日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

死は恐怖か救いか

2015年12月23日 09時37分35秒 | 日々雑感
 12月4日朝日新聞のオピニオンに内科医であり僧侶でもある田中雅博氏へのインタビュー記事が掲載された。氏は来年3月まで生きられるかどうかの末期ガン患者であり、間もなく死ぬであろう人の心情が語られている。そこで、自分の命がなくなることに苦しみを感ずると言い、それを「いのちの苦」と表現している。語感からすると命を保つことが苦であるような感じを受けるが、それとは真反対である。人間の本能は生きることであるので、「いのちの苦」とは本能的なものであり、そこには理屈は無く、死は恐怖なのだ。

 氏は、僧侶という立場から自分というこだわりを捨てることや、生存への渇望を無くせば死は怖くないとの仏教的な生き方を学んできたが、その心境に達するのは簡単なことではないと吐露している。

 若い時から仏教的な生き方に努力してきた人ですら、余命何ヶ月を言い渡されたときに、「いのちの苦」を感ずるのであれば、漫然と生きてきた凡人はさぞかし生への固執が強くなるのであろう。痴呆症の人が生にこだわるのは当然のことかも知れない。ピンコロを理想とするのは、ピンコロは突然死であり、死の恐怖や不安と闘う時間も無いから理想的なのであろう。

 最近、老人の自殺が増加しているようである。現在日本における自殺者は年間3万人強で、そのうち1/3強が60歳以上の老人との話だ。原因は経済的貧困や肉体的な絶望感が多いらしい。自殺は死の恐怖や不安に勝った結果であろうから、そこでは「いのちの苦」は「生きている苦」であり、死に救済を求めるのだ。

 先のオピニオンで、氏は死を直前に迎えた人に “命のケア” (スピリチュアルケアSpiritual Care)の必要性を訴えている。例えば、死に直面した人にどんな人生であったとしても、そこに価値を見出してもらえれば、いのちがなくなる苦しみを和らげると説いている。その大切さはよく分かるが、「生きている苦」を問題とする人々にとっては余計なお世話であろう。

 経済苦の人には経済的な援助が救いとなろう。健康苦の人に対しては入院・治療・薬などがあるかもしれないが、少なくともそれを受けるためにはお金が必要となる。社会保障費の財政難がどんどんひどくなる日本において、死を救いとする下流老人は増加の一途であろう。

 自殺はキリスト教的には罪であるそうだ。人間の生死の決定権は神のみにあるがこれを人間が簒奪することになる、という理由づけで、自死を禁じる立場を明瞭にしている。若者の自殺は、将来の可能性を放棄するものであるから、何もキリスト教を持ち出さなくても、絶対悪であろう。

 老人の自殺もキリスト教的には罪であろうが、キリスト教徒でない日本人としてはどう考えればよいのだろうか。仏教的、神道的には自殺は必ずしも絶対悪ではなさそうだ。然らば、自殺を考える人にどのように接すればよいのであろうか。「生きている苦」は「いのちの苦」とは逆の問題であるが、団塊世代の大量死を迎える昨今、これも大きな問題となろう。(犬賀 大好-192)

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