先日ハワイ島を訪れた際、ヒロ郊外のラウパホエホエ岬を見てきました。ラウパホエホエ岬は、ヒロの津波の悲劇を今に伝える悲しい土地です。1946年の津波で大きな被害を受け、海近くにあった学校の生徒が多数亡くなったことは、今もハワイで語り継がれています。
私は2012年にヒロの津波博物館でその悲劇を知り、いつかラウパホエホエ岬を訪問したいと思っていました。ここ(クリックお願いします)に書いたとおり、なにせ24人もの子供達が亡くなった土地です。その多くが、日系移民だったんですよね。
ラウパホエホエはヒロから車で約30分ほどだったでしょうか。ハイウェイから海辺の低地まで車の通れる舗装道路が続いていて、低地に降りていくと、そこにはまだ多数の家々がありました。私の想像ではラウパホエホエは単なる海辺の一角で、学校だけがそこにあったのかと思っていました。しかも津波以来、空き地になっているかと思っていたのですが。実は今も昔も、そこには村落があるのでした。
海の際に記念碑やパネルが立てられており、それを読んで、さらにラウパホエホエ岬について多くを学ぶことができました…。驚いたことに、津波当時ここにはホテルやレストラン、ベーカリーなどもあり、2000人の住民が暮らしていたそうです。ラウパホエホエは寒村などではなく、賑やかで本格的な町だったんですね!
それにしても、なぜホテルがここに? …というのも岬には立派な船着場があり、多くの移民が、そこからハワイ島に上陸したのだそうです。ここに到着した日本からの移民も多かったのかもしれません。
学校も、小学校から高校まである規模の大きい学校でした。そのため、3人兄弟の全員が亡くなったケースもあったそうです。親御さんの心情を思うと…胸が締めつけられます。
今も岬には船着場が残っていますが、学校があった場所には緑の芝生が広がり、広々とした公園になっていました。岬ですから、三方を海に囲まれている感じで…しかも土地柄か、風がものすごく強いんです! 結果、海も大荒れ。大波が打ち寄せる海を見て、なるほど、これなら1946年の津波の日も、教師達を含め最初は「今日は一段と波が高いな」くらいにしか考えていなかったのかも。そのために多数の人が逃げ遅れたのもしれない…。そんなことを考えました。
さらに。学校跡にある公園はトイレも完備した小綺麗な公園なので、そこでBBQをする人や海水浴客もいるにはいたのですが…。なんだかその一帯が荒涼としていて、私は、まるで墓場のような雰囲気を感じていました。後に主人に聞くと、主人もまた同じように感じたそうです。…約60年前の悲しいエネルギーが、まだ岬には満ちているのかもしれませんね。
以下、今回は珍しく、写真をたくさん載せて見ました。説明抜きでゴメンナサイ!(モノクロ写真は、追悼パネルにあったものです) ラウパホエホエ岬の雰囲気を感じてみてください。