で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1264回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『15時17分、パリ行き』
『ハドソン川の奇跡』ほかの巨匠クリント・イーストウッド監督が、2015年にフランスの高速鉄道で発生した列車内の銃乱射テロ事件(タリス銃乱射事件)で、犯人を勇敢に取り押さえて大惨事を阻止したアメリカ人青年3人らの英雄的行為を映画化した実録ドラマ。
幼なじみの若者アンソニー、アレク、スペンサーの3人が、旅行中に遭遇した無差別テロにいかにして果敢に立ち向かうことが出来たのか、その知られざる真実の物語を、彼らの子ども時代からの半生と、緊迫の事件のリアルかつ詳細な再現を通して明らかにしていく。また3人の主人公のほか、事件が起きた列車に偶然乗り合わせていた乗客たちの多くが本人役として本作に起用され、劇中で自らを演じるという前代未聞のキャスティングも話題に。
物語。
2000年代のアメリカ。
小学生のアレク・スカラトスとスペンサー・ストーンは親友。
彼らの母親二人が学校に呼び出される。教師に、あなたたちの息子は二人ともにADDとしか思えない、薬を飲むべきと言われる。ブチ切れた母親二人は公立校から息子らを転校させてしまう。
転校先で、二人は馬の合わない教師と妙に口の立つアンソニー・サドラーと出会う。
2015年のヨーロッパ。
三人は、旅行である列車でフランスに向かっていた。
列車には不穏な空気が流れていた。
時は戻って、2010年代。
それぞれの道を歩んでいた3人だが、今もつるんでいた。
原作は、アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン、ジェフリー・E・スターン。
脚本は、ドロシー・ブリスカル。
出演。
スペンサー・ストーンが、本人。(アメリカ軍人)
アンソニー・サドラーが、本人。(大学生)
アレク・スカラトスが、本人。(アメリカ軍人)
ウィリアム・ジェニングズが、少年時代のスペンサー。
ポール=ミケル・ウィリアムズが、少年時代のアンソニー。
ブライス・ガイザーが、少年時代のアレク。
ジェナ・フィッシャーが、アレクの母。
ジュディ・グリアが、スペンサーの母。
レイ・コラサーニが、犯人。
P・J・バーンが、教師のヘンリー。
トニー・ヘイルが、コーチのマーリー。
トーマス・レノンが、校長。
アリサ・アラパッチが、リサ。
ほかに、アイリーン・ホワイト、ヴァーノン・ドブチェフ、など。
スタッフ。
製作は、クリント・イーストウッド、ティム・ムーア、クリスティーナ・リヴェラ、ジェシカ・マイアー。
製作総指揮は、ブルース・バーマン。
撮影は、トム・スターン。
いつもの攻めた陰影もなく平凡なルック。ただ、狭い場所を活かしたカメラワークはさすが。
プロダクションデザインは、ケヴィン・イシオカ。
衣装デザインは、デボラ・ホッパー。
編集は、ブル・マーリー。
『ハドソン川の奇跡』でも組んでいる若手。
少々テンポが間延びしているのはリアルともいえるが、やや幕間ごとにばらつきが見える。
音楽は、クリスチャン・ジェイコブ。
いつもより、やや俗っぽいのはあえてか。
2015年に起きた欧州でのタリス銃乱射事件でテロ犯と戦った3人の米国人の半生を描く実録ドラマ。
主役の3人含め多くの当事者が本人として出演し、形容しがたいリアリティを持ち込んでいる。それにより少しぬるく感じなくもないがそれこそ現実的とも言える。下手ではないもののぎこちなさは残っている、特に技術的なカットにおいて。
クリント・イーストウッドの達観した語り口が映画を外野から守っている。
脚本のバランスが悪く、それがリアルだともいえるもフィクションとしては歪な作法なので飲み込みづらい。劇映画の文法に当てはめれば穴は多いが、再現映画という珍しいジャンルとしたら、金字塔を建てた。
言葉切れを悪くさせる作品。
事件のシーンの編集がクラシカルになったのは少し残念。観光シーンの方は今風だったので際立ったか。
音楽がいつもより俗っぽいのも好みが分かれるところだろう。
現実的な部分を寛く受け止めれば繋がった一本のレールが見える多面的映画。
このコンセプトを込みで見る楽しみは深い。色々と考えてしまうということでは大成功。
賛否当然の挑戦をする御大に今やれるべきことをやるのだという覚悟を実感する茎作。
おまけ。
原題は、『THE 15:17 TO PARIS』。
『15時17分 パリ行き』。
THEがついているので、その列車を示しているのだろう。
上映時間は、94分。
製作国は、アメリカ。
映倫は、G。
キャッチコピーは、「その時、3人の若者が乗ったのは運命の列車だった。」。
内容説明型。
ネタバレ。
タリス銃乱射事件は、2015年8月21日に乗客554名を乗せたアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリス車内で起きたテロ事件。
トイレに立ったフランス人の乗客のマーク・ムーガリアンが先に待っていた乗客と二人で待っていたところ、先客がなかなか出てこないのとトイレ内から不審な物音(自動小銃の装填音らしき音)に気づき、身構えたところ、出てきたテロ犯と対峙。マークが自動小銃(AK‐47)を奪うが逃げる際に落としてしまい、テロ犯がハンドガンを発砲し、彼を撃った。その後、テロ犯は自動小銃を拾い、行動を開始するも乗客4名に取り押さえられた。
主役3人が本人だと宣伝されているので、それを知っているとある種のサスペンスは失われる(無事に生きているから出演しているわけだから。アメリカではかなり報道されたので知られていることだが)が、負傷者救助を途中で語ることでサスペンスを持続している。
劇中で、撃たれたマーク・ムーガリアンの安否は明確にされないが、演じているのは本人なのでそれで答えになっている。妻のイザベラ・リサチャー・ムーガリアンも本人。
確保を手伝ったフランス在住イギリス人ビジネスマンのクリス・ノーマンも本人。
事故後のインタビューなどでは、スペンサーは入院中のため、アレク、アンソニー、クリス・ノーマンの3人で受けています。
受勲の時も4人だったしね。
あの語り口だと、本来は、彼も主人公になるべきだと思うが、イギリス人であることで外されたのだろう。イギリス人なので、プロテスタントなのかもしれない。
それに、映画が再現だとして状況を見ると、最初に格闘したことで撃たれたマーク・ムーガリアンも表彰されてもいいと思うのだが、治療中ゆえに後でレジオン・ドヌール章を受勲している。
3人というか、ほとんどスペンサーが主役。
しかし、映画はアンソニー・サドラーのナレーションから始まって、二人のとの出会いのはずがスペンサーとアレクに語りの主軸が移るので、少々語りの座りが悪い。
三部構成として見た時、一幕目は『スラムドッグ$ミリオネア』的な過去の経験が現在に生きる構成。二幕目、入隊から観光旅行の日常描写。三幕目は、事件という非日常のクライマックスと実際のニュース映像で現実に持ってくる構成になっている。
一幕目のカットでやっていた内容が、二幕目と三幕目でシークエンスの構成に分割されている。独特の構成は、その配置のバランスの悪さで、あまり機能してない。
軍人になったのは運命のように描かれるが、軍人二人以外に一緒に戦った3人(アンソニー、マーク、クリス)はどうだろうか。やはり本来はこの5人を並列に描いておく事件を軸にしたグランドホテル形式もありえたはず。『15時17分、パリ行き』の列車というタイトルもより活きただろう。
例えばの話だが、隠れていた乗務員も入れて、アンソニー、スペンサー、アレク、マークと妻、クリス、乗務員、もう一人の乗客、犯人の8つのドラマが集約していく『ショートカッツ』的な流れであれば、それこそ運命の部分を強調できたのではないか。やはり、キリスト教の強固な数字3の配置を意識したのだろうか。
原作には犯人への言及もあるそうなので、そんなことを考えてしまった。
脚本のドロシー・ブリスカルは『ハドソン川の奇跡』、『夜に生きる』、『ローガン』、『ウォーマシン 戦争は話術だ』などでプロダクション・スタッフを務めてきた方でTVドラマの脚本を一本書いたことがあるようだ。
ただし、原作は、3人の友人に取材したノンフィクションなので、他の人物が入ってないようなので、他の要素を入れるのは難しいのかもしれないけど。リアルなコミカルさはとてもよいので、題材との相性なのかもしれない。
とはいえ、それらもまたある視点、「人生に押されている気がする」のような運命論というよりは出来事は起きるがそのための準備をしてきたかどうかを問う話だとして見ると、それぞれが必要だったのだという見方にもなる。
原作本が書かれている最中に、映画化企画は始まっており、草稿を読んだ後で、本格的に動き出したとのこと。
この列車には、フランス人俳優のジャン=ユーグ・アングラードも搭乗しており、警報器を鳴らそうとしてガラスをたたき割り、軽傷を負っている。彼は当時を振り返り、「乗務員が乗務員室に逃げ込み、扉を施錠して閉じ籠ったので、乗客全員が殺害されることを覚悟した」と述べている。
そして、今作がの製作が発表された時には、現実の事件をただ英雄的行為を喧伝するためのものにするのであれば、あまり好ましくないといった旨の発言をしている。彼は今作を見ただろうか? 見たとしたら、どう思うか聞いてみたいところではある。
クリント・イーストウッドは、インタビューで、運命というよりはただそうなったという意識で語ったと答えている。
負傷したスペンサー・ストーンはアメリカからパープルハート章とエアマンズメダルが授与されており、事件後に軍に復帰したそう。あの親指はうまくつながったのだろう。
ちなみに、アレク・スカラトスはオレゴン州兵。(劇中でも語られる通り、アフガニスタン駐留からの帰国が決定し、その祝いとしての旅行だった)
犯人のアヨブ・エルカザニは2016年の8月に未だ裁判中で、収監されているそうで、今回映画が公開されるに当たって、担当の弁護士が、公判が終わっていないのにストーン、アレック、アンソニー側の視点という一方的な見方で作られた映画が公開されたことに公式にクレームを発表している。
そういったこともあり、キリスト教賛美的な内容にも受け取れる内容になっていることもあってか、本国の評価はかなり低い。
実際に、作品もコンセプト以外は取り立て高いレベルにあるモノではなく、普通の出来。(題材もあるのではまる人もいると思われる)
というわけで、日本でも、評価は揺れているのだが、本国よりも絶賛者が多い印象。
これにはどこか日本ではクリント・イーストウッド信奉のようなものがあるので、それがフィルターになってしまっているのではないか、と穿って読んでしまうところもある。
ただ、アンソニー・サドラーは家が教会だが、あえて、そのことを描かないなど、キリスト教系の学校に行っていてもそれをメッセージには利用しないなど、宗教的啓示は過多になっているわけではない。
このコンセプトだと犯人アヨブ・エルカザニの役の俳優レイ・コラサーニの現実での立場が心配にもなったり。
彼の出演の覚悟など含めて、俳優の仕事の困難さと尊さを実感する。
この方法論でも今作の製作費は30億円かかっており、これは『ミリオンダラー・ベイビー』とほぼ同額。(2004年作品なので換算だと本作の方が少し安くなる)
欧州ロケが経費かかるのかな。
実験的で驚かれているのは、ヒットを出すハリウッドの大巨匠がということだからだ。
事件の本人がそのまま出演する映画は他にもけっこうあり、傑作もある。
アッバス・キアロスタミのセミ・ドキュメンタリーではあるが『クローズ・アップ』 (1990)では犯人も被害者も本人による再現のシーンがほぼ劇映画として描かれる。事件のその後や現実のドキュメンタリー部分もあるとはいえ、逮捕された俳優ではない本人が演じている。
アッバス・キアロスタミには実際の出来事を膨らまして作ったフィクションがいくつかあり、ラブストーリーの『オリーブの林をぬけて』は本人二人を主役を起用して、再現であり虚構を表現している。その弟子のジャファル・パナヒは自分を主人公に全員本人によるフィクションという『人生タクシー』をつくり上げており、一応、ドキュメンタリーということになっているが、前作の『これは映画ではない』でも本人ということになっている再現映画だ。
ジャック・ベッケルの『穴』でも実際の脱獄を基に描かれた小説を映画化したものだが脱獄囚ジャン=ケロディが自身の役で出演している。
最近でも『ビッグ・シック』は当事者がコメディアンなので、当事者が脚本を書き、主演は本人が務めている。『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』も同じ。この手のはたまにあり、『マジック・マイク』はチャニング・テイタムの自身の話を基にしたフィクション仕立ての映画で本人が主演している。こういった映画では当事者がそもそも俳優的な仕事をしており、ある意味、普通の劇映画と変わらないのだが。
他にも、再現ではないが、発想の基になった実の妻の妊娠を映画に取り込んだ市井昌秀の『無防備』にはその奥さんが重要な役で出演し、実際の出産シーンが撮影され映画に組み込まれている。
手前味噌になるが自作『つづく』も実体験を基にした再現に近い物語を主演以外の主要キャストはほとんど本人が出演している。
そして、『典子は、今』(1981)を忘れてはならない。実在のサリドマイド病患者・白井のり子(当時は辻典子)の半生を描いたセミ・ドキュメンタリー的な映画で本人で再現しており、東宝配給のヒット作で、身体障害者の社会参加を力強く訴えた意義深い作品。
『ケニー』(1987)もケニーと兄本人が出演した壮絶な再現映画である。
今作を語る時、こういった先人の取り組みも同時に語られるといいのにな、と思うのです。
この映画のキャスティングは、最初はプロの俳優とのオーディションを行っていたそう。その時に、隣の部屋で実際の3人がオーディションの様子を見ていたのだとか。ある時、クリント・イーストウッドは3人ならプロの役者が持ち込めないリアリティを持ち込めるかもしれないと思いつき、「自分たち自身を演じる、ということをどう考える?」と訊いたところから、このコンセプトが始まったそう。
以下は、監督と出演者による合同インタビューより抜粋したもの。
ジェナ・フィッシャー「質問があるわ。列車での瞬間を再現するのは、あなたたちにとって、感情的にどうだったの?それを経験するのはとても大変なことだったと思うけど、それをまた経験するのはどうだったの?誰かそのことについて聞いたりした?」
アレク・スカトラス「僕らは実際、それについてたくさん聞かれたよ(笑)。」
アンソニー・サドラー「ほとんど全てのインタビューでね。」
ジェナ・フィッシャー「わかった、ググっておくから先に進んで。」
アレク・スカトラス「正直に言って、とても楽しかった。」
クリント・イーストウッド「僕も同じ質問を何度も何度も彼らにしたよ。スペンサーには「あなたが立ち上がったとき、それはどんな感じだった?何があなたを、今ある最も恐ろしいライフルの1つであるAK-47を持ったこの男に真っ直ぐ走らせたの?」とね。そしたら彼は「何もないよ」と言った。彼は何かについて考えたりしていなかった。そして、やっと彼から、彼が不発の音を聞いたとき、彼自身がもう一度生きていて、自分が殺されないことに気づいたということを聞き出した。そこで少し彼に変化があったんだ。でも、僕ら普通の人たちは、それらの答えが知りたいんだよ。そして、列車でのマークとイザベルへの僕の最初の質問は、「こういった演技をすることは、あなたたちにとってカタルシスのような感じかい?これに戻って、それをもう一度経験するのは?」というものだった。ボーイズは「自分たちを助けることになる」と言ってすべてOKだったけれど、マークは本当に撃たれて死にかけた。弾丸は彼の背中を突き抜け首の方に行って、頸動脈を破った。もちろん、頸動脈は、ふるいにかけたみたいに出血する。もしみんなが適切に処置しなかったら、彼は死んでいたし、彼もそのことは知っていた。でも、振り返ることに関して、彼は「もちろんだ」と言った。」
今作もやはり創作は入っている。
例えば、スペンサーとアレクはアンソニーと校長室前で出会ったわけではないとか、事件の日の会話も映画のための創作だそう。
列車はセットを組まず、実際のタレス高速鉄道を使用し、同じ航路(ただし逆方向にパリからアムステルダムに向けて)で走らせて撮影している。照明もほとんど組めなかったので、自然光で撮影されている。
部屋にクリント・イーストウッド作品のポスターが貼ってあるのはプロダクション・デザイナーのケヴィン・イシオカの狙いで、アレクが実際にクリント・イーストウッドのファンだったらしく、欧州旅行の時にはイーストウッドの顔がプリントされたTシャツを着ていたので、それを再現しようとしたら、クリント・イーストウッドに止められたので、部屋に置いたようだ。
とはいえ、この雑さというかラフさは年齢と経験を経てきた巨匠ならではの力の抜け方という気もする。フリー・ジャズのセッションのようなね。しかも、手慣れたベテランが子供らの演奏に合わせて、何とも言えない味わいを出すような。
インタビューでクリント・イーストウッドが3人をボーイズと呼んでいるのを読むとそんなことを思ったり。
引退を宣言していた役者業もちらっと撤回するような企画も出ているそうなので、100歳までは現役で後二桁は映画をつくってもらえたら、と祈るばかり。
最近の作り込みまくった映画さ法へのアンチテーゼだったりしてね。