菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

木々に入り立って見る人の親、里に立って旧きを見る児童。 『悪は存在しない』

2024年05月22日 08時55分01秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2360回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

 

『悪は存在しない』

 

 

 

便利屋のシングルファーザーが暮らす山の町でグランピング場開発計画を巡り、住民と会社側が対立するドラマ。

 

悪は存在しない:映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER PRESS 映画

 

英語題は、『EVIL DOES NOT EXIST』。
『悪は存在しない』。

 

製作年:2023
製作国:日本
上映時間:106分
映倫:G

 

配給:Incline  

 

 

物語。

現代日本、自然豊かな高原に位置する長野県水挽町は、東京からも近いため近年移住者が増加傾向にあり、ごく緩やかに発展している。
妻を失くした朴訥な巧は、シングルファーザーとして娘の花と二人暮らしで、便利屋を営んでいる。
町には、グランピング場の設営計画が持ち上がっていたが、それはコロナ禍のあおりで経営難に陥った芸能事務所が、政府からの補助金を得て計画したものだった。
住民たちに不安が広がる中、会社側の説明会が始まり、問題が噴出する。

 

監督と脚本は、『ドライブ・マイ・カー』『寝ても覚めても』の濱口竜介。
『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー国際長編映画賞とカンヌ国際映画祭脚本賞、『偶然と想像』でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、今作でベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞し、世界3大映画祭のみならず、アカデミー賞も獲得し、現在世界で最も注目される作家の一人となった。
『ドライブ・マイ・カー』でもタッグを組んだ音楽家でシンガーソングライターの石橋英子によるライブ用の映像制作の依頼から、プロジェクトがスタート。
この同じ撮影素材で編集されたライブ用映像であるサイレント映画『Gift』(2023/74分)は、数度の上映しか行われていない。(こちらは編集が山崎梓によって行われている)
『Gift』完成後に、今作は編集され、完成した。

第80回ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したほか、映画祭本体とは別機関から授与される国際批評家連盟賞、映画企業特別賞、人・職場・環境賞の3つの独立賞も受賞。

 

 

スタッフ。

監督・脚本:濱口竜介
企画:濱口竜介、石橋英子
プロデューサー:高田聡
エグゼクティブプロデューサー:原田将、徳山勝巳
制作:石井智久
助監督:遠藤薫

撮影:北川喜雄
美術:布部雅人
録音:松野泉

整音:松野泉
カラリスト:小林亮太
編集:濱口竜介、山崎梓
音楽:石橋英子

 

 

出演。

大美賀均 (巧/便利屋)
西川玲 (花/娘)
小坂竜士 (高橋/会社員)
渋谷采郁 (黛/会社員)

菊池葉月
三浦博之
鳥井雄人
山村崇子
長尾卓磨
宮田佳典
田村泰二郎

 

 

 

『悪は存在しない』を観賞。
現代日本長野、便利屋のシングルファーザーが暮らす山の町でグランピング場開発計画を巡り、住民と会社が対立するドラマ。
監督と脚本は、『ドライブ・マイ・カー』『寝ても覚めても』の濱口竜介。
三大映画祭で賞を獲得し、今や世界でトップクラスの作家となった。
『ドライブ・マイ・カー』の音楽担当の石橋英子からのライブ用映像の依頼から生まれた作品。(こちらはサイレント映画『Gift』(2023/74分)として完成)
第80回ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞。
アートながら、独自の会話と対立構図を入れて、見やすいドラマ構造となっている。観客とのコミュケーションを考えているのが伝わってくる。狙いがことごとく映画的に嵌っていて、映画を見る喜びにあふれている。そうでありながら、王道話法からの外しが、この作品ならではであり、濱口竜介節となっていて唯一無二の輝きを放つ。
アート作品の楽しみは既存の凝り固まった観方ではなく、作品自体と向き合って観ることにある。そういう観方の楽しみができる中でも日本人だとさらにネイティブな楽しみで、この映画は見られるようになってますし、そこを踏まえてもかなり見やすい内容になっている。映画館の<館>は美術館・博物館・水族館のそれと同じものでもあるのですから。娯楽作品だけなら映画屋か映画座、映画場(えいがじょう)になっていたのではなかろうか。劇場として、そこでは娯楽も芸術、何が飛び出すか分からない分け隔てないビックリ箱なのだ。
毎度、映画に初めまして出会う喜び、それを思い出させる。
開巻、ずぅーっと森が続く。それは映画、スクリーンに入っていくように。あなたがカメラになり、あなたの目になるまで、十分にたっぷりと、博物館や水族館って、入り口に大きなホールや長い階段やエスカレーターがあるあの感じとも近い、その世界へ入るのに、意外と人は旅気分になるには時間がかかるもの、日常から別の時間に移るためには。そうやって、光が投影された暗闇の中、耳と目になる。この導入はおもてなしともいえる。(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、盲目の世界に連れていくために冒頭1分間、黒を映した例もある)
英語題は『EVIL DOES NOT EXIST』で、これが冒頭の方で提示される。まず、その文字の出方がくすぐり、枕になっている。
「悪は存在する」→「悪は存在しない」へとなり、題名自体が今作の観方を提示する。「それって、どういうこと?」「さあ、どっち?」から物語中の思考のガイドを示す。見終えた後で日本語でのタイトルが出るので、はてさて、「あなたはどう思う?」という問いかけが投げかけられる。まず英語で出ることで世界の観客にも向けているし、映像的なモーショングラフィックで文字さえも映画の一部であるという意図がこもる。
このタイトル自体が手土産で玉手箱。抜群のタイトルだなぁ。映画と合わさって、タイトルについてだけで小一時間語れる。映画は見終えた後のコミュケーションも楽しいものなのだから。誰かと話すのでなくていい、自分と話すのでもいい。脳内で、作家や登場人物と話すのもいい。
複数の主人公で語られることで、視点を多面的にしている。それぞれに共感もできるし、片方に載っても、相手の事情も理解できる。今作は、さらに大きな視点=自然があり、そこにはそこにあるものをそのままを写せる映画ならでは、思考を超えた存在を提出できる。それはスクリーンの大きさというものを強く影響する。大きさを体感できることは意識に強く影響する。苺の一粒の大きさに驚いたことはないだろうか、数センチの違いを目にすることの違いを思い出して欲しい。それほど、大きさは強く影響する。しかも、比較対象がない暗闇で見るということには。物語は舞台でも落語でも味わえる。だが、大きさを変えて受け取れるのは映画ならでは。例えば、子供の顔がスクリーンいっぱいに映されるとき、あなたの頭の中で実物はこれぐらいの大きさと処理するが、目にしているのはその十倍も大きいもの(顔)で、そこにはいつも意識していなかった存在として浮かび上がってくる。
今作はさまざまな視点でカメラが置かれる。何かに見られているかのように、何かが潜んでいるかのように、どこかホラーじみているかもしれないが、そこには一人じゃないという安心感も同居する。だから、映っていないことに、意識が向く仕掛けともなっている。それは何の意識か、自然そのものなのか。まるで植物がこちらを見ているかのようなカットも入るし、カメラが見ているようなカットもある。そこに神や霊を見る人もいるだろう。おいらは、そこに見返される意識を見た。自分は見られてるという意識。
しかも、ここを見て、とタイトルはガイドもしている。悪は存在しているか、を意識して見てはどうでしょう、と。
その上で、何かが見ているように、あなたの目だけが見るものを観よと映画自体の構造が示す。映像でしかないのだから、そこには見たものと見られた映像の関係だけが存在する。
今作は、見る人を<見れる人>、<見られる人>にする。
それは、<聞く>にも通じる。
この映画の中の声はことさらわかってもらおうとは発せられない。そううまくは内面を出せるものではないことを伝えてくる。聞いているようで聞いていない状態にさせないのだ。
映画にもいろんなものがある。演技にもいろんな方法がある。解釈にもいろんな方法がある。
だけど、それに触れたあなたはあなただけ。
そんなあなたが何人もいて、映画は鏡になる。
そして、それはあなただけの物語になる。
映画に悪は存在しない、と言いたい。
まぁ、悪意は存在する気はするけども。
この映画で触れたものをあなたも確かめ合いたくなるといいな。
だって、おいらは、もう数週間見たものを確かめ続けている。
それは日常に溶けて流れて、いつしか溜まっていくだろう。
どう、それに意見しようか。
考えているわたしがいる。

 






Evil Does Not Exist (2023) - IMDb

m-appeal | EVIL DOES NOT EXIST

Evil Does Not Exist (12A) - Worthing Theatres and Museum

Evil Does Not Exist - Filme 2023 - AdoroCinema

Evil Does Not Exist (12A) | MONDAY NIGHT FILM CLUB at Robert Burns Centre  Film Theatre event tickets from TicketSource

Evil Does Not Exist ที่นี่ไม่มีปีศาจ

EVIL DOES NOT EXIST press kit

 

 

 

これは ↓ ファンメイドポスターみたいです。

A Scary May In The Life on X:

 

 

ちなみに、邦題『悪は存在せず』(2020)というドイツ・チェコ・イラン合作映画がある。
原題は『SHEYTAN VOJUD NADARAD』で、英語題は『THERE IS NO EVIL』。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

カメラは、上下左右の動きを意識して、動いていく。
カメラそのものが生き物のように。

音楽のつけ方には人の強い意図を感じる。
意思に沿って流れ、切断される。

 

 

ラストは、巧が感じていた予感、そうなるかもしれない(自然側の繰り返しが牙をむく)という予感が、それが目の前の最悪の結果(娘の死)と結びついて、導き出された恣意的な想像を見たのではないか。
それは、小さな積み重ねによるゆがみ、バランスの崩れによる崩壊。
水は低きに流れ、処理できないものは溜まっていく。
日々の繰り返しで、その些細なズレに麻痺していく。
巧は、妻を失くした意識から目を背けようと、仕事や自分事に専念し、娘の花のことを忘れてしまう。
花もまた母を亡くし、しかも、経験がない子供として、それにどうにか対応しようとする。父と同じように、何かに専念することで、処理しようとする。(冒頭の森を見上げ続け動き続けるカメラは、まさに観客にこの専念する行為を体感さあせてもいる。いろいろ考えてしまうところから、ただ見ることにたどり着くであろう、長い時間をかける)
父は何度も遅刻し、娘を一人にする。娘は一人に慣れ、危険に麻痺してしまう。

この映画は、見ているようで、見ていないことを提示し続ける。
父は娘を見ているようで見ていない。
高橋が最初に薪割がうまく行かないのは見ているようで見ていないからでもある。
コンサルタントが現地に行かないのはまさに見ていない行為。(社長も同様)
『だるまさんが転んだ』はまさに見ていない間に動く遊び。
車の後部視点なのは、前を見ていない撮影でもある。
グランピング場の計画も、住民も土地も見ていないことが露呈する。
私たちは見ているようで、見ていない。
では、見るとは何か、を問うてくる。
存在を見ていますか?と。
悪が存在するか見てください、と見方も提示して。

 

階層的なものも描いている。
だが、それはピラミッドではなく円環構造を持つ。まるで、水が蒸発し、雲になり、雨や雪となって降り、地へ落ちて溜まり、流れとなって川や海や地へと沁み込み、また蒸発して雲になるような。そして、それぞれの水は液体、流体、気体、個体と違う形をとる。(うどんにも姿を変える)
会社と社員、親と子、在来と新規の住民、組織と個人、自然と人工、理と情、歴史、それぞれの階層が存在する。
特に、円環的には、自然、人類、会社の権力、雇用者、住民、土地、自然のような円環で。
組織ー人間ー自然の階層で、それぞれに状況の変化という攻撃と恒常的な生活の守備で対抗し、行動に出る。
住民は会社側に、社員は会社に、巧は社員に、人間は自然に。
そして、その仕組みから巧が感じていた予感は、自然は人間に抗議してくるのではないか。
その意識が、最後の鹿が人間(娘)へと抗議した。
階層が違えば、言葉も手段も違い、それは理解されづらいものになってしまう。相手を見ないから。

 

上を見ている花の視線は、上にいる何か、神か昇天した母か、を見ているように感じる。
巧は、下を見ることが多い。
上下は親と子でもある二人の関係の視線のはずだが、その視線はほとんど交わらない。
花は、地に落ちた羽を探す。
まるで、父と同じ目線を手に入れるように。



巧は、どこか自然に攻撃を加えてもいる。木を伐り、水を運び出す。
自然に沿うようにというのは人間の都合の良い、回想的観方だろう。
彼は病気という自然が妻を奪ったとも受け取ってはいなかただろうか。
そして、自然は同じように娘を奪った。
巧は自分に罪はないと感じていないだろうか。俺は、自然に沿ったじゃないかと。
なら、何が自然に抗議させたのか? そうではない人なんじゃないか。そうではない人=都会の人間(ストレスを捨てに来る自然をゴミ捨て場とする人)=高橋。いくつものこと(流れずに溜まっていたもの)が瞬間的に巧の中でつながり、それは巧の中の流れ切らずに溜まっていたものを動かす。
抗議として、同じように行動として、許しを乞うかのように、高橋を生贄にする。罪を償えと。(だが、巧は自分を棚に上げてもいるし、自分しかそれを理解しておらず、自分しか手を苦だsでないという責務も感じていたか)
自然は言葉なく、現象でしか、示さない。
そこに悪は存在しないということか。
最後、高橋は荒い息が聴こえるし、小さく動きがあるので生きているので、それもその行動への抗議となる。
巧は、責務を負い、森で死を迎えるのだろうか。それとも罪を償いに戻ってくるのだろうか。

 

濱口竜介監督はインタビューで、ラストシーンについて、こう答えている。
「彼自身が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然みたいなものが、彼にああいう行動を取らせているんじゃないかと考えています」

 

自然に神を見るアニミズム的宗教観を持つ日本人や人々と、違う宗教観を持つ人では、この映画は全く違うものが見えるのではなかろうか。
それとも自然への畏怖は人類共通のものか。

 

 

 

 

 

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