南米初のパラリンピック、リオデジャネイロパラリンピックの閉会式が今月18日行われ、次の開催都市の東京に旗が引き継がれた。パラリンピックの起源は、1948年ロンドンオリンピック開会式と同じ日に、戦争で負傷した兵士たちが病院内で行った競技大会とされる。その後国際パラリンピック委員会が発足し、2000年のシドニーオリンピック以降、オリンピック開催都市でオリンピックに続いてパラリンピックを開催することが正式に義務化されたそうだ。
リオのパラリンピックは、参加国数178カ国、参加人数4,350人と、先行して行われたオリンピックの参加国206ヵ国、参加人数11,000以上、に迫るが、テレビ放映等マスコミの扱いは概して小さかった。しかし、体の不自由さを物ともしない熱戦は多くの人に感動をもたらした。身障者の活躍は、同じ障害を抱える人々に多くの勇気と希望を与えたと確信する。オリンピックで活躍したマイナーなスポーツ選手が”これを機にこのスポーツが盛んになることを期待する”、との発言が目立つが、身障者の活躍の姿の方が社会的な影響は大きいであろう。健常者であっても、自分の生き方を見直す人は大勢いるに違いない。
パラリンピックは本家オリンピックの脇役的な存在であるが、本家の方がいろいろな面で本来の精神を失っている。クーベルタン男爵の”参加することに意義がある”、は疾うの昔死語となっている。
最大の理由はオリンピックが国威発揚の場と化した点である。当事国は国の威信をかけて立派な施設を設けたり、開催式等に派手な演出をする等、オリンピックの開催に莫大な金をかける。1964年の東京五輪を経験した老人は設備の充実は後世に残る財産と主張するが、発展途上であるならまだしも、現日本は莫大な借金を抱える少子高齢化社会にあることをすっかり忘れ、成功体験に浸っている。
2020年東京五輪の開催費は2~3兆円と言われ驚いていたが、最近では3兆円を超えると言われて、腰を抜かさんばかりである。オリンピック開催に立候補する国は年々減少し、限られた国しか開催できない状態になっているようだ。リオデジャネイロも国の威信をかけて実行し、大成功であったとの報道もあるが、無事に終了したことを成功と言っているだけのようである。問題は後始末である。
ブラジルは軍隊まで動員してリオ五輪を無事完遂することに全力を挙げたが、これは短距離走のような作業だ。一方で五輪終了後に本格化するとみられる経済再建は、長く苦しいマラソンにたとえることができると、伝える海外メディアもある。国の安定が整って、初めて大成功であったと言えるのであろう。
オリンピックは、この他、国際オリンピック委員会(IOC)の過度な商業主義、ワールドカップや世界大会との重複問題、ドーピング問題等、山積みでありその開催意義を見直す時期に直面している。この点パラリンピックは、まだクーベルタン男爵の理念が、すなわち、参加者も勝ことより無事参加出来たことに意義を見出す精神が残っている感がする。
障害者の障害の程度は個人差があるため、ある競技で優勝したからと言って、大騒ぎすることでは無く、逆に優勝出来ないからと言って、悲観することではない。公平性が重要といって、障害の程度により競技は細分化されているが、厳密に障害の程度を全員揃えることは不可能であろう。各自、精いっぱいの努力をして参加できたことに誇りを持ち、それを称えるべきだ。
マスコミは一般大衆に迎合するのではなく、勝敗に拘らず個々の頑張りを取り上げるべきだ。現在のオリンピックが商業主義に陥っているのは、マスコミのせいも多分にある。原点の”参加することに意義がある”の精神を思い起こし、せめてパラリンピックにこの精神が残るように努力すべきだ。
ところが、今回のパラリンピックの総括としてマスコミの論調も、前回のロンドンを上回る24個のメダルを獲得したが、金メダルはゼロに終わった、と国対抗意識を煽る。更に日本パラリンピック委員会の会長も、「金、銀、銅をバランスよく取れるように強化したい」と、メダル至上主義を公言する。これではオリンピックの二の舞だ。
現在オリンピックが抱える様々な問題が解決されないならば、いっそうのことオリンピックを廃止すべきであろう。廃止されて、困るのはマスコミ位であろう。オリンピックが様々な問題を抱え右往左往すること自体がマスコミの喜ぶネタだ。パラリンピックがオリンピックと同じにならないように、初心に戻ってもらいたいものだ。
国際パラリンピック委員会(IDC)のフィリップ・クレーブン会長が「金メダルを取るのが重要なことではない。運動して楽しむことで自信を取り戻し、仕事に就くようになることがある。誰でも共生できる社会を作ることこそが重要である。」との言を噛みしめたい。2016.10.01(犬賀 大好-273)
リオのパラリンピックは、参加国数178カ国、参加人数4,350人と、先行して行われたオリンピックの参加国206ヵ国、参加人数11,000以上、に迫るが、テレビ放映等マスコミの扱いは概して小さかった。しかし、体の不自由さを物ともしない熱戦は多くの人に感動をもたらした。身障者の活躍は、同じ障害を抱える人々に多くの勇気と希望を与えたと確信する。オリンピックで活躍したマイナーなスポーツ選手が”これを機にこのスポーツが盛んになることを期待する”、との発言が目立つが、身障者の活躍の姿の方が社会的な影響は大きいであろう。健常者であっても、自分の生き方を見直す人は大勢いるに違いない。
パラリンピックは本家オリンピックの脇役的な存在であるが、本家の方がいろいろな面で本来の精神を失っている。クーベルタン男爵の”参加することに意義がある”、は疾うの昔死語となっている。
最大の理由はオリンピックが国威発揚の場と化した点である。当事国は国の威信をかけて立派な施設を設けたり、開催式等に派手な演出をする等、オリンピックの開催に莫大な金をかける。1964年の東京五輪を経験した老人は設備の充実は後世に残る財産と主張するが、発展途上であるならまだしも、現日本は莫大な借金を抱える少子高齢化社会にあることをすっかり忘れ、成功体験に浸っている。
2020年東京五輪の開催費は2~3兆円と言われ驚いていたが、最近では3兆円を超えると言われて、腰を抜かさんばかりである。オリンピック開催に立候補する国は年々減少し、限られた国しか開催できない状態になっているようだ。リオデジャネイロも国の威信をかけて実行し、大成功であったとの報道もあるが、無事に終了したことを成功と言っているだけのようである。問題は後始末である。
ブラジルは軍隊まで動員してリオ五輪を無事完遂することに全力を挙げたが、これは短距離走のような作業だ。一方で五輪終了後に本格化するとみられる経済再建は、長く苦しいマラソンにたとえることができると、伝える海外メディアもある。国の安定が整って、初めて大成功であったと言えるのであろう。
オリンピックは、この他、国際オリンピック委員会(IOC)の過度な商業主義、ワールドカップや世界大会との重複問題、ドーピング問題等、山積みでありその開催意義を見直す時期に直面している。この点パラリンピックは、まだクーベルタン男爵の理念が、すなわち、参加者も勝ことより無事参加出来たことに意義を見出す精神が残っている感がする。
障害者の障害の程度は個人差があるため、ある競技で優勝したからと言って、大騒ぎすることでは無く、逆に優勝出来ないからと言って、悲観することではない。公平性が重要といって、障害の程度により競技は細分化されているが、厳密に障害の程度を全員揃えることは不可能であろう。各自、精いっぱいの努力をして参加できたことに誇りを持ち、それを称えるべきだ。
マスコミは一般大衆に迎合するのではなく、勝敗に拘らず個々の頑張りを取り上げるべきだ。現在のオリンピックが商業主義に陥っているのは、マスコミのせいも多分にある。原点の”参加することに意義がある”の精神を思い起こし、せめてパラリンピックにこの精神が残るように努力すべきだ。
ところが、今回のパラリンピックの総括としてマスコミの論調も、前回のロンドンを上回る24個のメダルを獲得したが、金メダルはゼロに終わった、と国対抗意識を煽る。更に日本パラリンピック委員会の会長も、「金、銀、銅をバランスよく取れるように強化したい」と、メダル至上主義を公言する。これではオリンピックの二の舞だ。
現在オリンピックが抱える様々な問題が解決されないならば、いっそうのことオリンピックを廃止すべきであろう。廃止されて、困るのはマスコミ位であろう。オリンピックが様々な問題を抱え右往左往すること自体がマスコミの喜ぶネタだ。パラリンピックがオリンピックと同じにならないように、初心に戻ってもらいたいものだ。
国際パラリンピック委員会(IDC)のフィリップ・クレーブン会長が「金メダルを取るのが重要なことではない。運動して楽しむことで自信を取り戻し、仕事に就くようになることがある。誰でも共生できる社会を作ることこそが重要である。」との言を噛みしめたい。2016.10.01(犬賀 大好-273)
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