副題は、「ジル・ドゥールーズと生成変化の哲学」。
トランプの王様とジョーカーをモチーフにした黒い線画と、一部赤を使ったハートとJの文字をあしらった洒落たカバー。カバーの上端からのぞき見えるハードカバーの表紙はサーモンピンク。この本は哲学書にしては妙な色気がありすぎる。
さて、この本が論ずるジル・ドゥールーズは、現代フランスの哲学者。とは言ってももう亡くなっている。現代思想の第一人者。1925年生まれ、95年自殺。亡くなってもう20年近い。
「ドゥールーズは、二〇世紀後半のフランス哲学を代表する一人である。(…)フランス人らしいひねりのある理路と華やかな文体を駆使し、二〇世紀後半で最大限に解放的であり、危なっかしくもある思考のルートを開拓していた。」(13ページ、序―切断論)
ドゥールーズひとりでの著作よりも、精神分析学者のフェリックス・ガタリとの共著(「アンチ・オイディプス」など)のほうが、世に知られている。
ぼく自身のことを言えば、大学を卒業して、地元に戻ってこの30年以上、主観的には、ドゥールーズを読まなくても生きていけるということを実証するために生きてきた、と言って過言ではない。しかし、なぜ、こういう本を読むのか。
千葉雅也は、1978年生まれ、東大教養学部から、パリ第10大学、高等師範学校(かのエコール・ノルマル・シューペリール)に留学、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程を修了、立命館大学大学院先端総合学術研究科準教授である。「フランス現代哲学の研究と美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う」と紹介されている。ぼくが、大学四年生のときに生まれたことになる。現在35歳か。
しかし、まあ、「ドゥールーズを読まなくても生きていける」なんて、あたり前のことだ。ドゥールーズを読んだ人間は全世界に十万人もいないに違いない。日本でも、一万人はいないはずだ、たぶん。日本人の99.99%は読んでいない。
実は、「哲学とは何か」(財津理訳 河出書房新社)は読んでいる。これも、ドゥールーズ&ガタリか。1997年10月初版で、11月の第二刷。買ってすぐなのか、しばらくおいてからだったような気はする。40歳過ぎてから初めて読んだことになる。その前に「アンチ・オイディプス」は買ってあるが、たぶん、10ページくらい読んで断念した。
「哲学とは何か」に何が書いてあったのかは、定かでない。いま、手元にあるから、ぱらぱらめくってみれば、多少何かは言えるが、いまここは、その場ではない。しかし、当時読みとおせたことは、大きな喜びだった。読みとおせただけで大きな達成感があった。これで、ぼくも、ドゥールーズを読んだ人間のひとりとなることができたと。
しかし、これは、仏教のお経と同じだな。
なかに何が書いてあるかなんてほとんど誰も知らない。お葬式で読みあげられている中身を知っている人間はほとんどいない。でも、無意味、無内容な言葉が書いてあるわけではない。非常に素晴らしいことが書いてある。(お経も、般若心経だけは読んだことがあるが、確かに、素晴らしいことが書いてある。)
そういえば、宗教改革以前の聖書も同じだった。協会に収められたラテン語の聖書などだれも読めなかったし、聞いても分からなかった。ルターが、当時の民衆の使うドイツ語に翻訳して、ようやく、普通のひとびとも読んで分かるようになった。(というか、ドイツ語と言って、それでも読めるひとはひとにぎりだったか。識字率は相当に低かったはずだ。しかし、それでも、格段に増えたことに間違いはない。)
ドゥールーズの哲学書は、聖書とかお経とかと同じようなものに違いない。ヘーゲルやらカントやらハイデガーやら、哲学者の書くものは、押しなべてそんなたぐいのものだと言ってそんなに外してはいない。ひとりも読める人がいないということではない。一部ではあっても、きちんと読める人がいるということが大切なことだ。
さて、この本は「動きすぎてはいけない」と題されている。「序―切断論」に、こういうことも書いてある。
「もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、『すぎない』ほどに動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。」(53ページ)
動くな、ではない。動いていいのである。しかし、過剰に動きすぎることはよくないらしい。
ここで、動く、とは、言うまでもないことだが、単純に体を動かして運動するということではない。人間の社会の中で動くということである。ひとと交わることである。多くの人間と関係することである。
人間が個人的に引き籠って生きるのか、社会的に出歩いて生きるのか、その選択。
千葉雅也は、ほどほどに動けと言う。ほどほどに関係せよと言う。
そういうと、非常に常識的である。当たり前のことである。
人間、だれとも会わずには生き延びることはできないし、無限にひとと会えるわけでもない。
この400ページ近い厚めの本は、そういうごく当たり前のことを述べているにすぎない。
ふむ。
そうだな。大雑把なサルトルの話を書いてみようか。
サルトルは、実存主義を掲げ、人間の自由を称揚した。個人主義者である。人間は、封建的な共同体を抜け出て自由にならなければならない。
で、レヴィ=ストロースの話。
彼は構造主義者で、人間個人の自由など、いかほどのことでもないと語った。人間の共同体には構造があり、個人は、その結び目にしか過ぎない。
ドゥールーズは、ポスト構造主義で、その中間にいる。個人と共同体、どちらも大事なんだよと言う。非常に常識的で、微温的なお話。
現在の社会。
旧来の伝統的な共同体(ひととひとが、日常生活において密接につながっている社会。身動きがとれないほど息苦しく濃密な社会)が崩壊し、自由な個人が、気ままに生きている社会、みんなばらばらになってしまった社会。
人間は、適度に共同体に依存し、一方で、自由に生きなければならない。ばらばらになってはいけない。適度な絆が必要である。これもまた、常識的な話。
しかし、千葉雅也の言う「つながる」という言葉は、共同体の中の濃密な人間的つながりのことではないのかもしれない。
グローバルな、ネットを介したつながり。ひととひとが眼差しを交わしたり、直接肌を触れ合ったり、握手したり、向き合って会話したりという非常に狭い範囲での繋がりのことではなくて、個人が一挙に世界と通じ合ってしまうみたいな現代的つながり。通信回線を経由して、地球の裏側も含めた多数の人間と関われてしまうつながり。
しかし、こういうつながりも、すべての人間とつながれるわけではないといってしまえばその通りのことで、非常に常識的なことにしかならない。
動きすぎてはいけない。
適度に動き、適度に接続し、適度に切断する。
まあ、このあたりの「共同体」と「個人」、「グローバリズム」と「ローカリズム」、というより「ナショナリズム」か、こういう対語が、この本を読み始めるための補助線として役立つ、ということはあるだろうと思う。結果、常識的なことしか書いていないのだから、読む必要がない、ということではない。
エピローグに、こう書いてある。ライプニッツやカントを引き合いに出した、ドゥルーズの文章を引いた後で。
「この世界を『別の舞台』へ-危機の『否認』を介したうえで-分身させること、『まったく同じ世界』を『再』構築するという企ては、このように与えられてしまっている世界を、いったん文字どおりのまま享受し、その苦々しい作動を、『法解釈』によって最良のそれへ反転させることである。」(364ページ エピローグ 海辺の弁護士)
なにかこう、人間生きていくここも面白そうなことだ、というようなことが書いてある、というふうに読みとれないだろうか?
ハンナ・アーレントとか、レヴィナスとか、サドとか、マゾッホとか、さまざまな人名が挙げられ、論じられている中で、映画のことも取り上げた個所があるので、最後に引いておく。
「また『千のプラトー』(引用者注:という著書で、ドゥールーズ&ガタリは)では、ロバート・デ・ニーロが『或る映画(引用者注:タクシードライバー)の場面でカニ『のような』歩き方をしてみせる』ことについて、それは『模倣ではない』と述べたことに感心している。(…)デ・ニーロは、主人公(…)の一種の奇矯さを演じるために『カニ』を参考にしたと発言している。けれども、私の見た限りで、ビックルはカニに見える表現はしていない。(…)カニへの生成変化は、知覚しえない作動をしている。デ・ニーロは、カニになる途中で、カニの分身としてのビックルの特異なふるまいを得たのだ、と解釈されるべきところである。/以上を、工夫された演技でしかないとは考えないことが、必要なのである。/演技するデ・ニーロは、実在的に、分子状のカニになっている……」(72ページ)
妙に、色っぽい文章ではないだろうか?
この本は、2013年10月に初版、11月にすぐ2刷が出ている。全部で何部刷ったのか知らないが、この手の難しい哲学書にしては売れていることに間違いはないのだろう。
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