ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

やまうちあつし This is a pen ブイツーソリューション

2022-10-19 19:56:25 | エッセイ
 やまうちあつし氏は宮城県在住の詩人である。
 先日、気仙沼にお出でになり、しばし、歓談した。昼食とコーヒーで数時間を共にした。
 その際、星新一の乾いた描写に魅かれるのだ、とおっしゃっていた。
 その後、いただいていた最新詩集に目を通した、なるほど、星新一か、と思った。
 3つの章立てからなる最初、Ⅰは「わたしのむねのゆうやけを」である。冒頭の一編「哺乳類の絶滅」、1行目から

「悲しみをとぼとぼ辿っていくと、駅のホームに辿り着いていた。なんだ、もう一度出発なんだ。そう気づいた時には、もう旅人の顔をしている。…(中略)…柱に繋がれた雑種犬と、自愛に余念がない天使。」(6ページ)

 悲しみという感情を表わす言葉から始まっているのに、詩行は乾いている。夢の世界ではあるのだろう。感傷は最低限のところに閉じ込められているようだ。

 Ⅱは「感染性交響曲」と題される。まずは「黒ヒョウ事件」。

「黒ヒョウが出没したという
 知らせが町を駆け巡った
 獰猛な肉食動物だから
 外出は自粛するよう要請がある
 学校は休校…」(28ページ)

 章の表題からして、黒ヒョウは、もちろん、コロナウィルスの兪でもある。そしてまたもちろん、ウィルスの兪であるのみでもない。
 19行目から、

「私の家族も落ち着かない様子
 しきりにテレビやインターネットで
 目撃情報を確認したり
 地図でその場所を記録したり
 その様子はどうも
 恐れているのではないように見える
 もしや、と思い私は尋ねる
 ひょっとして
 会いたいのか
 家人はしばらく黙っていたが
 やがて俯いて答える
 だって野生の黒ヒョウなんて
 めったに見られるものではないよ」(29ページ)

 魅惑的な肌の輝きと鋭い眼差しをもつ、しなやかな黒ヒョウそのものである。家人は、黒ヒョウに魅入られたのに違いない。
 40行目、

「やがて玄関は開け放たれ
 家人は出奔した…(後略)」

 ここからこの章は、11編の黒ヒョウ学園ものの詩が続く。
 4編目は、「おはよう」。黒ヒョウは美しい現実の猛獣であるとともに、マンガとして描かれた、どこかとぼけた二次元の像でもあるようだ。

「不登校になった
 生徒の座席には
 いつの間にか
 黒ヒョウが座っている
 誰が呼んだわけでも
 連れてきたわけでもない
 ある朝気がつくと
 そこにいた
 生徒らは恐れおののく
 マスクをし距離を取り
 指でまじないの印を結ぶ
  …(中略)…
 黒ヒョウはおとなしい
 吠えも暴れもしないので
 学校生活は円滑に進む
 けれどもあるとき
 ふと気づく
 生徒の数が
 減ってゆく」(36ページ)

 この後も、(人食いであるかもしれない)黒ヒョウは何ごともなかったように生徒たちと共存していく。
 記述はたんたんと進む。そしてなぜか、読み手は、引き込まれたように読み進めてしまう。付かず離れず、関連しながらも独立した、連作短編のように。

 Ⅲは、「This is a pen」。末尾から二つめの詩が「デクノボー」、全編を引く。

「ただの妄想かもだけど
 その人が側にいる
 私が猛るとき
 ツマラナイカラヤメロとつぶやく
 私が震えるとき
 コワガラナクテモイイとささやく
 本当にひどいときには
 後ろを向いてもう見ない
 私がペンを取り出すと
 手を添えて
 言葉の運びを示してくれる
 サウイウモノがそばにいるのに
 私はこういうものでしか」(96ページ)

 末尾は、「しか」の後は省略されて、そのまま投げ出されている。デクノボーとは、言うまでもなく、宮沢賢治である。詩人に寄り添う、妄想の賢治である。
 この詩集の発行日は、令和4年3月11日であった。11年目の3月11日。




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