goo blog サービス終了のお知らせ 

ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

國分功一郎 近代政治哲学―自然・主権・行政 ちくま新書

2015-06-29 00:35:11 | エッセイ

 若き哲学者國分功一郎は、小平市民として都市計画道路にかかる開発問題に関わって、地方自治論と、専門である哲学・思想とのかかわりを掘り下げる、という立ち位置をとることを必然の役割と捉えざるを得なくなったと言える。その辺りの事情は、幻冬舎新書の「来るべき民主主義―小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題」を参照していただきたい。今回は、その文脈の中で、改めて、16世紀以降の近代政治哲学を取り上げ、大学一般教養レベルの解説を試みたものでありつつ、もちろん、現在の課題に向き合うための基本的で、重要な考える素材を提供してくれる書物、ということになるのだろう。

 取り上げるのは、16世紀フランスのジャン・ボダン、17世紀のイギリスのホッブス、オランダのスピノザ、イギリスのジョン・ロック、18世紀のフランスのルソー、イギリスのヒューム、ドイツのカントである。ジャン・ボダンはそうでもないが、あとの6名は、哲学史のなかで、必ず登場する高名な大哲学者たちである。

 立法、司法、行政の三権のなかで、行政学においては、行政こそが最も強力な作用であることは、常識であったようであるが、一般的には、また哲学とか、政治哲学、あるいは、政治学、法学においてすら、立法権こそが至高の権力と見なされてきた。憲法の規定においても、立法府たる国会が国権の最高機関とされている。

 これは、理念としてはまさしくそうあるべきもので良いのだろうが、実際には、行政こそが最も強力であるということを、きちんと押さえておかなくてはならないはずである。

 行政権が強大であり過ぎるからこそ、立法権をもってそれを押さえる、セーブする、コントロールする、そういうことをしなければならない。立法権こそ、正当にもっとも権威づけられ、力を持たなければならないはずであるという理念的な要請が、いつのまにか、現実に強力なのであると勘違いされるようになった、というようなところもある。

 このあたり、一般人の感覚でいうと、衆議院議長と内閣総理大臣とどっちが偉いかみたいな質問をされたとき、普通には、内閣総理大臣と答えると思う。これは、実態を反映した正しい感覚である。なまじ、政治学や憲法学を学んだひとは、さて、どっちなんだろうと悩む場合もありそうである。(どっちが偉いかなど、本来は愚問であることはとりあえず置いといて…)

 行政学で言うと、統治権からまず司法権が分離して、その次に立法権が分離して、残った残余が行政権であると説明するらしい。残余ということは、食事の余り物のようにつまらない、食えないしろものか、というと、全く反対のことのようである。むしろ、統治権の最も主要な部分が行政権のうちに残されているのだというような。

 これは、新聞報道だったり、床屋政談のように庶民が語り合う感覚にも反しないのではないだろうか。

 現実問題として、立法府が決定する法律は、行政府たる中央省庁がその文案を策定して国会に提出し、それをほぼそのまま議決するというのがパターンである。立法府は、追認するだけで、実際に法律を作る、つまり立法しているのは、行政府にほかならない。

 このあたりの消息を、実は知らないひとも多いのではないだろうか。

 身近な市役所においても同様で、行政部が、立法部をはるかに凌駕して実権を握っている。(ちなみに県や市町村には司法部はない。裁判所は国の機関である。)市長、またそれを補佐する市役所内の各部のほうが、市会議員よりも相当大きな権限を握っているのは確かなことである。実際に実務的に権限を行使するのは、議員ではなく、市役所であることは言うまでもない。実際に事務を行うことの実質的な権限の強さというものはあるのだ。

 國分功一郎氏は、市民運動に関わることによって、この行政の強さを目の当たりに体験した。国の内閣とか中央省庁とかではなく、小さな市役所においても、行政の力が強大であることを発見した。民主主義といいながら、市民ではなく、その代表の議員ですらなく、行政が、ほとんど実質的な権限を握っている事態。そこから、もういちど、自分の専門に勉強した哲学を学び直すことになった、という道筋である。

 大学で哲学を(一応)学び、その後、地方自治について(それなりに)学び続けている私として、國分氏のこの成り行きは非常に貴重なものということになる。哲学と地方自治論をダイレクトに結びつける議論が生まれた、ということだ。

 國分氏は、この著作で明言はしないが、哲学とは実はすべて政治哲学にほかならないのではないか、とは匂わせている。政治と切り離された哲学、政治を全く視野に入れない哲学は実は存在意義がないものかもしれない。一方ではもちろん、哲学のない、哲学を学ばない政治は危ういものであることも間違いがない、ともいえそうだ。

 現今の日本の社会、国家のありようのなかで、民主主義とか立憲主義とかのことばが改めて見直す機運も生じている。この書物は、それらのことばの理解を深めるために、基本的なところで役立つものである。まずは原点に帰って、16世紀以降の西洋の政治哲学を概観する。

 私としては、國分氏は、この次に、今後の書物において、では現在の行政権の強大さに市民がどう立ち向かうのか、その理念、その論理的根拠を示してくれる、一挙に示すということにはならないのかもしれないが、一歩づつでも、その論拠に向けて探求を進めてもらえるのだと期待するところである。

 現在の日本における(日本のみではなく、世界中のどこの国でもそうだと思うが)統治機構の中での行政権の強大さ(逆に言えば立法権の脆弱さ)を改めて発見した哲学者國分氏にとって、これから為すべき仕事はたくさんあるはずだし、われわれにとってとても重要なものになるはずだ、と思う。

 おや、今回は、書物からの引用なしで書いてしまった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。