菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

僕を見て。  『ソーシャル・ネットワーク』

2011年01月17日 08時07分31秒 | 映画(公開映画)
 
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第185回。



「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『ソーシャル・ネットワーク』





デヴィッド・フィンチャー監督、アーロン・ソーキン脚本による圧倒的な会話劇。
一応、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)“フェイスブック”をめぐる実話を基にしているが、かなりの脚色を加えていると言える。
ここに描かれているのは、表面上の情報ばかりが豊穣になり、内面の人間性が乖離していく現代の状態。
しかも、様式としては古典的な物語の方法を取りつつ、そのシンプルな情報を大量に重ねることで、もしかしたら違っているのかもしれないという情報の曖昧さへと変えていく。
カテゴリーに分けることや、なになにのようなとか、ラベルを貼ることで理解の速度を上げているようで、それぞれが持つ違いに目を向けるのを放棄していること。
見出しだけでニュースを読み、何が起こったのかを今までの自分終えてきたデータベースの中の情報で処理してしまう。
よく似ているようでも、すべては一個の人間の強烈な生の産物。
単純な感情の積み重ねは、複雑な感情に至るのだ。

1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=10だけではなく、5+5にも、2+2+2+2+2にも、1+2+3+4にもある。

青春、恋愛、成長、復讐、実話、成功、偉人伝、裁判劇、社会問題、現代の題材と多種多様な物語は、ジャンル分けすることができぬほどに絡まっている。
ミクスチャーと、古典回帰の0年代は、その完全融合を果たしたこの真打の登場で、ようやく目指すべき道の一本を見いだせたとさえ言っていい。
そこには、感情移入を阻まれてさえ、それでも自分の思いを乗せる場所を探す能動の鑑賞がある。


この物語をおいらは、【受け入れて欲しい】という思いに突き動かされた成長期にある人々の思いを描いていると観た。
最初の彼女エリカは、最初の他人すなわち、マークにとって、社会そのものだ。
以後は、エンディングについて触れないとならないので、いつものようにおまけで。



にしても、よく似た毎日なのは事実で、しかも巨大なシステムが支配する現代において、新しい世代が自分たちの世界を開拓するのは本当に難しい。
それを可能にした人物のドラマを描くことで、その閉塞感を突破する現実の興奮を助けにしている。
以前は、それはモデルにした架空の人物で描いていたことだ。現代の情報量に立ち向かうために、ここでは現実に起きたこととして、虚構を導き出す。
そのためには、今までのモラルを捨ててでも突き進まねばならないし、得るものが多ければ失うものも多い。
新しいビジョンを想像しがたい世界で、新しいビジョンを共有することは本当に難しい。
創造力を使えといわれても使い方は誰も教えてくれないのだ。
旧来の方法を選んでいては、旧来のシステムに飲み込まれるのだから。



多面体のこの映画は見る側が問われる。
日本の高名な映画評論家たちさえでさえ、真逆の理解をし、評論を展開してるほどだ。
特に、マークが外見を気にしないで済むようにネットの世界に行ったとする論と、匿名性をはいだSNSを作ったのはありのままの自分を見せられる場を作ったとする論だ。
おいらは、後者に近い。
彼は外見を気にしない。
ネット上でもとり作ったりはしない。

アメリカでは、絶賛の嵐である。
部名Kの違いはあるし、彼らが全面的に正しいとは言わない。
だが、その差には、映画の技術を見る目の差があるのではないだろうか。





この恐ろしい脚本を書き上げたアーロン・ソーキンの手腕は、凄まじい。
この尋常でないスピードを意識して書いたらしい。
現場でも、アドリブはほとんどないそうで、内容はほぼ脚本通りだという。

そして、デビッド・フィンチャーは、すべてのシーンに語り手(登場人物それぞれ)のスタイルを持ち込んで、映像の演出によって、人物を浮き上がらせるということを成し遂げている。
そこには、徹底的に空気感を産みだしている。

この二人の意図をつなげた編集が恐ろしい出来栄え。
これを成し遂げたアンガス・ウォールとカーク・バクスターのチームは、以前にもフィンチャーとコラボレ-ションを続けてきたチーム。
セリフを矢継ぎ早につなぎ続けることは、本当に難しいのだ。
映画『ネットワーク』の編集を研究したのではなかろうか。



情緒がないという意見もあろうが、それを切り詰めることで、あえて速度を出したのだ。
そして、それでいても、にじみ出てくる情緒こそが、この映画の味わいだ。


そして、若き俳優たちの質の高さに唸らされる。
特に、おいらが己を重ねているジョシー・アイゼンバーグは、驚異の演技。
そして、感情移入しやすい賢き凡人を演じるアンドリュー・ガーフィールド。
出るたびその糸を問われるわありに役選びの上手いジャスティン・ティンバーレイク。
ウィンクルボス兄弟を一人で演じたアーミー・ハマー。
短いながらも存在感たっぷりのルーニー・マーラ。
などなど、絶妙なバランスのアンサンブルを奏でている。


映画の中で、元々は『ザ・フェイスブック』だった名前を、ショーン・パーカーのアドバイスで“ザ”を取り、『フェイスブック』にするエピソードが出てくる。
座は言わずと知れた定冠詞で、特別であることを強調する言葉でもある。
ある意味、誰もが入れるSNSにはふさわしくないのだ。
そして、この映画の原題は、『ザ・ソーシャル・ネットワーク』と“ザ”がついている。
これは、ある特別な人間関係についての物語だということ。
邦題では“ザ”はなくて、『ソーシャル・ネットワーク』になっているけどさ。



デビッド・フィンチャーは、デビュー作の『エイリアン3』から正体不明なものを描いてきた。
人間の姿をしているからこそ、見誤るのだ。
そして、今度はネットの上や情報の上の人間を同様に描いている。
マーク・ザッカーバーグは、孤独なヒーローでもある。
彼はなし遂げたことの偉大さほどに理解はされない。



なにより、それを上回って、そのひたすらの情報のウォーターライドに身を委ねて観れば、脳みそが中の煌めきを感じることだろう。
それは、映画らではの興奮だ。説明すればするほど、映画から乖離していく感じだ。
観なきゃわからんのだ。
映画ならではの面白さだ。

濁流に飲まれて観なきゃ、この面白さに耽溺できないと進言する。
それは、この映画が、21世紀初めての21世紀をまるまる捕まえた映画だと断言出来るからだ。
00年代の映画界が目指した古典回帰とミクスチャーの両方を融合し、全く継ぎ目のないパッチワークを作り上げてしまった。
これは10年代の映画の目指す道の一つを指し占めている。
この映画をDVDで観たら、大きく失われるものがある。














おまけ。
エンディングで、エリカをフェイスブックにいるのを見つけた時、彼女は彼のシステムを受け入れている。
だが、彼女は、彼自身を受け入れるかどうかは描かれない。
マークは、受け入れないことへ復讐をするのだ。
だから、彼は受け入れを拒否したエドアルドの口座停止に対して、復讐する。
敵はシンプルだ。
ショーンがアレルギーで麻薬をやれないにも関わらず、麻薬吸引の場にいるのは、そこが彼を受け入れてくれるからだ。
ショーンは変わることで、受け入れられようとする。
マークはそれでもあえて、そのままで性格のいびつさも合わせて受け入れて欲しいと願う。
そのためには、悪人でなければならない。
相手に合わせたら、自分でなくなってしまうから。


あえて、例えるなら、この物語のマークは、一人『ピーナッツ】だ。
『ピーナッツ】はスヌーピーを主人公にした物語のこと。
マークは、スヌーピーであり、チャーリー・ブラウンだ。
知的であっても、スヌーピーは犬であり、人間のマネをしつつも、人間社会では、犬として振る舞う。
チャーリー・ブラウンは、人間だが、人間嫌いだ。だが、人類を愛している。
そして、あらゆる登場人物は、自分のいびつさを受け入れて欲しいと、それぞれの方法で、探索している。


そのままを受け入れるためには、創造力がいる。
部分と全体を同時に見なければならない。
あなたが望むことではないかもしれないが、あなたが気付いてなかった望みがそこにある。
だが、そういう人々も既存の方法に頼り、言葉は表層をなぞる。
しかし、そういう人々と出会う機会は本当に希れだ。
「人に雇われるな、仕事を産みだせ」と言った学長は、想像力はないが、既存の方法を拒否する。


ラストに流れるビートルズの『ベイビー.ユア・リッチマン』は、こう歌う。
「あんなに入りたかったクラブの居心地はどうだい?」と。


クラブの話から始まる映画はウディ・アレンの『アニー・ホール』だ。
あの映画では主人公のアルビーはこうい言うんだ。
「僕を入れてくれるようなクラブには入りたくない」
きっと、それは僕を知らないからだ。

あれは、30年も前の話だ。
今はあれより、入りたいクラブに入るのは難しい。
なら、僕を入れてくれないクラブに入るのではなく、僕がクラブを作るんだ。
それは君が君自身でいていいクラブだ。
前みたいに、自分が見ている自分と君が見ている自分を分離しなくてもいい。
はずだった。
だから、君はそのクラブに入れるようになった。
でも、僕が作ったクラブは、あの僕を入れてくれるクラブだったんだ。
僕は、僕の入りたくない、僕を入れてくれるクラブを作ってしまった。
でも、満足だ。
君はそこに入った。
作った僕を拒否しながら。
名前だけになってしまった僕を。
名前だけでも、僕を誰も無視できない。





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