修行は まだまだ続く ♪

ぼちぼちと ほどほどに 今を愉しんで・・・

実地見聞 part3

2013-05-25 | おでかけ
実地見聞最終日は少し高い所から盆地を眺めてみよう♪
・・・で先ずは 葛城山に登るべくロープウェー乗り場へ。
まだ9時前だというのに ロープウェー乗り場に続く道には 観光バスの列。
その車列を目にした途端うんざりして葛城山は却下!

行く先を 次に向かう予定でいた二上山に変更する。

     

奈良県葛城市と大阪府太子町にまたがる二上山は 葛城山に続く金剛山地の北側に位置し
その名にある通り 雄岳標高517mと雌岳標高474mの二つの山頂からなる。
今では『にじょうさん』と呼ばれているが 古くは『ふたかみやま』と呼ばれ 大和側から見れば日の沈む聖なる山と崇められていた。
ふたかみやまと呼んだ方が その歴史からも趣を感じる山である。



どうしても この二上山には自分の足で登って確かめてみたかったのが
雄岳の山頂近くにある ココ↓ 大津皇子の墓である。




天武天皇の皇子であった大津皇子は優秀で人望があり 次期天皇と目されていたが 天武天皇の崩御後 
草壁皇子(母は鵜野讃良皇女)を次の皇位につけたいとする鵜野讃良皇女(後の持統天皇)により 謀反の疑いを掛けられ葬り去られた。
この事件の後 いったん大津皇子は別の土地に葬られたが 大津皇子の死後 地震や雷が頻発したことが 大津皇子の祟りと恐れられ
浄土の地とされる二上山へと遷されたそうである。

皇位継承にからんだ血なまぐさい事件が数多く起きた時代ではあるが その時代の宮が存在した近くに墳墓が造られているにも関わらず
大津皇子だけ 浄土の地とは云え 盆地から遠い山の頂に 引き離されるように葬られているのである。
それだけ 大津皇子が謀反を起こしたと云う事自体がでっち上げであり その恨みによる祟りを恐れた証拠ではないかと推測できる。

ふと見ると 柵で囲まれた墓所の内側に・・・・・

                           

まるで 今もって大津皇子の恨みを抱き 静かに守り続けているかのよう・・・・・。

          * * * * * * * * * *

二上山の雄岳と雌岳の鞍部『馬の背』は 宮本輝の小説『泥の河』にも登場する地名であり
大阪と奈良の境に位置し 遥か昔から交通の要所であったことと想像がつく。
表だって話題にされることは少ないが 見ない訊かないふりは出来ない してはならない 同和問題にも繋がっているのではないだろうか。
えた・は 江戸時代の士農工商の身分制度確立よりも遥か昔 奈良時代に始まったと云われる。
奈良の柏原にある 水平社博物館にも 一度足を運ばねばと思っている。 

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実地見聞のきっかけになった歴史の断片が頭の中を巡り 思いが強すぎる上 当時の人物相関が複雑に入り組んでいるので
今回の見聞録は 何を云っているのか伝わらず 自己満足の記録でしかない。
しかし ブログなんて 所詮自己満足の世界だもの お許しあれ。 

現地で見て 感じてきたあれこれを反芻しながら 再び 飛鳥の時代に迷い込む。
益々深みにはまっていきそうな予感 次は何を検証しに行こうかしら♪

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