ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

ハンナ・アレント 人間の条件 志水速雄訳 ちくま学芸文庫

2021-04-10 15:07:24 | エッセイ
 プロローグは、1957年の人工衛星打ち上げ成功のことから説き起こされる。
 原著が出版された1958年は、1945年にヒロシマとナガサキに原爆が投下され爆発した後であり、人工衛星打ち上げの直後ということになる。
 人工衛星打ち上げは、「重要性からいえば、もう一つの出来事、核分裂にも劣らぬこの事件」(9ページ)と、原子力の使用と並べて論じられる。「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」(10ページ)なのだという。アレントがこう書いた後、1969年には、アポロ宇宙船によって、人間が月面に足を踏み下ろした訳であるから、地球からの脱出は、まさに実現したということになるわけである。

〔近代(モダン・エイジ)から現代世界(モダン・ワールド)へ〕
 しかし、〈人間が地球を脱出する〉ことが、肯定的に語られるわけではない。「異常な」ことである、とアレントは言う。

「しかし「地球に縛りつけられている人間がようやく地球から脱出する第一歩」というこの発言が陳腐だからといって、本当はそれがどんなに異常なものかを見逃してはならない。というのは、なるほどキリスト教徒はこの地上を涙の谷間といい、哲学者は、人間の肉体を精神や魂の囚人として眺めてきたけれども、人間の歴史の中でいまだかつて、人びとが本気になって、地球は人間の肉体にとって牢獄であると考え、文字通り地球から月に行きたいとこれほど熱中したことはなかったからである。近代の開放と世俗化は、必ずしもキリストの神に背を向けることによって始まったのではなく、むしろ天国の父なる神から離れることによって始まった。このような近代の開放と世俗化が、今度は、空の下の万物の母である地球からもっと決定的に離れることによって終わろうとしているのであろうか?」(10ページ)

 ここの行論は、どうも分かりづらい。
 〈解放と世俗化〉の近代が終わり、〈異常な〉思い込みによって現代に突入する、とアレントは言っているようだ。異常なというのは、〈科学・技術が驚くほど進展した今日、人間はいとも簡単に地球を脱出できるのだ〉という思い込みである。
 しかし、実際のところ、人類は、この地球を脱出などできない。その表面のある限られた幅のなかでしか生き延びていくことができないのだ。
 限られた幅というのは、文字通りのことで、地下からエベレスト山の高さを見ても、たかだか十キロメートルでしかない。1万2千キロメートルなにがしの地球の直径に比べてほんとうに薄っぺらな表面に過ぎない。21世紀の現時点から我々がみたとき、これは当然の前提になっている、と私は思う。
 しかし、1956年に私が生まれて、少年時代を過ごしたしばらくの間は、科学技術の進展によって〈人類が地球を脱出できる〉ということは、大人も含めた多くの人々の夢であったはずである。だから1958年の時点で、この夢が〈異常である〉と気づいていたのは、ごく少数の人々に限られていたのではないか。
 もちろん、現在、すでに月面に2人の人間が降り立ったわけであるし、地球の上空を廻る人工衛星には、何人もの人が乗り込み、一定期間(遠洋マグロ漁船の漁船員が1~2年を船内で過ごすのと似たように)生活してきたのも確かである。しかし、それは膨大な費用をかけて、ごく限られた人工的な条件のもと、せいぜい十名程度の人間が滞在しているに過ぎない。70億人だかの人類のほとんどの部分は、地球に縛り付けられて生きているわけで、類としての人類が地球を脱出して存続していけるなどとは到底言えない。
 今から振り返れば、アレントが〈異常である〉と言ったことは、まさしくそのとおりであり、間違いはなかったわけである。しかし、当時の常識(科学技術発展の信仰と言ってもいいかもしれない)に照らしたとき、アレントはずいぶんと無用な心配をしていると見えたに違いない。よくもまあ、〈異常だ〉と喝破しえたものである。
 と、こう書いてくると、アレントが何を言いたかったのかまあ分かるとなるところだが、私が、よく分からないのは、以下のところである。

「近代の開放と世俗化は、必ずしもキリストの神に背を向けることによって始まったのではなく、むしろ天国の父なる神から離れることによって始まった。」(再掲)

 ここで、〈キリストの神に背を向けること〉と〈天国の父なる神から離れること〉はどう違うのか?私には同じことにしか思えない。誰か、ご教示いただければ幸いである。
 引き続く、上記引用の末尾は、次のような記述である。

「このような近代の開放と世俗化が、今度は、空の下の万物の母である地球からもっと決定的に離れることによって終わろうとしているのであろうか?」(再掲)

 これは分かる、と思う。ただし、人類は地球の束縛から離れ自由になろうとしたが、それはついにできない、ということが現在、明らかになっているということだろう。科学技術の進展による人間活動の際限のない増大が、逆に、地球の束縛の存在をいやがおうでも認識させたわけである。
 アレントが言いたいのは、近代は「地球からもっと決定的に離れること〈が可能だという人類の勘違い〉によって終」ったということなのだろうと、私は読み取る。

〔地球が〈人間の条件〉の本体〕
 さて、〈人間の条件〉であるが、アレントは、上の行論を踏まえて、地球こそが、その本体である、という。

「地球は人間の条件の本体そのものであり、おそらく、人間が努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家であるという点で、宇宙でただ一つのものであろう。」(11ページ)

 これは、地球の恩恵そのものであるが、裏を返せば、これこそが地球の束縛に他ならない。さらに、現在、そんな〈努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家〉が、人類自身の行動によって失われつつあるとすれば、われわれ人類は、いったいどうなってしまうのだろうか?破滅の道を歩んでいるに違いない。SDGsとか、「人新世」だとかいう、現今の切羽詰まった地球問題を見通した先駆として、アレントは存在しているのだろう。上にすぐ続けて、

「たしかに人間存在を単なる動物的環境から区別しているのは人間の工作物である。しかし生命そのものはこの人工的世界の外にあり、生命を通じて人間は他のすべての生きた有機体と依然として結びついている。ところが、このところずっと、科学は、生命をも「人工的」なものにし、人間を自然の子供としてその仲間に結びつけている最後の絆を断ち切るために大いに努力しているのである。たとえば試験管の中で生命を造ろうとする企てがある。…ここに現れているのは、地球の拘束から逃れたいというのと同じ欲望である。…人間の条件から脱出したいという望みが隠されているのではないかと思われる。」(11ページ)

 その昔、人類は、自然という恐るべき外部に取り囲まれて、科学技術の力、〈仕事〉の成果によって構築される人工的世界、工作物の世界、そういう世界の中で、なんとか生き延びてきた。しかし、アレントの時代以降、人工的世界が、地球上にさらに拡大し続け、もはや地球上には、人工的世界の外部は存在しないとすらいうべき事態となった。生命を維持するために必要な地球の自然、〈人間の条件〉の基盤が失われる事態となっている。こういう事態となっても、科学技術の力で人工的世界を構築し続け、人類はまだまだやっていけるという勘違いがあった。宇宙開発、原爆や原発の核開発、そして人工生命の企て、そのどれもが、狭い〈地球を脱出しようとする試み〉であり、〈地球の束縛から人間を引き剥がすもの〉であり、人類の持続を可能にする条件であると信じられてきた。ひょっとすると、いまだ、その勘違いは、続いている。(ああ、そうだ、人工的世界とは、つまり〈市場〉のことだ。)

「与えられたままの人間存在というのは、世俗的ないい方をすれば、どこからか只で貰った贈り物のようなものである。ところが、科学者たちが百年もしないうちに造りだしてみせると豪語している未来人は、この与えられたままの人間存在にたいする反抗にとりつかれており、いわば、それを自分が造ったものと交換しようと望んでいるように見える。今日、人間は地球上の有機的生命をすべて破壊することができるように、私たちの能力をもってすればこのような交換も可能であろう。」(11ページ)

 しかし、それは〈人間の条件〉を脅かし奪い去ろうとするものなのだ。行き過ぎた能動性、行き過ぎた合理性、行き過ぎた科学技術をセーブして、〈与えられたままの人間存在〉に立ち返ることが必要である。
 ここの行論は、アレントがこの書物で検討しようとする〈人間の条件〉三項目のうち、特に〈仕事〉に関わるところであろう。
 〈仕事〉は、職人の手仕事、道具作りなど、自然の束縛からいささかでも遁れようとする試みであり、与えられたままの人間存在への反抗、ということになる。そしていま、人類の〈仕事〉が、創意工夫を活かした道具作り、機械の生産、動力の開発、オートメーションの進展など、どんどん成長して地球の大きさに比べて行き過ぎてしまった。〈人間の条件〉のひとつが、〈人間の条件〉を破壊するという矛盾が生じている。
 〈労働〉は、農業のように食料を生産するなど、地球の束縛のなかで生命を維持しようとする営み、与えられたままの人間存在を維持しようとする営みである。食料生産は、人間の生存を維持するに足る範囲でいいわけであるから、そもそも、〈労働〉には限界があるはずである。しかし、現在の労働は、どこかタガが外れてしまって、無際限に要求されているように見える。ここに現在の社会の大きな問題があるというべきである。〈仕事〉の無際限さに引きずられて、〈労働〉も無際限に引き延ばされ、非人間的な苦行に成り果ててしまっている。

〔アレントの特殊な用語としての〈活動〉〕
 残りのもうひとつの〈活動〉は、たとえば言論とか、政治のことであるらしい。ここでの〈活動〉は、アレントの特殊な術語である。ふつう人間の活動といえば、〈労働〉や〈仕事〉も含むものと思うのが一般的であろう。ところが、アレントの〈活動〉は、〈労働〉でも〈仕事〉でもない何ものかなのである。(ただし、活動力とか、活動的生活とか、同じ活動と言う言葉(英語でactを語幹に持つ似たような言葉)を使って、この三つの項目の総称としている場合があるので、紛らわしいことになっている。こちらは、まあ、一般的な使い方だろう。)
 ここで、政治というのは〈本来的な政治〉というべきか。我々庶民のあずかり知らぬところで決定され、一方的に供給される行政サービスという、悪しき意味での政治ではなく、我々市民が衆議を集約し、決定に参画するところの本来の政治である。

「問題は、ただ、私たちが自分の新しい科学的・技術的知識を、この方向に用いることを望むかどうかということであるが、これは科学的手段によっては解決できない。それは第一級の政治的問題であり、したがって職業的科学者や職業的政治屋の決定に委ねることはできない。」(11ページ)

 言うまでもないことであるが、全体主義のもとでは、それこそ職業的政治屋がすべてを決定するのであろうが、民主的政体においては、市民の衆議のもとで検討され、選択され、決定されるはずである。また、発展する科学技術を、社会にどう適用し活用するのということについて、科学的な論理の合理的な演繹(それこそ制約なく無際限に発展すると誤解されかねない)のみで決定され得るのものではなく、社会的な諸状況の限界の中で選択の余地が必ず生じる。そういう意味で職業的科学者が自動的に論理的に決定するわけではなく、政治的に選択されるのであって、市民の衆議決定に委ねられるわけである。(しかし、職業的科学者が、決定から必ず排除されるということではなく、むしろ、一市民として積極的に衆議に参画すべきということではあるはずである。)

「…科学によって作りだされた状況は大きな政治的意味を持っている。言論の問題が係わっている場合はいつでも、問題は本性上、政治的となるからである。というのも言論こそ人間を政治的存在にする当のものだから。」(13ページ)

 言論こそが政治である。アレントはそう語る。それは確かにそうであるに違いない。そして、〈人間の条件〉三つ目の項目〈活動〉の中核は、言論であり、政治であるという。人間の行動、認識、体験は、語られること、言論を経て有意味なものとなる。お互いに語り合い、意味づけ合うことこそ、〈活動〉であるらしい。

「人びとが行い、知り、体験するものはなんであれ、それについて語られる限りにおいて有意味である。…この世界に住み、活動する多数者としての人間が、経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからにほかならないのである。」(14ページ)

 これは確かに、そうであると思う。そうあるべきである、という理念としては、全くその通りであると言っていいのだろう。しかし、このことはそう簡単に納得できることではない。ほんとうに、そうなのだろうか、と自問してしまう。
 〈活動〉とは、言論であり、政治である。アレントはそう語る。
 他の2項目〈労働〉と〈仕事〉については、それなりによく分かる気がする。得心がいく。納得いかないとは思わない。
 しかし、〈活動〉については、どうも得心がいかない、納得できない感じがつきまとう。特に、アレントは、〈労働〉でも〈仕事〉でもなく、〈活動〉にこそ、人間生活の意味があるのだと言っているように読める。そこが、いまひとつ、腑に落ちてこない。
 ここに疎外があるのだ、ということか。
 大雑把に言ってしまうと、アレントはこの本で、歴史的に、ギリシャの〈活動〉優位から、その後中世にかけて〈仕事〉優位となり、さらに、アダム・スミス、カール・マルクス以降、現在の世界は〈労働〉が優位となった、と言っているように読めると私は思う。〈労働〉が生存を維持するための単なる苦役から、一種の栄光あるものに脱皮を遂げた(というふうに勘違いしている?)と。
 いや、〈仕事〉と〈労働〉が、〈活動〉抜きに、奇妙な具合に合体して悪性新生物のように過剰に増殖したということだろうか。

〔労働から解放される労働社会?〕

「近代は理論の上で労働を栄光あるものとし、その結果、社会全体は労働社会へと事実上変貌を遂げた。したがって、おとぎ話の中でかなえられる望みにも似て、労働からの解放という願望が実現される瞬間、この願望の実現そのものが帳消しになってしまう。労働の枷から解放されようとしているのは労働者の社会なのであって、この社会は、そのためにこそこの労働からの自由を手にするのに値するについてはもはやなにも知らないのである。」(15ページ)

 〈労働以上に崇高で有意味な他の活動力〉を、現代の我々は見失ってしまっている。アレントの第3の項目としての〈活動〉を、われわれは見失ってしまったのだ、ということだろうか。

「この社会は、平等主義が人びとを共生させる労働の仕方であるがゆえに平等主義的であり、その内部には階級もなく、また、人間の他の能力の回復の新しい出発点となりうる政治的あるいは精神的な貴族制もない。大統領や国王や首相でさえ、自分たちの公務を社会の生活に必要な賃仕事(ジョブ)であると考え、知識人の中では、自分たちの行っていることを生計としてではなく、仕事(ワーク)として考えるただ孤独な個人だけが残る。私たちが直面しているのは、労働者に残された唯一の活動力である労働のない労働者の社会という逆説的な見通しなのである。もちろん、これ以上悪い状態はありえないだろう。」(15ページ)

 ふむ〈精神的な貴族制〉か。これはどういうことだろう。
 現在、この社会においては、賃仕事(ジョブ)が、つまり〈労働〉が、高貴な為政者の公務を〈活動〉から塗り替えてしまい、知識人の言論も、辛うじて〈労働〉たることを免れえたとしても、孤独な〈仕事(ワーク)〉でしかなく、相互に語り合い、相互に意味づけている〈活動〉ではなくなってしまっている。
 ふむ、〈人間の他の能力の回復の新しい出発点となりうる政治的あるいは精神的な貴族制〉か。
 そういえば、民主政治の理想郷であるギリシャの市民は、もっぱら政治、軍事、言論に生きていたというが、生命維持に必要な労働は、すべて家庭内の奴隷や女性に押しつけていたわけである。〈活動〉に専念し、〈労働〉や〈仕事〉からは逃れていた。
 アレントが、現在の問題の解決は、ギリシャ時代に後戻りすることだと主張しているわけではあるまい。が、これはどういうことなのだろうか。

「本書は、このような緊急の問題や難問に対して解答を与えようとするものではない。」(15ページ)

 ということで、本論に入っていく訳である。解答はないのかもしれないが、何事かは分かるところがあるのだろう。

「これから私がやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける作業である。…人間がもっている最高の、そしておそらくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。」(15ページ)

 哲学者たる、アンナ・ハレントは、人間の至高の活動力である思考によって、〈人間の条件〉たる主要な三つの項目について考察を進めようとする。

「…本書は、労働(レイバー)、仕事(ワーク)、活動(アクション)に関する議論に限定され、これが本書の三つの主要な章を形成する。」(16ページ)

 ということでプロローグは閉じられ、第1章「人間の条件」において、人間の三つの主要な活動力について、説明されるところから、考察は開始されるということになる。

〔労働labor、仕事work、活動actionの三項目〕

「労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最期には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生み出され消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。」(19ページ)

「仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべとの自然環境と際だって異なるものの「人工的」世界を作り出す。その物の世界の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見出すのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性(ワールドリネス)である。」(19ページ)

「活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、多様性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に関わってはいる。しかしこの多様性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。たとえば、私たちが知っている中でおそらく最も政治的な民族であるローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」(inter homines esse)ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」ということは同義語として用いられた。…もし人間というものが、同じモデルを際限なく繰り返してできる再生産物に過ぎず、その本性と本質はすべて同一で、他の物の本性や本質と同じように予見可能なものであるとするなら、どうだろう。その場合、活動は不必要な贅沢であり、行動(ビヘイヴィア)の一般法則を破る気まぐれな介入にすぎないだろう。多様性が人間活動の条件であるというのは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではないからである。」(20ページ)

「この三つの活動力とそれに対応する諸条件は、すべて人間存在の最も一般的な条件である生と死、出生と可死性に深く結びついている。」(21ページ)

 以上、三項目については、私の余計な解説とか、解釈は語らないことにする。

[〈必要性〉と〈有用性〉に回収されない何ものか]
 もういちど、プロローグの末尾に戻る。

「しかし、近代(モダン・エイジ)は現代世界(モダン・ワールド)と同じものではない。科学の面でいうと、17世紀に始まった近代は20世紀初頭で終わっている。政治の面でいうと、今日私たちが生きている現代世界は最初の原子爆発で生まれたのである。…歴史的分析の目的は、今日の世界疎外、すなわち、地球から宇宙への飛行(フライト)と世界から自己自身への逃亡(フライト)という二重のフライト、をその根源にまで遡って跡づけることである。これは、新しくはあるがまだ知られていない時代の出現によって圧倒されたまさにその瞬間に、発展し、自己を顕わにした社会の性格を理解するためである。」(17ページ)

 さて、〈活動は、直接人と人との間で行われ、多様性に対応している〉のだという。確かにこれは相当に大切なことには違いない。しかし、この本を、一度通読した限り、その〈活動〉とは何か、私には、いまだ明確に見えてはこない。〈労働〉と〈仕事〉については、明確に掴めた気はする。
 最近の國分功一郎氏らの書物で、「人間にはパンも薔薇も必要だ」と主張されている。これは、アレントの言う〈労働〉と〈仕事〉と〈活動〉の三つの面がどれも大切であることを語っているのではないかと思う。〈活動〉のみを切り出して、描き、求める、ということは、ひょっとしてあまり意味のないことなのかもしれない。現在、三つに区分して考察を進めたときに、他の二つと比べて、〈活動〉が軽視され、蔑ろにされていることが問題なのかもしれない。〈必要性〉と〈有用性〉に回収されない何ものか、そこにこそ、人間が人間である根源的な条件がある、ということなのかもしれない。例えば、見田宗介のいう〈コンサマトリー〉だろうか。
 〈活動〉の例として挙げられる〈政治〉について、それが、〈多様性に対応し、ひととひととの言論において行われる〉ことは全くその通りであるが、〈必要性〉と〈有用性〉がない、というのでは、まったく意味をなさない。政治は、〈労働〉でもあり〈仕事〉でもあり、〈必要性〉と〈有用性〉を兼ね備えたものでなければならない。そして、同時に〈活動〉でもなければならない、ということなのではないだろうか?
 私自身、「〈必要性〉と〈有用性〉に回収されない何ものか」をこそ求めて、ものの本を読み、詩を書いているはずである。しかし、明確に具体的にそのイメージを描き切れない。私自身の力量の欠如ではあるが、同時に、そこに現代に生きる人間の根源的な問題が存在している、というべきなのかもしれない。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (chidayujin)
2021-04-14 12:44:54
必要性と有用性に回収されないなにものか、を追い求めること自体が、ある種の贅沢なんじゃないかなぁ。自分の思い込んでる必要性と有用性に縛られないかたちで展開された行動も、結局は何らかの必要性と有用性に回収されるに越したことはないと思うのですが。
必要性と有用性に回収されるからこそ、人生に意味を感じやすくなると思いますよ。
返信する
ここが考えどころ (千田基嗣)
2021-04-14 21:23:29
 ここが考えどころなんだよな。政治は、人のために役に立つこと出なければ、意味がないだろうし、必要性と有用性こそが肝のはず。ただし、人間一人一人は、必要性と有用性の網の目の中に生きていると思えれば、確かに、なんというか、生きがいみたいなものも持ちやすいという風には言えるのだろうけれども、それだけでは足りない。あるいは、必要性も有用性も無いかもしれないけれども生きていていい、というふうに思えるようでなければならない。必要性や有用性だけに回収しきれない残余がある。それこそが人間存在である。
返信する

コメントを投稿