ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

國分功一郎 中動態の世界 意思と責任の考古学 医学書院

2017-06-27 00:45:46 | エッセイ

 あとがきを読んで泣いた。

 これは、本格的な哲学書である。(かといって小難しいわけではないと思う。もちろん、そう簡単でもない。)その哲学書で泣かされた。

 

「…当初の計画ではその名に言及するなどまったく予定されていなかったにもかかわらず、私が考えを進めるたびに、どうしても論じなければならなかった哲学者がいる。それが、ハンナ・アレントである。」(あとがき 335ページ)

 

 ハンナ・アレントは、ユダヤ人にして、ハイデガーの弟子、そして愛人として知られる哲学者である。主著は「人間の条件」、ということになるだろうか。ウィキペディアをみると、フッサール、ヤスパースの指導も受けているようである。なんと、まあ、羨ましい、というか、素晴らしいというか。まあ、そういう時代の人だから、ということではある。

 このところの読書で、ハンナ・アレントには遭遇する機会が多い。まだ、直接の著作は読んでいないが、今後の人生の中で読むべきリストには入っている著者である。

 なぜ、ここで、ハンナ・アレントの名を見て涙したのか?

 自分でも、いま、定かに説明できるわけではない。しかし、なぜか、涙した。このことは記しておきたい。が、このことに関しては、別にゆっくり時間をとって、考えを重ねてみたい。

 自由であること、意志をもつこと、能動であること、しかし、受動であること、自らは意志しない、望まない条件を蒙ること、無意味に大量に生命を奪われること。

 私にとって、この書物は、中村雄二郎のパトスの知、受動の知、演劇的知、臨床の知、に続くものであり、鷲田清一の臨床哲学に続くものである。

 そして、それは、つまり、名指されない仮想敵としてデカルトが存在している、ということになる。「我思うゆえに我在り」のデカルトである。

 しかし、この書物には、中村も鷲田も、そして、デカルトも登場しない。

 あとがきに、「小児科医で研究者の熊谷晋一郎さん」と、「「ダルク女性ハウス」の代表であり自らもアルコール依存の経験がある上岡陽江さん」が紹介される。

 

「熊谷さんと上岡さんは『暇と退屈の倫理学』が依存症を考えるうえで役に立つのだと言ってくれた。…(中略)…/自分が書いたことについて「役に立つ」と言われるのは不思議な経験であった。」(328ページ)

 

「…おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにあった。」(329ページ)

 

 「近代的主体」、「意志」の問題、ここにその名の書かれない影の主役はデカルトである。

 中村雄二郎も、鷲田清一も、「近代的な主体」、能動的な「意志」を問題とした。そこに、いま現在の重大な課題がある。

この書物は、現代のその課題に真正面から取り組んだ書物である。

 しかし、「中動態」とは、哲学的な用語ではない。言語学の用語である。「能動態」、「受動態」という中学校の英文法でまず習う言葉がある。それに対して、「中動態」という聞きなれない言葉を、タイトルに掲げる。

「中動態」とは何か。

 それは、「能動態」でもなく、「受動態」でもない、その中間的な形態である。中間的な形態として、「中動態」と名付けられた、ということらしい。

 英文法を学び始めたとき、能動態、受動態を習った。でも、よく思い出してみると、それは他動詞のみに限られるものであって、それとは別に自動詞が存在していた。

 にもかかわらず、能動、受動という対立が大きな問題とされてきたということ。能動、受動という文法用語が、言語学の範囲を超えて、哲学的に問題にされてきたということ。

 その「能動」対「受動」という対立軸が、哲学的な問題だとされてきた。それが、現代のさまざまな問題のひとつの原因とされてきた。

 そこを、乗り越えていくための新しい言葉として「中動態」ということばを持ち出した。

 実は、「新しい」わけではなくて、最も古い形態でもありうるわけで、國分氏が、その言葉を再発見した。その道筋をたどる書物、ということになる。

 ストア派や、アリストテレスなど古代ギリシャ哲学や、國分氏の専門である哲学者スピノザ、フランス現代哲学のデリダやドゥールーズ、そして言語学の知見を丹念に追った抽象的議論の哲学書である。

 しかし、単に抽象的な哲学書だというわけではなく、最近の民主主義についての論考などと同様、哲学の枠内に留まることなく、一般社会に打って出て、具体的な課題、問題に打ち当り、そこで、抽象的、専門的な哲学史に舞い戻り丹念に議論を行ったいわばアクティブな哲学書である。

 プロローグに、こんな対話が置かれる。國分氏が、熊谷氏、上岡氏との対話をもとに再構成したものだという。

 

「アルコール依存症、薬物依存症は本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気なんだってことが日本では理解されていないからね」

 

――そういう言葉を発したくなる気持ちは正直分かるんですよね。病気だってことは知ってます。でも、やっぱりまずは自分で「絶対にもうやらないぞ」と思うことが出発点じゃないのかって思ってしまう。

「むしろそう思うとダメなのね」

 

――そうなんですか・

「しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」

 

――そこがとても理解が難しいです。アルコールをやめる、クスリをやめるというのは、やはり自分がそれをやめるってことだから、やめようと思わないとダメなんじゃないですか?」(4ページ」

 

 この本には、直前に読んだ東浩紀の「観光客の哲学」、続いて今読んでいる千葉雅也の「勉強の哲学」と共通する問題意識、問題提起がある、というふうに思う。

 言ってみれば、人間は思ったほど自由なものではない、しかし、一方、やはり、自由でなくてはならない、みたいなことになるのだろう。


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