岡本喜八とジョン・ミリアスとスティーブン・スピルバーグが鰻屋で会った話。
岡本喜八と言えば、邦画黄金時代にトップクラスの監督の一人として、多くの傑作カルト作、邦画の枠に収まらない作品を残した異才だが、邦画界ではその名に反して、語られることが微妙に少ない方でもある。
最近だと、『シン・ゴジラ』のゴジラを生み出した牧教授であり、岡本喜八ファンである庵野秀明とともに語られるはしているが。
岡本喜八は、戦前、西部劇にやられて、映画をつくりたいと1943年に東宝に入社した。
助監督生活15年ののちに、西部劇風戦争映画『独立愚連隊』の脚本を認められ、1958年に『結婚のすべて』で監督デビューを果たした。
その翌年1959年に『独立愚連隊』も監督作で送り出す。これは第二次世界大戦の中国を舞台に日本人による西部劇を成立させた一本。
彼の、西部劇をつくりたい、という夢を半分かなえた形となった。
だが、彼の夢は「本場アメリカで西部劇をつくる」だった。
その夢を抱き、本場のアメリカから来る西部劇を浴びるように見ていたが、70年代になるとアメリカでも西部劇は古くなり、めっきりつくられなくなっていた。
喜八は51歳、1976年頃、初めてアメリカへ旅行へ行った。
夢の侍西部劇のシナリオの断片を抱えて。
西部劇の時代、日本で言うなら幕末頃にはアメリカに日本から米国へ使節団が行っている。
ならば、アメリカを舞台に侍を主人公に西部劇を語ることもできるはずだ。
その海を渡った侍を自分に重ねての渡米だった。
彼らも吸ったアメリカの空気を吸い、その景色を見て回る。
だが、ニューヨークからサンフランシスコへ飛ぶ機内から見た地の果てまで続く大地を見て、このくらいの話じゃこの景色に負けちまうとシナリオを破り捨てた。
ちっぽけな日本からやってきた幕末の彼らもまたこんな思いを抱えたのだろうか。
喜八は、最後にロスのバーバンク撮影所に寄ることにした。
そこで、ある監督と会うことになる。
それは、『デリンジャー』の監督で、西部劇『大いなる勇者』のシナリオを20代で書いた32歳のジョン・ミリアス(『ダーティ・ハリー』『地獄の黙示録』の脚本家)だった。
ジョン・ミリアスは岡本喜八のファンだと言う。
喜八は、アメリカの大地よりも広い太平洋を越えて、自作が届いたことを知る。
50代の西部劇に憧れる日本の監督と20代で西部劇を書いたアメリカの若き監督、そんな二人は活動屋の血を通じ合わせた。
これは余談。
このアメリカ旅行の前後あたり、70年代半ばの話。
助監督上がりでもある岡本喜八は、特撮嫌いを公言していた。
CMなどで活躍していた大林宣彦が東宝で特撮満載のコメディホラー映画『HOUSE』で商業映画監督としてデビューすることになった。
これに撮影所内部から、助監督経験のない部外者を社の助監督を差し置いてデビューさせるのかと反発が上がった。
助監督が長くデビューに苦労した岡本喜八は反発する人々に、「新しい風を迎えて学ぶべきは学ぼう」と説得して回った。
77年、『HOUSE』は大林宜彦のデビュー作として東宝作品として公開された。
大林宜彦は、かなり後年になって、この話を人づてに聞き、大いに岡本喜八に感謝したという。
閑話休題。
あのアメリカ旅行から6年が過ぎた82年。
岡本喜八は監督となって、24年が過ぎていた。アメリカで西部劇をつくる夢かなわぬまま還暦にまであと指二本。
38歳となったジョン・ミリアスが『コナン・ザ・グレート』の公開キャンペーンで来日した。
ジョン・ミリアスは岡本喜八に連絡を取り、二人は食事をすることになる。
場所は神田の鰻(うなぎ)屋。
その日、ジョン・ミリアスと一緒にもう一人の若めの男がやってきた。
『E.T.』の宣伝で来日中の35歳のスティーブン・スピルバーグだった。
フランシス・フォード・コッポラなどのアメリカの新しい映画を担ってきた若手の一派だったジョンとスティーブンの二人はなじみの仲間であり、『ジョーズ』のロバート・ショウが昔話をするシーンは二人で考えたことも知られている。
三人は食事をしながら、日本はどうだとか公開中の映画の話に花を咲かせる。
ふと、喜八は「西部劇を撮りたい」と二人に心の声を漏らす。
アメリカで活躍する二人から助言をもらおうという気持ちもあったのかもしれない。
すると、ジョン・ミリアス、スティーブン・スピルバーグの両人も「俺も撮りたい」と応えた。
ジョンはすでに脚本家でつくっているが、彼にとっては西部劇を監督するのが長年の夢だという。
スティーブンも西部劇で育った口らしく、いつか西部劇を監督したいのだそう。
三人は西部劇愛を交わし合う。
日本人の自分はともかく、アメリカで活躍する二人が西部劇を撮れないのはなぜか、と喜八はぶつけた。
返事はTVでアンチョクな西部劇をやりまくったせいでアメリカでは西部劇はもう飽きられ、死にかけのジャンルとなってしまったのだ、という。
死にかけ……、それはまるで邦画界や自分のことを言われているような言葉だった。
「それでも……」と喜八は心の声を再度漏らす「でも、撮りたいよ、俺……」と。
すると、ジョンとスティーブンも口を揃えて、「Me,Too」と返した。
映画史上に残る傑作をすでにつくっていた30代の気鋭のアメリカの監督2人と傾いていた邦画界最高峰にいる60歳目前の監督、そんな3人が、神田のうなぎ屋で忌憚なく、映画に憧れた子供のごとく、まだつかみどころのない夢を語り合ったのだった。
その10年後、1993年にジョン・ミリアスの原案・脚本作の西部劇『ジェロニモ』が公開される。
15年後、1997年に53歳になったジョンはTVシリーズ(前後編のリミテッドシリーズ)の西部劇の要素もある当時の政治劇を含んだドラマ『Rough Riders』を監督した。
約20年後、スティーブン・スピルバーグは、製作総指揮として2010年にリメイク西部劇『トゥルー・グリット』、2011年にSF西部劇『カウボーイ&エイリアン』 を送り出す。
同じく2011年に、64歳で監督として、西部劇要素のある第一次世界大戦が題材で欧州が舞台の戦争映画『戦火の馬』をつくった。
さて、岡本喜八は、70年代から邦画界が傾いたため、東宝のトップ監督でありながら、自社でもなかなか映画を撮れないようになった。そこで独立プロをつくる。製作費集めにも苦労するようになり、4年に一本発表できるかどうかという状態になって、オリンピック監督などと言われたりもした。
あのうなぎ屋の夢語りの約10年後、1995年、監督作『EAST MEETS WEST』が公開される。
それは幕末に侍がアメリカで幕府の金を追う旅をする話で、本場アメリカで撮影された侍西部劇。
予算は大きくなく、その製作途中で病に倒れもした。
「本場アメリカで西部劇をつくる」そう夢を抱いて、映画界へ入って約50年、監督デビューしてから37年が経っていた。
岡本喜八は70歳にして、夢を叶えたのだった。
余談。
うなぎ屋さんは、岩本町にあった”ふな亀”というお店で今はない。お店には、その時の3人の写真が飾ってあったそうです。
その写真を撮るときの掛け声は、「チーズ」ではなく、うなぎ屋なので「イール」だったそうですよ。
スティーブン・スピルバーグは岡本喜八の『肉弾』を観た感想を一言で伝えている。
「素晴らしいシュールレアリスムだ」
引用:エッセイ『さらば西部劇されど西部劇』(著:岡本喜八)、Wikipedia、ネットの情報。