実地見聞二日目最初の見聞地は 地図を見ながらこの辺りのハズなのだが 駐車場も案内板すら見当たらず さてどこだ???
通りかかった女性に訊ねると 「あると訊いたことはあるけれど???」 と
その存在は知っているらしいが それがどこにあるのか 行ったことがないのでわからないと云う。
暫く周辺をウロウロ・・・・・そこへ ひとりのおじいさんが通りかかったので訊ねてみると ピンポ~ン♪
どこにも案内標識はなく おじいさんの指示通りに笹藪の中に続く細い路を辿っていくと そこにあったのは・・・・・
巨大な 巨大な 謎の石造物だった。
石造物の上につれあいが立っているのを見ていただければ その大きさが想像つくだろう。
松本清張の小説『火の路』を読んだ時から この目で見たいと思っていた益田の岩船である。
上部には 深さの違う四角い穴が開いており 水が流れるような(?)しかけになっているように見えるが
誰が 何の目的で造られたものなのかは 未だ明らかになっていない。
一説には 制作途中で岩盤にひびが入ったため そのまま放置されたとか。
千三百年もの長い時を 地元の人にも見向きもされず ひっそりと佇んできた岩船が いとあはれなり。
岩船を上から見下ろしたり 下から見上げたり 岩肌を攀じ登ってみたり 撫でたり叩いたり
全身でいにしえの文化を感じていたつれあいが 突如岩船の上の空を見上げて 「これ↓をプレゼントしよう♪」 と。
おぉぉぉ・・・♪ 季節と光線の具合によっては違って見えるのかもしれない期間限定貴重品???
しかし つれあいからのプレゼントって いつも(←こんな具合)実態があるような???ないような???なんだな。
* * * * * * * * * *
さて この日のメインは 萬葉集でもお馴染み 遥か昔から大和の国を見守ってきた大和三山(畝傍山・耳成山・天香具山)に登ること。
最初に向かったのは 橿原神宮に登山口をもち 三山で一番高い畝傍山標高198.8m。
三山の真ん中に位置する耳成山標高139.7m。
『春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山』(持統天皇)の天香具山標高152.4m
大和三山と云っても 三山で一番高い畝傍山でも標高198.8mしかなく 登山 否 ハイキング 否 散歩と云ったところだ。
先の二山は 奈良盆地に単独峰として存在しているが 天香久山は多武峰から続く山裾にあたり 山と云うより小高い丘と云う印象で
舒明天皇(御名・田村皇子*推古天皇→舒明天皇→皇極天皇)が
『大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は』
と 詠んだ頃と違い 今では 三山どの山頂も灌木に覆われ展望が利かないのが残念でならない。
* * * * * * * * * *
かつてココは藤原京の中心 持統天皇・文武天皇の宮があった藤原宮跡。
畝傍山を望む 耳成山を望む 天香具山を望む
大和三山(畝傍山・耳成山・天香具山)の懐に抱かれるように藤原京は位置しており その体は唐の都を模していたと云う。
天武天皇の意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一大事業として 持統天皇が飛鳥から遷した都で
それは 平城京・平安京を凌ぐ古代最大の都だったと云われている。
ココに建っていたであろう大極殿や朝堂院 内裏のあった辺りを歩きながら 持統天皇も同じように見たであろう
大和三山を眺め 眩しい陽差しに目を細め 風の流れを感じてみる 千三百年の時を挟んで・・・・・。
* * * * * * * * * *
二日目最後の見聞は お墓詣り???
板蓋宮の主だった斉明天皇(=皇極天皇)の陵。
斉明天皇の希望により 夭逝した孫の建皇子(天智天皇の皇子・持統天皇の弟皇子)と
心を病んで亡くなった娘の間人皇女(孝徳天皇の妃・天智天皇の妹&恋人)も合葬されている。
三人が安らかに過ごすことの出来る場所が 死後の墳墓の中しかなかったと云うのが何とも切ない。
また陵の一角には 斉明天皇の孫娘で 大津皇子を出産後若くして亡くなった大田皇女(天武天皇の妃・持統天皇の姉)の墓もある。
天智・天武天皇の世 時代に翻弄された女人たちに思いを馳せて首を垂れる。
++++++++++
実地見聞二日目の夜も 近鉄橿原線に揺られて・・・・・・♪ (part3 に続く)
通りかかった女性に訊ねると 「あると訊いたことはあるけれど???」 と
その存在は知っているらしいが それがどこにあるのか 行ったことがないのでわからないと云う。
暫く周辺をウロウロ・・・・・そこへ ひとりのおじいさんが通りかかったので訊ねてみると ピンポ~ン♪
どこにも案内標識はなく おじいさんの指示通りに笹藪の中に続く細い路を辿っていくと そこにあったのは・・・・・
巨大な 巨大な 謎の石造物だった。
石造物の上につれあいが立っているのを見ていただければ その大きさが想像つくだろう。
松本清張の小説『火の路』を読んだ時から この目で見たいと思っていた益田の岩船である。
上部には 深さの違う四角い穴が開いており 水が流れるような(?)しかけになっているように見えるが
誰が 何の目的で造られたものなのかは 未だ明らかになっていない。
一説には 制作途中で岩盤にひびが入ったため そのまま放置されたとか。
千三百年もの長い時を 地元の人にも見向きもされず ひっそりと佇んできた岩船が いとあはれなり。
岩船を上から見下ろしたり 下から見上げたり 岩肌を攀じ登ってみたり 撫でたり叩いたり
全身でいにしえの文化を感じていたつれあいが 突如岩船の上の空を見上げて 「これ↓をプレゼントしよう♪」 と。
おぉぉぉ・・・♪ 季節と光線の具合によっては違って見えるのかもしれない期間限定貴重品???
しかし つれあいからのプレゼントって いつも(←こんな具合)実態があるような???ないような???なんだな。
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さて この日のメインは 萬葉集でもお馴染み 遥か昔から大和の国を見守ってきた大和三山(畝傍山・耳成山・天香具山)に登ること。
最初に向かったのは 橿原神宮に登山口をもち 三山で一番高い畝傍山標高198.8m。
三山の真ん中に位置する耳成山標高139.7m。
『春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山』(持統天皇)の天香具山標高152.4m
大和三山と云っても 三山で一番高い畝傍山でも標高198.8mしかなく 登山 否 ハイキング 否 散歩と云ったところだ。
先の二山は 奈良盆地に単独峰として存在しているが 天香久山は多武峰から続く山裾にあたり 山と云うより小高い丘と云う印象で
舒明天皇(御名・田村皇子*推古天皇→舒明天皇→皇極天皇)が
『大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は』
と 詠んだ頃と違い 今では 三山どの山頂も灌木に覆われ展望が利かないのが残念でならない。
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かつてココは藤原京の中心 持統天皇・文武天皇の宮があった藤原宮跡。
畝傍山を望む 耳成山を望む 天香具山を望む
大和三山(畝傍山・耳成山・天香具山)の懐に抱かれるように藤原京は位置しており その体は唐の都を模していたと云う。
天武天皇の意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一大事業として 持統天皇が飛鳥から遷した都で
それは 平城京・平安京を凌ぐ古代最大の都だったと云われている。
ココに建っていたであろう大極殿や朝堂院 内裏のあった辺りを歩きながら 持統天皇も同じように見たであろう
大和三山を眺め 眩しい陽差しに目を細め 風の流れを感じてみる 千三百年の時を挟んで・・・・・。
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二日目最後の見聞は お墓詣り???
板蓋宮の主だった斉明天皇(=皇極天皇)の陵。
斉明天皇の希望により 夭逝した孫の建皇子(天智天皇の皇子・持統天皇の弟皇子)と
心を病んで亡くなった娘の間人皇女(孝徳天皇の妃・天智天皇の妹&恋人)も合葬されている。
三人が安らかに過ごすことの出来る場所が 死後の墳墓の中しかなかったと云うのが何とも切ない。
また陵の一角には 斉明天皇の孫娘で 大津皇子を出産後若くして亡くなった大田皇女(天武天皇の妃・持統天皇の姉)の墓もある。
天智・天武天皇の世 時代に翻弄された女人たちに思いを馳せて首を垂れる。
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実地見聞二日目の夜も 近鉄橿原線に揺られて・・・・・・♪ (part3 に続く)
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