと言って過言ではない存在である、と私は思う。つまりは、当代きっての哲学者である。特に福祉分野から参照されるケースが多く、地方自治、政治学関連の著作、対談もある。

【哲学的、すなわち具体的かつ抽象的であること】
 國分氏は「はじめに」でこう述べる。

「私たちは二人とも、たぶん、物事を個別的に考えることがとても大切だと思っている。だから、誰もがすぐに理解できて文句のつけようのない原理のようなものを使って理非曲直を正すことを良しとしない。事例に即して考えることを習慣にしている。
 これを具体的であろうとすることと言い換えてもよいかもしれないが、私たち二人はしばしば抽象的である。なぜならば、二人とも、極度に抽象的であることによってこそ、個別的な事例の現場に届くことがありうると信じているからである。その意味で私たちは事例ごとに、事例に即して抽象的な話をしている。」(3ページ)

 個別的であると同時に抽象的であること。これは、まさに哲学的であることに他ならない。
 この二人は、「…哲学に関心をもっていて、哲学に心引かれている…」(4ページ)
 この書は、何にでも分かりやすい正解があると勘違いしがちな、すぐにマニュアルを参照して安易に結果を求めようとする現代への警鐘となっている。あたかも、言語が力を失ってしまったかのように見える時代に。

「…私たち二人がずっと言語を論じていたことが分かった。しかもそこには一貫して、言語が何らかの仕方で消滅しようとしていることへの危機意識が読み取られた。」(5ページ)

【言葉の迷宮、あるいは『中動態の世界』から考える】
 第一章は、〈意志は存在するのか―『中動態の世界』から考える〉。なかに、薬物やアルコールの依存症にふれている箇所がある。

「國分 …そもそも依存症を抱える人は、自分の意志で能動的にアルコールや薬物に手を出したわけではありません。心に苦しいものを抱えていて、それが薬物依存・アルコール依存のきっかけになっている。ところが世の中では尋問する言語が当たり前だと思われているから、「なぜ自分の意志で止められないのだ。それはお前の意志が弱いからだ」となる。
 ぼくは依存症からの問いかけは、ある意味で哲学への挑戦だと思ったんです。」(21ページ)

 人間の意志の問題は、『中動態の世界』の主たる検討テーマである。現代は、人間の意志に過大な責任を負わせすぎているのではないか?
 哲学は、デカルト以来、明晰判明な知を求めてきた。しかし、それは、唯一の真理を求め、唯一の正解を求めることだ、と誤解され続けてきたのかもしれない。個人の意志でもって、適正な道筋を選択することが正しいことであると考えられてきた。
 しかし、

「國分 …哲学って真理を極めることじゃないんですね。何か問題があって、その問題に応えようとして悪戦苦闘する中で何か新しい概念を作る。あるいは既存の概念を利用する。哲学というのは問題の発見に始まるこのプロセスだと思うのね。」(56ページ)

 誰にとっても分かりやすくシンプルな真理を提示することが哲学ではなく、むしろ、分かりづらいかもしれない迷宮に迷い込み、思い悩むことこそが哲学なのかもしれない。言葉の綾のようなところに潜り込んでいくこと。

「國分 …僕らが勉強してきた二〇世紀の哲学は言葉を重視する哲学だった。それこそハイデガーは存在そのものを言葉においてとらえようとした。…ある意味では言葉は僕らにとって牢獄ですらあって、だからこそ、どうやったら言葉の外に出られるかという発想もありえた。」(64ページ)

 言葉の迷宮に絡め取られてしまいつつ、その都度その迷宮からの脱出を図ること。

「ところがふと気づいてみると、人間は言葉によって規定される存在ではなくなってしまっている。…
 たとえば、これはつまらない例かもしれませんが、LINEのスタンプとか絵文字にはいろいろと考えるべき問題があります。あれが何を意味しているかというと、言葉を使わないコミュニケーションでも十分だということです。ある種の情動の伝達だけやっている。そして日常的なコミュニケーションはそれで十分だったことがわかった。」(65ページ)

 言葉への迷い込みから、あっけらかんと解放されてしまったかのような現在。しかし、そこで失われたものは計り知れないのだ。

【「権威主義なき権威」の崩壊】
 第二章は、千葉氏の著作をめぐる、「何のために勉強するのか―『勉強の哲学』から考える」。ハンナ・アレントを引き合いに出し、「「権威主義なき権威」の崩壊」を語る。

「國分 …ハンナ・アレントが言っているんだけど、政治は自由で平等な人びとのあいだで言葉を使って行われる説得を基礎としている。その対極にあるのが暴力で、これは力で相手を圧倒して言うことを聞かせるわけです。興味深いのは権威で、これは説得と暴力の間にある。人が自由を保持しつつ服従するというのがアレントによる権威の定義です。つまり、自分で判断できる余地があり、自由に振る舞えるんだけど、そのうえで「これはすごい」と思って服従する。」(96ページ)

 アレントのいう政治は、理想的な政治であって、現実の政治過程のありようではないことに留意する必要があるだろうが、いずれ、対談者ふたりは暴力によらない意志決定の探索を行っている。権威という言葉の意味合いも広がりをもつもので、何というか、自ら誇示しようとする権威と、周りから観て自ずと尊敬せざるを得ない権威といえばいいか、「権威主義」と「権威」という二つの言葉で、その大きな幅を表現している。

「國分 …だって、いまの世の中で、「権威主義なき権威」は本当に崩壊しているでしょう?」(97ページ)

 「権威主義」とは、暴力的に自らの力を誇示して優位な立場を確保して、人を従わせようという態度であり、「権威」とは、言論の力、思想の力、学問の力によって自ずから説得できる力ということになるのだろう。

【民主と立憲、あるいは「権威主義なき権威」の可能性】
 引き続き第三章は「「権威主義なき権威」の可能性」である。

「國分 …この現状において「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族性を肯定することにつながると思うんです。」(123ページ)

 精神の貴族性。貴族制でも貴族政でもなく、貴族性と語るが、これが、立憲主義に通じていく。人類の歴史において、多くの大きな失敗を重ねるなかで形成された気高い貴族性、普遍的な知恵、良識のようなもの。

「國分 …これは原理的には立憲主義に連なる話ですね。立憲主義と民主主義は対立する。民主主義が下からの権力だとすれば、立憲主義は上からの原理であって、民主主義的な手続きを踏もうとやってはならないことを決めておくのが立憲主義です。このような、上からの原理と下からの権力のバランスで近代民主制国家は成り立っているのだけれど、いまは上からの部分が大きく揺らいでいるわけです。」(130ページ)

 これは、現今のトランプや安倍政権的なものを想起すれば良いだろう。

「千葉 守らなければならない一線を見張る役割ということですね。
 國分 民主主義だけでよいなら、たとえば国会で人種差別を肯定する法律を作ることも可能になりますね。しかしそれはだめであると憲法で決めておく。」(130ページ)

 以下の千葉氏の発言は、民主と立憲について分かりやすくまとめていると思われる。

「千葉 問題は、そうした規範的審級が何によって支えられているかということ。最上位である憲法にしても民衆の権力によって支えられている。貴族的なものというのも、あくまで民衆によって支えられているのだけれど、他方では非民衆的な権威性も持っている。通常、貴族的なものは、歴史とか伝統という言葉で言われるような、昔々から継承されてきた何ものかを帯びています。それが規範に無言の力を与えていたわけです。
 それは旧来の脈々たる既得権益だということになりますが、いま問題にしているのは、昔から高貴だった人がやはり必要だというような話ではありません。むしろ、新たなる貴族への生成変化をどう考えるかです。貴族的なるものの再発明を旧来の既得権益の継承とは別の形でどうやって考えられるのか、そういう問題なのだと思います。」(131ページ)

【エビデンス主義批判あるいは言葉の魔法】
 第四章は、「情動の時代のポピュリズム」、その次の第五章は「エビデンス主義を超えて」である。
 昨今の行き過ぎたエビデンス偏重の批判であるが、エビデンスの尊重が果たしてきた役割もあるという。パターナリズムの打破である。熊谷晋一郎氏は、小児科医で東大准教授、脳性麻痺の当事者にして当事者研究の第一人者というべき存在。その下に出てくる斎藤環氏は精神科医で筑波大教授、日本におけるオープンダイアローグの紹介者である。

「國分 エビデンスには、反権威主義や民主主義的な側面もある。これは熊谷晋一郎さんがよく挙げている話だけれど、医療にはもともと強力なパターナリズムがあって、たとえば、脳性麻痺はきちんとリハビリをやっていけば健常者になれると言って、リハビリさせていた。それに対して、そんなエビデンスはないと突き付けて、パターナリズムを批判してきた歴史がある。エビデンス主義には民主主義的な側面があって、熊谷さんはその重要性も指摘します。僕もその点、熊谷さんに深く同意します。
 ところがエビデンス主義には別の側面があって、非常に少ないパラメータだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。齋藤環さんは、プラシーボで治るならそれが一番いいと新聞に書いたら、エビデンスがないと強烈に叩かれたらしい。自分が治ったということは、本人にとっては大事な物語なのに、エビデンス主義は「それは誰にでも通用するわけじゃない」「科学的に根拠はない」と民主主義的な暴力で叩き潰してしまうところがあるわけです。」(189ページ)

「エビデンス主義が…それ自体が狂信的になっている感がある。…宗教みたいになっているのではないか。」(190ページ)

 エビデンス主義が、物語を破壊し、言葉を破壊している。ふたりは言葉の力の復権を語る。

「千葉 人間ってやっぱり言葉で現実を織りなしているわけです。言葉というフィクションのレイヤーで包むことによって、人間は生きていくことができるわけだから、そこをおろそかにすることは、人間らしさを損なうことになるんですよ。
 言葉は危ないもので、場合によっては、ひと言で人間の振る舞いを大きく左右することができる。科学の力を魔法のように言ったりしますけど、原爆なりなんなりをつくることができる科学者の行動自体をひと言で変えることができてしまう言葉のほうがよっぽど魔法だと僕は思います。」(198ページ)

「國分 言葉で人を動かせるというのは、言葉で人間に欲望をつくりだすことができるということかもしれない。確かにそれは「魔法」です。」(199ページ)

 言葉にしろ、科学にしろ一種の魔法であることに変わりはない。まかり間違えば黒魔法ともなり得るが、白魔法でもあるような魔法である。

【生成変化する対話と読書】
 千葉氏は「おわりに」に次のように記す。

「國分さんと話すのは楽しい。僕にとって、とても話しやすい人だ。
 國分さんの話はいつもシャープで、清々しく、かつ肉体的な厚みがある。理が明解なのはもちろん、かつ豊かに情を湛えている。
 …話しているうちに互いが徐々に変化していく。…互いに触発を受けて、共に、しかしかならずしも同じようにではなく、生成変化していくのである。」(206ページ)

 読者にとっても、読み進むに従って触発されおのおの生成変化していくような体験である。あたかも一個の魔法のように。

※参考図書 國分氏は他にも読んでいるが、4冊のみ。











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