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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

安富歩 生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 NHKブックス

2021-02-16 22:43:36 | エッセイ
 安富歩氏は、1963年生まれ、京都大学大学院で経済学を学び、現在東京大学東洋文化研究所教授。山本太郎の「れいわ新選組」から参議院選挙に出馬したり、女装家であったり、何かと話題は多い方である。ネットで見ると、性自認は女性であるが、恋愛対象は女性で、パートナーは、学問上でもパートナーである女性であるという。いささかややこしい、とツッコミを入れたくもなるが、この本のテーマである〈選択の自由からの脱却〉を果たし、〈創発的な自由〉の境地に達しつつある方、ということであるのかもしれず、だからということではないが、ここで展開される議論は、注目すべきものである、と私は思う。
 序章は「市場の正体――シジョウからイチバへ」と題される。

「日本語では、「市場」と書いて、これを「イチバ」と読む場合と、「シジョウ」と読む場合がある。両者は同じ漢字でも意味が違っている。」(9ぺーじ)

 
「本書が目指すのは、「イチバ」についての「市場経済論」である。それは、抽象的な需要曲線と供給曲線が交わったり、抽象的な経済人が最適化したり、抽象的な競売人が価格決定したりする世界についての議論ではない。具体的な生身の人間が、コミュニケーションをくり広げるなかで、現実に物理的な物質やエネルギーの出入りをひき起こす場面についての考察である。こういったコミュニケ―ションのなかで、処理不可能なはずの膨大な計算がやすやすと実現されるという奇跡の展開する現実の市場(イチバ)についての考察である。」(18ページ)

 イチバとは抽象的なシジョウではない、と安富氏は言う。抽象的なシジョウなど、実はどこにも存在しない、と主張しているのかもしれない。日本を代表する大銀行においてすら、シジョウなど存在していなかったということかもしれない。ご自分の実体験からのエピソードを語る。

「私は大学卒業後、銀行員として二年半ほど勤務した経験がある。」(13ページ)

 入社後、コピー取りなどから始まって、2~3年で、外交員の仕事に「放り出される」。

「義理人情べったりの取引が展開される世界は、どこからどう見てもイチバであってシジョウではない。」(14ページ)

「そして私は、人間のコミュニケーションのあり方が、経済活動に直接大きな影響を与える場面に身を置くことになった。いわゆる「バブル」の発生過程に新米行員としてかかわったのである。当時、金融自由化を前にして銀行経営者は無用なおびえを抱き、なぜか爆発的に経営規模を拡大し、巨大な利益を挙げなければ事業が成り立たなくなるという奇妙な思い込みにとりつかれた。彼らは、私たち一般の銀行員に従来の何倍という水準の達成不能なノルマを押しつけ、現場のコミュニケーションを窒息させた。私が働いていた銀行は、もともと軍隊のような不条理な会社であることで有名であったが、この度外れて理不尽な要求は、その非人間的側面を一挙に拡大した。
 この理不尽な不動産融資によって土地を値上がりさせ、さらにその値上がりした土地を担保として融資する、という愚かな手法であった。」(14ページ)

 こういう事態のなかで、氏は、同じ会社の先輩と、こんな会話を交わす。

「そりゃそのうち、住宅ローンの保証会社が全部破綻するよ」(15ページ)

と、入社3年目の先輩が答えたという。
 そしてその後、まさしく、バブルははじけ飛んだわけである。
 これは、バブル期の経済の現場からの貴重な証言と言っていい。
バブルの進展に、大銀行の幹部が、非常に人間臭い思惑でもって関わっていった、さらに人為的にアクセルをふみ続けた結果、バブルははじけ飛んでしまった。不動産流通市場は、抽象的なシジョウなどではない、泥臭い人間の関わりのなかで動いていくイチバにほかならないというわけである。
それはなるほど、そうであろう。
 ただ、銀行経営者の無用なおびえとか、奇妙な思い込みの原因、そのおおもとには、貨幣の原理による、個々の人間の思惑を超えた、それこそある意味で抽象的な働きがあったというべきではあろうと思う。貨幣の物神化というか、等価交換が始まった途端に駆動し始める貨幣の蒐集、価値の増殖、成長へのむやみな欲動というか。
 安富氏は、もちろん、そういうマルクスの資本論的な方向は、充分にご存じだとは思うが、別の方向へ考察を進めていく。
 マルクス経済学を使わずに、いわゆる主流派経済学の批判を行おうとする。まずは、主流派経済学の原理そのものを内在的に批判しようとする。その矛盾を衝く。

「…市場(シジョウ)経済学は、さまざまな仮定の上に成り立っているが、その仮定の多くは実は非現実的である。…多くの仮定が物理学の諸原理に反している、という意味で、非現実的なのである。」(23ページ)

 
「標準的な市場原理には二つの支柱がある。一つ目の「最適化原理」は、人々が「合理的」であると仮定する。…
二つ目の支柱は、「均衡原理」であり、「財の価格は需要量と供給量とが等しくなるまで調整される」と主張する。」(27ページ)

「最適化原理の問題点は、「計算に時間がかからない」という過程を暗黙のうちに置いていることである。…モデルを作る際には計算時間を無視してもよいではないか、と思うかもしれないが、それはできない相談である。なぜなら「合理的選択」をするために必要な計算量が莫大だからである。」(28ページ)

「…均衡原理を保証する市場における均衡価格の実現は、「模索」という過程によって行われると考えられている。」(34ページ)

 この模索は、市場に参加する各人が、

「仮の価格表…に従い、効用の最大化を実現するように、所有する財の売却と、所望する財の購入の計画表をつくる。…全員について合計すると、各財についての需要と供給とが出揃う」(34ページ)

 その一回ですべてが均衡していればそこで取引が成り立つことになるが、そんな簡単なことにはならない。えんえんと調整を繰り返して、それこそ無限に繰り返さないとできないような調整の果てに均衡価格が決定される、というような流れである。
 このふたつの原理どちらも、モノや情報のやり取りとか、整理、計算に莫大な時間がかかることを無視してこそはじめて成り立つ、ということが説明される。物理学の基本的な原理を無視して初めて成り立つような、欺瞞的な議論だという。
 欺瞞の例として、自由主義経済学の主要な論者の一人であるミルトン・フリードマンの議論も挙げている。詳細は、ここでは割愛するが、

「この議論はうまい形で欺瞞を含ませている。…大きな噓をつく。…すでに見たように、フリードマンの支持するような経済理論は物理法則を破っている。」(42~43ページ)

 と、主流派経済学の欺瞞を示す。
 そこから、あるべき経済学の姿を、安富氏は模索しはじめる。
しかし、人間の自由は、自由な市場あってこそ成り立つ、と大方の現代人は信じているのではないか?
 安富氏は、そうではない、人間の自由は、市場原理なくしても成立するのだ、と議論を進める。

「…必要なことは、物理法則を踏みにじる荒唐無稽な市場原理を信奉しなくとも人間の自由は失われはしない、ということを明確に示すことだ、と私は考える。自由とは、そのような錬金術によって守られるものではない。それは人間のあり方そのものにかかわることであり、より深い普遍性を持つものなのである。また同時にそのような普遍性にもとづく経済学が、科学として成立しうることを示す必要がある。」(52ページ)

 まず、アメリカの哲学者ハーバート・フィンガレットを取り上げる。(私は、この本で初めて出合った学者である。)

「…フィンガレットは、精神分析学の研究にとり組み、また実存主義などの大陸哲学を消化し、それを英米哲学の伝統である明晰性を重んじて議論した。さらに、具体的な問題との接触を求めてアルコール依存症や、具体的な裁判の場面での個人の法的責任といった問題を研究した。」(57ページ)

 
 さらに、ミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』という短編、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、アダム・スミスの『道徳感情論』、マイケル・ポラニーの「暗黙知」や「創発」について、また、孔子の「道」の思想まで取り上げて、論を進める。
 市場経済的な「選択の自由」は本来の自由ではないこと、そしてさらに、積極的な本来の自由とは何かを探求するという道筋である。
 氏は、旧約聖書の、アダムとイブのエデンの園、失楽園の神話を取り上げる。

「ここで注目したいのは、失楽園神話が、

「エデンの園/地上」

という対立軸で構成されていることである。「エデンの園」は必然の世界であり、そこから放逐された人間は、「選択の自由」を獲得するとともに、「不安」にさいなまれるようになった。」(161ページ)

 上記の「エデンの園/地上」という対立軸は、「必然/選択」と書き換えられる。
 自由で民主的な社会に生きているとされる私たちにとっては、〈必然〉は、神の支配の下がんじがらめの悪であり、〈選択〉は、そこから進歩した自由の善なる状況と思ってしまうかもしれないが、どうもそうではないようである。
 さらに〈必然〉と〈選択〉は、現代では、〈共同体〉と〈市場〉の関係に置き換えられるという。ここでの〈市場〉は〈シジョウ〉であろう。

「この神話の焼き直しである「共同体」神話では、「エデンの園」の焼き直しが「共同体」であり、「地上」の焼き直しが「市場」である。共同体の紐帯と束縛とから離脱することで、近代人には市場的自由が与えられるが、エデンの園を離れたアダムとイブのように不安に苛まれる、ということになっている。この二番煎じの神話は、

「共同体/市場(シジョウ)」

という対立軸で構成されている。」(162ページ)

 私たちの若いころ、いささかでも学問を学んだものの間では、〈共同体〉は悪、〈市場〉は(少なくとも共同体に比べれば)善だったはずで、これはうえで〈必然〉は悪であり、〈選択〉は善だったというのと同じことである。この点、最近の風潮では、〈共同体〉は善、〈市場〉は悪、というふうに逆転したとも言える。実際のところは、どっちが善なのであろうか?
 安富氏は、簡単に言ってしまうと、〈選択〉・〈市場(シジョウ)〉の側は、ほぼ悪だと言っているが、かといって〈必然〉・〈共同体〉の側がすべて善だとは言っていないようである。その二項対立こそを乗り越えなければならないと主張されているのだろう。ある意味で、〈必然〉のなかに〈自由〉を見いだす、というような一見して二律背反と思えるようなことを主張されているのかもしれない。

「このように「共同体」と「市場」とは裏表の関係になっているが、それはいくつかの変奏を生み出す。「選択の自由」を体現する「市場」は、マルクスの主張したように、全世界を「文明化」するとどめようのない力を持っており、「グローバル化」をもたらす、とされる。…それゆえ、

 「共同体/文明化」
 「共同体/グローバル化」
 「共同体/ボーダーレス化」
 
といった対立軸が生み出される。「グローバル化」のかわりに「国際資本」「多国籍企業」などを代入してもよい。」(162ページ)

 私の若い頃には、いまだ右側の項は、すべて善であり、輝かしき未来の象徴であった。思えば、時代はずいぶんと変わったものである。
左側の、共同体の項を入れ替えていくと、下記のような具合であるが、現時点で見ると、ほぼ善きものが並んでいるといえる。しかし、私の若い頃には、むしろ悪しきものといわれたものが多い。特に上から3つ、4つはそうで、下の方の文化、セーフティ・ネットとなると、当時から、悪く言う人はそんなにいなかったはずだ。しかし、ひっくるめて言うと、善き部分も悪しき部分も混在しているというべきだろう。

「つまり、
 「国家/市場」
 「民族/市場」
 「宗教/市場」
 「伝統/市場」
 「文化/市場」
 「セーフティ・ネット/市場」
といった具合である。上辺と下辺を順に入れ替えていけば、社会科学の諸分野で議論されているテーマを網羅することができそうである。これらの対立軸は、その淵源を辿れば、失楽園神話の構成を引き継いでおり、この神話のもたらす呪縛が埋め込まれている。」(163ページ)

 こういうふうに並べてもらうと、確かにわかりやすいかもしれない。ただし、こうして並べた対立構造の、どちらがいいのか、という議論ではない。この対立構造自体を乗り越えなければならない。

「環境破壊、失業、貧困、格差、国家・民族間の紛争、全体主義、民主主義の形骸化、職場や学校でのいじめ、DV、モラル・ハラスメント、子どもの虐待などの現代の諸課題は、個別のものではない。これらは、すべて不安を紛らわせるための自己欺瞞の帰結であるとともに、それらがさらに不安をひき起こすという悪循環の構成要素である。この不安の悪循環を断ち切ることが、人類の生存を可能にする、唯一の道だと私は考える。」(224ページ)

「…選択の自由の行使によって形成されるのが、「市場(シジョウ)」である。」(228ページ)

 安富氏は、「選択の自由」という偽の自由から解き放たれ、「市場(シジョウ)経済」という呪縛から解き放たれることが必要であると主張する。上で行った議論を、終章において再度記す。

「…選択の自由は、行使不能な自由である。というのも、世界を生きる上で、可能な選択肢はつねに無数にあり、しかもその選択がもたらす結果は、非線形のゆえにしばしば予測しえないからである。このような巨大なアミダ籤を引いて、自分の運命を決めよ、と言われる状態は、「自由の牢獄」というにふさわしい。ここから神や全体性への盲目的服従という暴走も起こる。」(229ページ)

 そして、真の自由を求めようとする。

「真にこの牢獄から抜け出すには、私たちは自らの身体の持つ「創発」する力を信じる必要がある。この力は生命の持つ、生きるためのダイナミクスでもある。このダイナミクスを信じ、そのままに生き、望む方向にそれを展開させ、成長させるとき、人間は積極的な意味で「自由」たりうる。」(229ページ)

 とまあ、そういうことである。
 これは、全く正しいと思う。
 この本は、主流派経済学の問題点が明らかにされた労作と言える。市場経済の矛盾、その基本的な原理から内在的に議論を進めてその矛盾を解き明かしたということは、重要なところだと思う。社会全体の成長、国の成長を求めないこと。株式市場の数字を重要視しないこと。そんなものは放っておくこと。
 ただし、ここまでの議論は、本来の経済学というものがあり得るとすれば、その入り口にようやく辿り着いた段階、なのではないか。問題は、その先、であろう。「創発」する自由のその先、である。
 来るべき社会が実現するために、安富氏は、ポランニーの「創発」という概念を取り上げ、孔子の「道」を取り上げ、真の自由の実現を図った、ということになるのだろう。
 制約された人間の身体という必然における自由、ということだろうか。
 安富氏自身が、このあと、どういう仕事を展開されているか、辿ってみたい思いもある。
 柄谷行人の一まわりまわって取り戻された贈与とか、見田宗介のコンサマトリーとか、平川克己の小商いについての論考などを、ここにつなげて読み込むべきということになるだろうか? 最近では、斎藤幸平氏や山口周平氏の仕事が、ここにつながるものということになるのだろうか。


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