一期一会

日々是好日な身辺雑記

尖閣問題メディア報道のあれこれ

2012年09月29日 | 日記


尖閣問題が連日TV、新聞、週刊誌等で報じられている。
中国国内でのAEONやパナソニック等の日本企業へのDemoとはいえない暴動の様子を
TVで見ていると、日本人として強い怒りを感じる。

このDemoの根底には中国国内の格差に対する不満が日本非難という形を変えて
表れているという側面もあるのだろう。
こんな暴動が「愛国無罪」で許されるというのは、中国が法治国家でないということである。
その後の中国の日本からの輸入品の意図的な通関の遅れや、日中国交40周年記念行事の中心等、
国としての対応を見ていると共産党一党独裁という国と付き合う事の難しさを感じる。

中国国内でのDemoが落ち着いたと思ったら、アメリカやヨーロッパでのDemo。
そして昨日はワシントンポストへの(尖閣は中国の領土)という尖閣諸島のカラー写真入りの
全面意見広告の掲載と、止まるところをしらない。

そんな中で日本のメディア報道も少しずつ過熱している感じである。
TVや新聞はまだ極端な方向には流れていないようだが(尤も新聞は日経だけで、
産経や朝日の論調は知らない) 週刊誌は別なようである。
一昨日の新聞に週刊文春と週刊新潮の広告が載っていて、どちらも尖閣問題が中心で、
文春は(中国をやっつけろ!)という何とも勇ましいというか、扇情的な特集記事広告だった。
買うまでもないので、本屋で立ち読みをした。
その特集記事の中身は、ユニクロ柳井社長、橋下大阪市長等を名指しての批判や、
戦争をした場合のシミュレーションという刺激的なものだった。
唯、この特集記事を読んで感じるのは、苦笑いと呆れるということだけだ。
週刊文春は伊集院静、椎名誠等のエッセイや対談が面白くて何年か前までは
結構買って読んでいたのだが・・・。

先々週号の阿川佐和子と台湾の李登輝元総統との対談での尖閣諸島の所有権は日本にあるという
李登輝元総統の話も興味深かったし、月刊文藝春秋の愛読者でもあるが、
今回の特集記事はいただけない。

その立ち読みから一日経った昨日、朝日新聞に村上春樹が尖閣問題を憂慮する文を寄稿した。
彼の書いたものは小説は勿論、軽いエッセイまで大体読んでおり、最も好きな作家である。

「魂の行き来する道筋」と題されたこの文は物事の本質を深く考えたこの人らしい文で
「書く力」というものを感じさせるものだった。
尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の書店から日本人作家の書籍が引き揚げられたことに、
(少なからぬショックを受けた)としながらも、
そのような中国側の行動に対し報復的行動をとらないでほしい、と戒めている。

東アジア文化圏という中で各国の音楽や文学や映画やテレビが自由に楽しめるようになった事や、
このような文化の交流により近隣諸国との問題が徐々に解決に向かうことへ期待し、

文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。
それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。としている。

また現在の尖閣問題の論争を安酒の酔いに例え次のように書いている。

「国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は
 避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし
また実務的に解決可能でなくてはならないと考えている。
領土問題が実務課題を超えて(国民感情)の領域に踏み込んでくると、
それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。
それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。
人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみればあとに残るのはいやな頭痛だけだ。
そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、
我々は注意深くならなくてはならない。(中略)政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて
人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ」

村上春樹は日常的に政治的意見を述べる作家ではないが、今回寄稿された文は、
前述の週間文春ような報道に警鐘をならすものだろう。
唯、全文を読んで頂かないと真の中身が解らないと思うので、
是非図書館に足を運んで9月28日の朝日新聞を読んでほしい。

最近の一部メディアの報道ぶりは「日本近代史」や「昭和史」で読んだ第2次大戦突入前
の新聞等と同じ様相を呈している。