で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1155回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『ダンケルク』
第二次世界大戦の初期、1940年の西部戦線で、ドイツ軍の猛攻の前にダンケルクに追い詰められ、敗走した英仏連合軍の兵士約40万人をイギリスが救出しようと民間船まで徴用した大作戦(ダイナモ作戦。イギリスでは、このことで生まれた勇気ある協力と結束の精神をダンケルク・スピリットと呼んでいる)を現場での様子をミクロ視点のスリリングなタイムサスペンスとして描き出す。
『インセプション』、『インターステラー』のクリストファー・ノーラン監督(脚本も)が圧倒的臨場感を打ち出す緊迫の戦争アクション・サスペンス。
物語。
1940年5月末、第二次世界大戦中のフランス北端の港町ダンケルク。
ドイツ軍に追い詰められた英仏連合軍約40万(英軍約25万、仏軍約15万)の兵士たちは絶体絶命の状況を迎えていた。
防波堤(The mole)。
若き英国の二等兵トミーは、街中を必死で逃げ、ようやくダンケルク湾に辿り着く。
撤退をしているはずの砂浜には、10万を超える夥しい数の兵士たちが救助の船を待っていた。
トミーは、先にいた、兵士の死体を埋めているギブソンという兵士と行動を共にすることに。
ドイツ軍はすぐにでも湾に進行してくるのが予想された。しかし、救助の船は少なく、遅く来た二等兵のトミーらは長い列の後ろに並ばされ、いつ船に乗れるかもわからなかった。ただ待っていれば、故郷は遠く、命の終わりは近い。
一方、海では、ドーバー海峡を挟んだ対岸のイギリスでは、イギリス海軍による、民間の小船までを徴用し、民間人の船乗りにも協力を求めた救出作戦“ダイナモ作戦”が決行される。
自分のレジャー用ボートのムーンストーン号で中年船長ミスター・ドーソンは10代の息子とその友人とともに危険を顧みず、ダンケルクへ向けて、船を走らせた。敵の空爆での被害を避けるため、それぞれの船は距離をとって進む。
敗戦の戦場へと向かう船の上だったが、その意気は高かった。
途中、転覆した英軍大型船を発見し、その上で疲弊し、うずくまっていたただ一人生き残った英軍兵を乗り移らせ、さらにダンケルクを目指す。
その頭上の空では、ダイナモ作戦を援護すべく、3機の英空軍機スピットファイアがダンケルクへ向かっていた。
ドイツ空軍は全軍で攻撃を行う中、イギリス軍は撤退作戦ということもあり、二次被害を避けるため、本土決戦に備えるため、兵力を抑えていた。戦闘機も帰投できるようにしておけと指示されていた。
英国司令部はダイナモ作戦では英軍兵約20万人中約4万人撤退出来れば成功と考えていた。
パイロットのファリアは、敵機と空戦し、被弾。飛行機構には問題ないものの燃料計が壊れ、どれほど飛べるのかの判断が曖昧な危険な状態になってしまう。しかし、僚機のパイロットのコリンズの燃料計を頼りに、ファリアはダンケルク湾を目指す。
出演。
フィオン・ホワイトヘッドが、英軍の二等兵のトミー。
ハリー・スタイルズが、英軍兵(高地連隊)のアレックス。
アナイリン・バーナードが、英軍の二等兵のギブソン。
ケネス・ブラナーが、ボルトン海軍中佐。
ジェームズ・ダーシーが、ウィナント陸軍大佐。
マーク・ライランスが、ムーンストーン号の船長のミスター・ドーソン。
トム・グリン=カーニーが、その息子のピーター・ドーソン。
バリー・コーガンが、友人のジョージ。
キリアン・マーフィが、英国陸軍の将校。
トム・ハーディが、英空軍パイロットのファリア。
ジャック・ロウデンが、英空軍パイロットのコリンズ。
スタッフ。
製作は、エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン。
製作総指揮は、ジェイク・マイヤーズ。
撮影は、ホイテ・ヴァン・ホイテマ。
『インターステラー』に引き続きです。白と黒の深み、夕闇、青空と雲と海の美しさはフィルム撮影ならでは。
味わい深い手持ち撮影にも注目。
プロダクションデザインは、ネイサン・クロウリー。
衣装デザインは、ジェフリー・カーランド。
編集は、リー・スミス。
音楽は、ハンス・ジマー。
数曲はローン・バルフェやベンジャミン・ウェルフィッチとの共作となっている。
1940年、独軍にダンケルク湾に追い詰められた英仏軍40万の撤退作戦中の浜沖空の三つの戦場を近視で描く戦争アクション・サスペンス。
ここが戦場だ!と歴史的撤退作戦の現場にカメラを持ち込み、三か所の個人の意志に寄り添わす。説明を排し、肉体、映像、音、時間といった映画的要素の偏重に賭けたクリストファー・ノーランの体験型映画というエンターテインメント・アート。
1秒を十倍にする緊張感。全キャストの献身。色彩を抑えたこだわりは残酷さに別視点を与える。音が攻めてくる。映像的扇動への真っ向からの否定。能動で見なければ置いてけぼりで死ぬ。
IMAX75mmフィルムで75%、65mmフィルムで25%撮影している巨大映像、攻撃的な音響、言葉で補わないソリッドな物語、なので、まず見る環境、体調、ちょっと予習するか、といった準備、選択をして行くのが吉です。
ダンケルク湾で実際の時期に合わせ、CGも最小限にとどめ、実機を持ち込んで撮影。映画を見に行くのは冒険なのを思い出させてくれます。
自分ならどうする?を探し続け、命の選択に身を沈ませる瞬作。
おまけ。
原題も、『DUNKIRK』。
この綴りは英語で、フランスの綴りでは“Dunkerque”
wikiによると、現地の方言(ダンケルク語=西フラマン語)で「砂丘の教会」(Dun+kerque。Dunは英語のDune、kerqueは英語のchurchにあたる)を意味する。
字幕で出る【The mole】は、辞書を引くと【The mole】だと石の防波堤を指すそう。
上映時間は、106分。
製作国は、イギリス/アメリカ/フランス。
映倫は、G。
キャッチコピーは、「生き抜け 絶体絶命の地“ダンケルク”に追い詰められた若者たち。残り時間、わずか。」
この映画の一部しか示せてません。
「生きて帰る」とかの方が主観的でいいんじゃないかな。あえて、客観的を外した映画なのだから。
クリストファー・ノーラン作品の常連のマイケル・ケインは今回カメオ出演。
ドーバー海峡上空をスピットファイア3機が飛行する挿話の冒頭で、「燃料を確認しろ。ダンケルクの戦闘に備えよ」と敵の襲来を警告する無線通信の隊長の声を演じている。
撮影には、75%(本編約103分中の約79分)をIMAXフィルム(70mm 15パーフォレーション)で、25%をコダック・ラージ・フォーマットの65mmフィルム(5パーフォレーション)を用いたとのこと。
最大のIMAX GT(フィルム)は画面のアスペクト比1.43:1で、IMAXデジタルでは1.9:1。(ちなみに日本にはIMAXフィルムとほぼ同サイズで上映可能なデジタルのレーザーIMAXは大阪は千里丘陵のエキスポランドに1スクリーンのみ)
しかし、今作は通常のIMAX以外では多くがシネスコ2.40:1(日本ではビスタサイズもある1.85:1も採用されているようだ)でトリミングされるらしく、この画面比のスクリーンで見ると、本来の映像の約40%がカットされてしまう。(丸の内ピカデリーなどで35mmフィルム上映もあるが、それでも約30%はカットされる)
おいらは、TOHOシネマズ新宿のIMAXデジタルでの鑑賞でした。
戦争映画は汚れ、装備で顔が見えにくくなるので、顔の特徴(三角鼻、下がり眉、深眼、傷など)を覚えるようにするといいですよ。
『ダンケルク』には西洋の戦争映画で必ず描かれることが一度も出てきません。
まだ公開したばかりなので書きませんが、これに気づかせない語りこそがクリストファー・ノーランの力であり、今回の大いなる挑戦であり、反戦映画である証なのです。
答えはネタバレのどこかに。
ややネタバレ。
あえて、少し緩めの画面にして、リアル感を出しています。(手持ちカメラ、戦闘機の羽にカメラだけ装着して飛ばすなど)
画面の狭さは圧迫感を、余白は不安感を意図されているのが明確で、フィルムの特性である色調のズレや一定になる暗さも生々しさを盛り上げている。
あのクソでかいIMAXカメラを手持ち出来るようにカスタマイズして撮影。ホイテ・ヴァン・ホイテマ自らオペレーションしているカットも多い。(『インターステラー』でもすでにやっていた)
ロケ地も実際のダンケルク湾で、当時の残骸が残っている中で、整備して撮影した。
撮影時期も同時期の晩春(ドーバー海峡はかなり寒い)に行う徹底ぶり(寒い海で起こる波の花(浜に上がってくる白い泡)が映っている)。
ダンケルク大撤退は、イギリス、フランスでは有名で日本で言えば、真珠湾攻撃くらいの知名度のようだ。
アメリカではまだ参戦前なので、ほとんど知られていない。
ダンケルクを描いた映画は何本かあり、有名なのは、本作と同名のジャン=ポール・ベルモント主演の『ダンケルク』(1964)。こちらは後回しにされたフランス軍兵士が主役なので、より行き場のない兵士の様子が描かれます。
ダンケルク湾へ集まった兵士たちの様子を描いたのは『つぐない』(2007)にあり、逃げ場のない大軍の疲弊の様子がよくわかります。
戦闘機のコックピット内も複座機を改造するなど飛ばして撮影している。どうしても飛びながら撮影できないシーンは崖の上にコクピットの模型を作り、高い空をバックにして撮影されている。
ネタバレ。
あえて、外された英雄的行動の価値、戦争賛美、物語ドラマチックは戦争もののマイナス面への挑戦、批判性がうかがえる。
感情的になることを好む向きには合わせていない。
なぜなら、それはそのままプロパガンダにのせられてしまう素養を鍛えてしまうからで、物語が持つ恐ろしい面でもあると指摘され続けていることを意識したのだろう。
説明も省き、サイレント映画的に語ることを目指している。
それは能動的に映画を見る行為、生き残る力、世界を見る力、生命力を呼び起こす。
受動的に見れば、戦場で死ぬ兵士のように置いて行かれるだろう。
ダイナモ作戦について、wikiなど、パンフなどいろいろ引用しつつ。
ダイナモ作戦(Operation Dynamo)は、第二次世界大戦のダンケルクの戦いにおいて、1940年5月26日から6月4日にかけて行われた、連合軍の大規模撤退作戦のイギリス側コードネームである。イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイが本作戦を計画し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(ダイナモすなわち発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから名づけられた。ダンケルク大撤退(Dunkirk evacuation)とも言う。
作戦が行われた合計9日間で、約860隻の船舶により、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を、フランスのダンケルクから救出した。
当初の計画は、イギリス海外派遣軍(BEF)の将兵のうち約45,000名を2日で回収するというものだったが、行った作戦行動では初日(5月26日)に約7000名、二日目(5月27日朝)に約20,000名しか脱出させられなかった。(この時の作戦目標をケネス・ブラナー演じるボルトン海軍中佐は言っているのだろう)
5月27日の夜、数千名を脱出させる。
5月29日、夕方にドイツ空軍の最初の重爆撃あるも約47,000名を救出。
5月30日、最初のフランス軍兵士を含む約54,000名を救出。
5月31日、約68,000名(BEF指揮官も脱出)を救出。
6月1日、約64,000名の連合軍兵士が脱出。
6月2日、約60,000名の連合軍兵士が脱出。
6月3日、最終撤退作戦を行い、約26,000名のフランス兵が脱出。
6月4日、ダイナモ作戦の終了が通達される。
ダイナモ作戦では、民間船が活躍したように言われているが、実際には兵の80%以上が英海軍により、港の防波堤から42隻の駆逐艦、その他大型船に乗り込み、撤退している。
民間船の活躍のイメージは、戦意高揚のためにイギリス軍が行ったプロパガンダ工作によるものと言われている。
チャーチルの演説も影響している。
防波堤(the mole)の一週間を分析してみる。
(※手元にある情報と記憶だけなので間違いがあったら指摘してください)
① トミーが町を抜け、ダンケルク湾にやってくる。
② 救助の掃海艇がやってくる。浜が爆撃(ドイツ軍からの最初のダンケルク湾への爆撃があったとされるのは5月29日)され、「仏軍兵士はまだ」と言われる(5月30日から仏軍兵士も救出されている)ので、トミーらが衛生兵のふりをして乗り込んだ日は5月29日以後(ここまでで救助は26日27日と3度行われているので、みなが並んでいるのもわかる)だろう。トミーらは船を降ろされたが、防波堤の橋脚に隠れ、高地連隊に紛れ、別の船に乗り込む。その夜、その船がUボートの魚雷で沈没。ここでキリアン・マーフィー演じる英軍兵士にボートに乗るのを拒否され、ロープで引っ張られ、船に乗ろうとするが、その船も沈没。
③ 流れ着いた離れた浜で朝を迎える。
④ 座礁したオランダの商船に乗り込む。そこで夜を待ち、船が浮き、エンジンを始動させるが船は沈没。乗り移ろうとした船は重油をまき散らし沈没。ドーソンの船に救助される。ファリア、浜に不時着。ボルトン海軍中佐が防波堤に残る。
⑤ 次の日、真夜中過ぎに港に到着。トミーとアレックス、列車に乗って、内陸へ向かうウォーキング駅手前で新聞をもらい記事を見る。チャーチルのスピーチ。
⑥ ピーターが新聞にジョージの記事を持ち込む。
⑧ ドーソンがジョージの新聞記事を見る。
では、分かるところから埋めていく。
⑤はダンケルク作戦終了通達し、チャーチルがダイナモ作戦についてスピーチをしたのは6月4日の議会。トミーとアレックスが列車で子供から新聞をもらうシーンは夕刊だろうか。明るいのに新聞がまだ詰まれているし、ビールをふるまっているし。(当時、夕刊があったかは不明だが)
そうすると④が6月3日になる。
③と④が繋がっていると考えると、③は6月2日。
となると、②は6月1日。①は5月31日になる。
⑥にピーターが新聞社に持ち込んだのは6月5日。ドーソンがドーセットから出発したのではなく、ジョージの住む町まで、亡骸を届けてから、そこで写真などをもらって、その後、新聞社に届けたと考えたから。
海はドーソンがイギリスの港まで兵を連れて帰るまで、空はファリアが捕虜になるまで、防波堤はトミーが、ダンケルク湾に5月31日到着したとなると、一週間なら⑦は6月6日になるので、ジョージの記事が載ったのは6月6日の新聞ということになるはず。そうなると最後はドーソンで終わることになるな。「ダンケルクの英雄」と記事にあったからダンケルク=防波堤とも読める。ジョージの死の場所はダンケルクだしな。
他のエピソードの海(The sea)の一日(6月3日)、空(The air)の一時間(6月3日の夕方)は、この時間から考えるに、字幕で示される時間はダンケルクに向かって行き、ミッションを終了したとするまでの時間であろう。
ちなみに、チャーチルは作戦の三週間前の5月10日に首相に就任している。ダイナモ作戦終了の10日後(6月14日)にパリが陥落している。
違う空間と時間軸でも音楽を繋げて、気持ちの一致を見せる。
トミーが最初の降ってきたビラをとっておき、チリ紙にしようとするところから、知恵を使う物語であることが示される。
でも、トミーは最初は銃撃、次にギブソンに気を取られて脱糞出来ないけど。
ドイツ兵への脊髄反射的嫌悪を避けるためか、姿をほとんど描かない。銃撃から逃げる時、敵を見るより、とにかく障害物の中に飛び込むために、ただ前を見て走り抜けるのみ。これは、『シン・レッド・ライン』における日本兵や『ブラックホーク・ダウン』(ソマリア兵)、『ハクソー・リッジ』(日本兵)の演出方法と同系統。
しかも、そこで銃を捨てることでこの映画では武器は役に立たないことを示している。
この作戦でのドイツ軍の攻撃は、空軍がメインなので、戦闘機や爆撃機の姿はきっちり出てきます。
当時、寒かたっため、ドーバー海峡は霧も多く、しかも、英空軍は敵の空軍基地近くで敵機を叩くためにダンケルクから離れたところで戦っていたので、ダンケルクにいた陸軍は空軍をあまり見なかった。それで空軍はなじられたそう。それが、港でドーソンがコリンズへ慰めの言葉をかけるところに表れている。
フランソワ・トリュフォーは、「戦争を描く映画は否応無く戦争を賛美する映画になる」と言った。
きっと、そうだろう。だが、クリストファー・ノーランは、これに挑んでいる。
戦争映画は面白いが、戦争は勘弁だ、と思わせる映画を。
人物の背景ではなく、現在の反応で人を見せるストーリーテリングを選択するのは覚悟がいるもの。
だが、今作では民間船のエピソード(息子が空軍に行き死んだ話、士官学校に行き新聞に載るような英雄になりたい話)に軽く背景描写を入れただけに留めている。
それは、基本どんな立場だろうとどんな過去を背負っていようと戦場で命の危機にさらされれば平等と見せるためだろう。
最後、トミーがギブソンを殺したに近いアレックスとともに行動しているのは、戦場がそういう状況に人を追い込む場所だと分かってしまっているからだろう。(アレックスは商船が沈むときにギブソンに声をかけている)
今作で映画デビューする新人が主要キャストで出ているが、それがトミー役のフィオン・ホワイトヘッド(20歳)、ピーター役のトム・グリン=カーニー(22歳)。アレックス役のハリー・スタイルズもミュージシャンとしては有名だが、この映画で俳優デビューしている。マーク・ライランスもこの映画にキャスティングされたときはアカデミー賞を受賞前であまり知られていなかった英国出身の俳優だった。
当時戦争に行った若い兵士を実際に若い俳優で見せたかったそう。
クリストファー・ノーランは、最初のオーディションでは別の映画の脚本(脚本内容をばらされない意図もあるのだろうし、知ってるものをどう解釈するかもあるのではないか)を、最終オーディションでは実際の脚本にセリフやト書きを分かりやすく足したもの(部分的であることは解釈を幅を広げ過ぎもする)を使うそう。
この映画は三で構成されている。
3つの場所の挿話に加え、3視点ともに主要キャラは3人になっている。
3人は、緊張を高める最高の対立図とも言われるが、今作ではそれはあまり使われていない。二つの対立に力をパワーバランスを崩すように配置されている。つまり、2対1になるように。(状況によっては、3対1、3対外的要因。バランスが取れないようになっている)
3話の対立は、タイプも変えられている。肉体、言葉、心に分けられている。
防波堤のトミーらは肉体。物理的なアクションで対立する。走る、傷病兵を運ぶ、泳ぐ、浮かぶ、オランダ商戦内の銃での脅しなど協力からの対立というドラマもある。(ギブソンで言葉が役に立たないというのも見せる)
海のドーソンらは、言葉。言葉で人に意志を伝えることで対立する。英将校を助けた後の後退前進の対立は肉体的勝利(子供を突き落としてしまう)してしまうことが言葉的敗北(子供に怪我させた、怪我したと告げられることで意気消沈)が起こる。重油から逃げるのや機銃からの回避のタイミング、コリンズによるファリアへの応援、そして、最後の新聞も言葉だ。言葉だからこそ対比も強くあり、最初の救助者は厄介で次は協力的、飛んでくる飛行機は敵か味方か、上にいるか下に行くか、など。
空のファリアは、心。行くか戻るかの葛藤する心が対立する。帰投を心掛けよという命令に、隊長機の墜落、燃料計の故障、コリンズの墜落、と戻ってよい状況になっていくが、一機でも援護しにいくのを選ぶ。飛行機の名前のスピットファイアーは癇癪持ち、短気の意味で性分という心の様子だったり。(ちなみに、最後の不時着は着水よりも着地の方が圧倒的に安全なので、あの判断しかないが、その前のオランダ商船での狂気の穴塞ぎを見た後ではその冷静な判断力が際立つ)
防波堤はクライマックスまで3人(トミー、ギブソン、アレックス)、海は2人(船長、息子)、空は1人(ファリア)という人数でも見せ方を分けている。
ちなみに、3つの視点から語られる話法をトリプティックというらしい。『羅生門』とかもそう。
3はキリスト教では基本の超重要な数字でもある。いわゆる、父と子と聖霊ってヤツ。三位一体と言う。父は神、子はキリスト、精霊は力(信仰とか解釈難しい)ってとこです。この3つが合わさって一つの完成形。つまり、『ダンケルク』の構造になっているわけだ。防波堤、海、空の3つの視点が、同じ空間と同じ時間同じ語りに合わさって一つになる。キリスト教的な快感がある。
でも、西洋の映画には珍しいことに今作には神に祈るシーンや父母や恋人に祈るシーンがない。こんなに宗教的な配置だったり、場所だったりするのに。飛行機を十字架に見せる演出もない。(西洋の映画ではよく使われる演出。『パーフェクト・ワールド』ではヘリのローター翼を十字架に見せたりしている)
神に祈って助かれば、それは神の御業になる。神のサイン(三位一体の構成は人に手による構成だ)が見えれば、それは神の思し召しになる。
儒時価は衛生兵のマークとして出てくるが、医療船が沈んでいくのを見せることで神の助けがないことを見せる。
宗教は否定しないが、宗教を利用して扇動することはしない、という意志が見えるのだ。
視点は、空間的に、三角∴を成すようにしてある。
浜∠、沖ゝ、空Λで、△になる。
浜はトミーら、沖はドーソンら、空はファリアらですね。
しかも、その位置関係はクライマックスで交差し、回転する。
英国の陸にトミー、港にドーソンらゝ、ドイツの陸にファリア∠、そして、彼らは天に死んでしまった者たちを見上げる。
最後のエピローグには、上から見る目はない。
人が見上げるという演出は、スピルバーグが得意としているもの。
それをM・ナイト・シャマランも使っている。(彼は宗教映画を撮るほどの敬虔なキリスト教徒だ)
そして、この二人はやや近くを見上げる感じが多い。やってくるものを見るからだ。いわば、神のイメージが潜んでもいる。
クリストファー・ノーランは遠くを見上げさせる。ほとんどは降りてこない。もしくはまだ遠くにあるか、遠くに行くものを見上げることが多い。もしくは真上のように、極端に仰角で見上げることも多い。いうなれば、神は遠くにありて思うものだ。
だが、今回は近くで見上げる構図も多かった。しかし、多くは去っていく。同じ目の位置に立つ。神は手が届かない存在になっているし、神は人に触れてこない。(『インターステラー』は神を人だと描いている)
落ち込んだ兵士は窓を見上げ、新聞の記事になった少年は読者を見上げ、敵兵につかまったパイロットは丘の兵を見上げる。
全体的にも、飛行機だけでなく、しゃがんだ姿勢から土嚢、海から船、船の出口、船室から操舵室、落ちて死にかけた少年をうつ伏せから仰向けにしたりと上を向かせた画が多い。
最後は顔を下げていた青年が新聞から顔を上げて正面を見すえる画で終わる。上を見上げない。アレックスは上を見上げる。真ん中の正面の顔、つまり、政治家は現場を知らない呆れるほどの絶望があるが、撤退は成功してもいるというはかない希望の真ん中にいる。
ちなみに、スピルバーグは、音や見えないものを映像にして見せる、その姿の一部だけを見せて想像を膨らまさせる手法で映画ならではの興奮を生み出した。(『ジョーズ』の背びれ、『未知との遭遇』の宇宙人のシルエット、『ジュラシック・パーク』の水の揺れ、『プライベート・ライアン』の海に刺さる弾の軌道など)
クリストファー・ノーランは見えるものは見えたそのままに、そして、見えないものは音や編集でイメージが浮かぶように描く手法を取る。(『インセプション』のラストカットのトーテム、『バットマン・ビギンズ』のアクション、今作の音楽など)
余談ですが、同時期公開の『関ケ原』もラストカットも、敗北して生き残った(処刑されるけど)男が下げていた顔を上げ、正面を見据える顔のアップで終わる。
しかし、意味は全く違う。ここに映画の面白さがあるんだ。約二時間積み重ねると同じ技法が全く違う意味を持つ。
死への興奮、敗北の意味性、報われないものへの救済を持たせるいやらしさがある。
『ダンケルク』は緊張やドキドキは提供しても、興奮ではなく冷静を訴える。冷静な視線を持てるような訴えがある。
ファリアが最後に独爆撃機(スツーカ)を撃ち落とした時もあえて、歓声が直つながりしないようにずらして編集されている。戦争の興奮に加担しないようにだろう。
そう今作は、説明の無さ、 うんざりする出来事の連打、音の怖さ、恐怖の危機的状況、狂気、疲弊、おためごかし、行かなかったものの美辞麗句、残酷さの軽減は万人に見せるため(興奮する赤を減らしたのではないか、ほとんどはオレンジやエンジになっている。衛生兵や医療船のマークや旗、ジャムにはあるが多くは画面を覆わない)、敵が見えないことで攻撃性を強調しない、スローやズームなどのアドレナリン反応的映像効果の不使用、英雄的行為を賛美しない(ファリアが湾の上で爆撃機を撃墜するカットは目をつぶっていて見なかったことに)勝利者には切ない敗北を用意、兵器はことごとく破壊される、生きて帰って来ても興奮はなく、戦ったのに文句を言われ、気落ちしても、それでも、生きる気力だけは残す。
戦争映画の興奮を削ぎ、命の生殺与奪の瞬間が並べられ、生きていることの瞬間の喜びだけを描く。
主要に描かれる人物10名(ジョージ、ギブソン、隊長が死亡する)が生きて故郷に帰るのだ。
今作は、死の美学を否定するのだ。自己犠牲の英雄性を否定するのだ。
劇中ではアナログ寄りの攻撃的な音を鳴らすが、エンドロールではシンセサイザーの音をゆるやかに鳴らし、現実に滑空させている。
映画鑑賞の興奮さえ削ぐのだ。
まるで、見ている間の夢でいい。イメージとメッセージだけが残るように。
戦争映画を否定し、それでもエンターテインメントとして作る。この矛盾に挑んだ今作の偉業を讃えたい。
好みの台詞。
「よくやった」「生き残っただけだ」「充分だ」
クリストファー・ノーランは、いつも通り、本作に影響を与えた11本の映画を発表。
『グリード』(1924年) エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督
『サンライズ』(1927年) F・W・ムルナウ監督
『西部戦線異状なし』(1930年) ルイス・マイルストン監督
『海外特派員』(1940年) アルフレッド・ヒッチコック監督
『恐怖の報酬』(1953年) アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督
『アルジェの戦い』(1966年) ジッロ・ポンテコルヴォ監督
『ライアンの娘』(1970年) デヴィッド・リーン監督
『エイリアン』(1979年) リドリー・スコット監督
『炎のランナー』(1981年) ヒュー・ハドソン監督
『スピード』(1994年) ヤン・デ・ボン監督
『アンストッパブル』(2010年) トニー・スコット監督
彼はだいたい、作品ごとに、この影響を受けた映画を発表してはいるが、映画を見て、これの影響もあるな、という作品を挙げないことがしばしばある。これは、映画ファンへ挑戦状を出しているのかもしれない。
『プライベート・ライアン』は逆に現代の戦場を描く映画で影響受けない映画はほぼないのであえてであろう。
おいらが今作ではルネ・クレマンの作品、特に『太陽がいっぱい』(1960)、『鉄路の闘い』(1945)、『海の牙』(1946)がそうではないか、と睨んでいる。
『太陽がいっぱい』には、なりすましのエピソード、船の上の殺人などだが、これは薄いかもしれない。
一番は、『鉄路の闘い』。ドラマ性を減らした乾いた戦争描写の群像劇で、レジスタンスの殺伐とした闘いに牧歌的シーンを盛り込む対比、独特の主観や音楽、効果音の使い方で、物語でなく画と音という映画的道具立てで観客の感情を盛り立てた傑作。『プライベート・ライアン』にも影響を与えている(処刑シーンなど)。
『海の牙』も同様だが、Uボート内の狭さと緊張した画が有名。『U・ボート』(1981)にも強い影響を与えている。
ちなみに、クリストファー・ノーランはトニー・スコットのファンであるとも言っている。
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(追記)
通常スクリーンでも鑑賞したところ。
狭い画が圧迫感をもたらしもします。
ただ音響が弱いので、緊迫感がかなり薄れます。
音がいいところで見るのが必須ですね。
二回目を見て、上の文も一部修正しました。
トミーとアレックスが新聞少年に、次に止まる駅はウォーキングだと教えてもらいます。
そのウォーキング駅はネットを引用すると、イギリス南部の軍港都市ポーツマスから伸びた79.8kmの路線のポーツマス線(Portsmouth Direct Line)の終点がウォーキング駅。イギリス南部の港町を目指す主要本線が「南西本線(South Western Main Line)」から分岐して、ポーツマス線に繋がっている。イギリスの首都ロンドン・ウォータールー駅から約40kmのところにある駅。
ウォーキングの町は、F1のマクラーレンのチーム本拠地があることで知られているそうです。
フランスのダンケルクからイギリスのドーバー港まで、ドーバー海峡の距離は約40キロぐらい。
ファリアら、ダンケルクより近い、と言ったカレーは、ダンケルクの西南に位置する隣町で、ダンケルクよりイギリスに近い港町。
英仏軍はフランスの東北部から撤退してきたので、ダンケルクになったんですかね。
一番近いドーバーの港だと狙われるからか、かなり離れた西南のドーセットの港を目指していて、距離では約300キロぐらい離れています。
ドーセットからロンドンまでは約200キロ。その途中にウォーキング駅があります。
トミーとアレックスはダンケルク→ドーセット→ウォーキングで約500キロほど移動したわけです。
現在フェリーでドーバー~カレー間(約35キロ)を渡ると天候にもよりますが、1時間半くらいかかるそうです。遊覧してると考えて、小型船出も急げば同じくらいでしょうか。
潮の流れ(行きと帰りで違うとか)などあるので簡単には言えませんが、ダンケルク~ドーセット間が約300キロと考えて、小型船に人をたくさん乗せていたとして、約8倍程度と考えて、約12時間かかったのではないかと。
そうすると、飛行している時の時計で15時台だったので、16~17時間にファリアが不時着しているので、その前に戻ったムーンストン号は、16時から12時間後の朝4時(6月4日)くらいにドーセットの港に到着したくらいか。
ドーセットからウォーキングまで、約160キロなので、東京~静岡と同じくらいか。現在で3時間くらいかかる。夕刊を配る前として14~15時くらいとしたらトミーとアレックスは10時間くらい列車に乗っていたということになろうか。80年前で戦時中で人を載せたりいろいろしてただろうしね。
『ダンケルク』を通常スクリーン上映で鑑賞。(IMAXデジタルで初見後、2回目に)
IMAXフィルム上映と比べると約40%カットでトリミングされた画面はIMAXデジタルと比べても、まるで別物だが逆に窮屈さは上がり、防波堤の挿話は見えなさが増して効果を上げている面も。海と空の挿話は空間性が失われてしまっていた。
音響の違いが大きく、音楽が音楽として聴けるため、高めたはずの緊張感が単調に感じることも。それでも効果音は強めで心臓を撃つ。
作品としての狙いはもちろん残っているが、わざと描いていない部分に目が行きやすい。ゆえに、奥に秘めた狙いは際立つため、底に敷いたテーマに思考が向きやすい。
IMAXで見る新しい映画体験とはほど遠いため、IMAXでの鑑賞を強く推したい。
ここで有名なイギリス人によるジョークをひとつ。
「イギリス人は食事のマナーにうるさいが、味にはうるさくない」
今作は、皮肉屋なイギリスの最高峰の監督による最もイギリス的な戦争映画。
これまでのクリストファー・ノーランの映画はすべて皮肉で出来ているが、通常の観客に向けて隠している。
今作を「これは戦争映画じゃない」と言ってしまうくらいですからね。
では、これは何映画なのか?
クリストファ・ノラーンは「タイム・サスペンスだ」と言っている。
刻限が迫る緊張感の物語だと。
たぶん、現在の世界の刻限、戦争が置きそうな気配。
テロとの戦争は、すでに起きている。
小さな戦争が積み重なれば大きな戦争になる。
第一次世界大戦はオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント暗殺のテロから始まった。
現実の刻限が迫っている。
避けられるだろうか?
生き残れるだろうか?
今作はクリストファー・ノーラン作品の中でも、急ごしらえだった。
映画は現実と呼応する。
ドーソンが戦争を賛美しているキャラに見えるという評を見かけました。
彼のミスで次男の友人ジョージは死んだと言えます。
船長のドーソンが彼が行くことを決断し、海軍を載せるのを拒否し、独断で出発した。
軍人が乗っていれば、キリアン・マーフィー演じる英軍将校は暴れなかったかもしれない。しかし、老人と子供であるがゆえに不安を煽られ、彼は暴れた。
ドーソンは責任をとるために行った救出作戦で、また子供を殺してしまうのです。
戦場で、戦時下では、冷静な判断は簡単には出来ない。
ドーソンもそうですし、ファリアも。(もちろん、冷静な判断をする描写もある)
今作は、自己犠牲を賛美するようには描かれていないのです。
ただし、海軍中佐は立場上の責任を取るという沈む船の船長のような判断をする。ファリアも同様と言える。これはある種の自己犠牲と言えなくもないが、仕事上の倫理感ともいえる。
ちなみに、『新感染』にも近い描写がある。これはセウォル号の船長がいち早く逃げたことに代表される、現代の職業による立場、責任をとるべき人間がとらない、プロの矜持の希薄さへの目配せもあるのだろう。
今作は「行動が先」というルールで進んでいきます。
逆に、言葉が先の時には、いろいろな意味があるのです。
冒頭、トミーは道を守るフランス兵に助けられ、湾に到着します。
しかし、イギリス軍はフランス兵を後回しにします。
この戦争の皮肉。
上記で、裏に隠した影響作として、フランス映画、ルネクラマンの作品を挙げたましたが、日本映画からも影響を受けているのではないか。
それは宮崎駿の『風立ちぬ』(2013)。
史実を使いつつ、キャラクターはほぼフィクション。当時は、日独伊の連合軍なのに、ドイツの飛行機が優秀で堀越二郎はドイツ留学もするのに、ほぼドイツ人は出てこず。イタリア人が重要キャラ。
子供時代の夢の飛行機にはハンドルを回す描写や滑空するシーンがある。
戦争映画なのに敵はほぼ身内。
ラブストーリーなのに、ラブ関係のシーンはほぼない。
家族についての描写が希薄。
ともに、異色の戦争映画。
『ダンケルク』のアイディアは1990年代にあったそうだが、2015年に76ページの脚本が書かれている。
『風立ちぬ』のアメリカ、イギリスでの公開は2014年。
(影響を受けた作品は、準備中にメインスタッフと一緒に見た映画のリストでもある。スタッフには見せてないけど、ノーラン自身が意識した映画はあるでしょうしね)
まぁ、偶然かもしれませんがね。
コリンズじゃなくて、ピーターですね。
勘違いして、思い込んでました。
訂正しました。
お恥ずかしい・・・。