やまうちあつし氏は宮城県在住の詩人である。
先日、気仙沼にお出でになり、しばし、歓談した。昼食とコーヒーで数時間を共にした。
その際、星新一の乾いた描写に魅かれるのだ、とおっしゃっていた。
その後、いただいていた最新詩集に目を通した、なるほど、星新一か、と思った。
3つの章立てからなる最初、Ⅰは「わたしのむねのゆうやけを」である。冒頭の一編「哺乳類の絶滅」、1行目から
「悲しみをとぼとぼ辿っていくと、駅のホームに辿り着いていた。なんだ、もう一度出発なんだ。そう気づいた時には、もう旅人の顔をしている。…(中略)…柱に繋がれた雑種犬と、自愛に余念がない天使。」(6ページ)
悲しみという感情を表わす言葉から始まっているのに、詩行は乾いている。夢の世界ではあるのだろう。感傷は最低限のところに閉じ込められているようだ。
Ⅱは「感染性交響曲」と題される。まずは「黒ヒョウ事件」。
「黒ヒョウが出没したという
知らせが町を駆け巡った
獰猛な肉食動物だから
外出は自粛するよう要請がある
学校は休校…」(28ページ)
章の表題からして、黒ヒョウは、もちろん、コロナウィルスの兪でもある。そしてまたもちろん、ウィルスの兪であるのみでもない。
19行目から、
「私の家族も落ち着かない様子
しきりにテレビやインターネットで
目撃情報を確認したり
地図でその場所を記録したり
その様子はどうも
恐れているのではないように見える
もしや、と思い私は尋ねる
ひょっとして
会いたいのか
家人はしばらく黙っていたが
やがて俯いて答える
だって野生の黒ヒョウなんて
めったに見られるものではないよ」(29ページ)
魅惑的な肌の輝きと鋭い眼差しをもつ、しなやかな黒ヒョウそのものである。家人は、黒ヒョウに魅入られたのに違いない。
40行目、
「やがて玄関は開け放たれ
家人は出奔した…(後略)」
ここからこの章は、11編の黒ヒョウ学園ものの詩が続く。
4編目は、「おはよう」。黒ヒョウは美しい現実の猛獣であるとともに、マンガとして描かれた、どこかとぼけた二次元の像でもあるようだ。
「不登校になった
生徒の座席には
いつの間にか
黒ヒョウが座っている
誰が呼んだわけでも
連れてきたわけでもない
ある朝気がつくと
そこにいた
生徒らは恐れおののく
マスクをし距離を取り
指でまじないの印を結ぶ
…(中略)…
黒ヒョウはおとなしい
吠えも暴れもしないので
学校生活は円滑に進む
けれどもあるとき
ふと気づく
生徒の数が
減ってゆく」(36ページ)
この後も、(人食いであるかもしれない)黒ヒョウは何ごともなかったように生徒たちと共存していく。
記述はたんたんと進む。そしてなぜか、読み手は、引き込まれたように読み進めてしまう。付かず離れず、関連しながらも独立した、連作短編のように。
Ⅲは、「This is a pen」。末尾から二つめの詩が「デクノボー」、全編を引く。
「ただの妄想かもだけど
その人が側にいる
私が猛るとき
ツマラナイカラヤメロとつぶやく
私が震えるとき
コワガラナクテモイイとささやく
本当にひどいときには
後ろを向いてもう見ない
私がペンを取り出すと
手を添えて
言葉の運びを示してくれる
サウイウモノがそばにいるのに
私はこういうものでしか」(96ページ)
末尾は、「しか」の後は省略されて、そのまま投げ出されている。デクノボーとは、言うまでもなく、宮沢賢治である。詩人に寄り添う、妄想の賢治である。
この詩集の発行日は、令和4年3月11日であった。11年目の3月11日。
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