聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 9章 イエスの姿が変わる その2

2010年07月11日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『山上の変容(9.2~8)この物語の中心は七節における神の声である。
イエスの変容およびモーセやエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天的存在であることを示す。
読者はイエスが神の子であることをすでに受洗の時から知らされていたが、今や受難予告の直後に、そのことを再び知らされる。
すなわちマルコは、この物語を8・31~9・1の直後に置くことによって、十字架の道を歩み弟子達に随従を求めるイエスが超地上的、天的存在、神の子であることの確証を示す。

2~3節
十二人の弟子の中でペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人はイエスに特に近い。
「高い山」は古来タルボ山とされてきたが、当時その頂上には要塞があったので、変容の舞台としてはふさわしくない。それはフィリポ・カイサリアの北東約19キロメートルに位置するヘルモン山であったという節もあるが、確かではない。
とにかくマルコの文脈ではガリラヤの外、フィリポ・カイサリア周辺の山である。
「姿が・・・変わ」ると訳されている動詞メタモルフースダイは新約聖書ではここ以外ではマタイの平行本文、ロマ12・2、Ⅱコリ3・18で用いられているだけであるが、
ギリシア人のあいだでは神々が人間に姿を変えること、あるいは逆に人間が神々の姿になることを言い表す用語になっていた。
イエスは今や弟子たちの前に神的存在として現れる。
イエスの服は「真っ白に」輝いた。白は神的世界を表す色であるが、ここでは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」という説明によって、イエスが超地上的・天的存在であることが強調されている。

4節
王下2・11によれば、エリヤは死なずに天に上っていった。
モーセが死なずに神のもとに移されたということは旧約聖書には記されていないが、ユダヤ人のあいだには、だれも彼の墓を知らないという申34・6の記述から、そのような伝承が生じたといわれる。
今やイエスと語り合うのにふさわしい者は、天の世界の二人の人物である。

5~6節
「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです」神の意志によれば、イエスは受難と死を通して神の世界に入ることになっている。
そして人の子として再臨するとき、イエスは再び神的な輝きの中に地上に現れる。
しかしペトロは、イエスから厳しく注意されてもいまだに十字架を負うてイエスに従う気構えを持つことができない。
6節はペトロの提案が全く的外れであることを示す。

7~8節
雲は神の臨在を意味するので、雲の中からの声は神の声である。
弟子達は神の子イエスの言葉に聞き従うことを命じられる。
ここでは「聞く」(アクーエイン)は、ヘブライ語シャーマがしばしばそうであるように、「聞き従う」という強い意味を持っている。
マルコの文脈では、その言葉は、とりわけ、直前に置かれている受難予告と随従の呼びかけである。
「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」イエスは天的存在、神の子であるが、いまだモーセやエリヤのように天に帰らず、弟子達と共に地上に残り、弟子達と共に十字架への道を歩もうとする。

9~10節
ここでは秘密保持の命令に「人の子が死者の中から復活するまでは」という条件がつけられている。
イエスの復活までは弟子達は彼の道を正しい理解をもって歩むことができないゆえに、彼について語ることを許されない。
弟子達はイエスが「死者の中から復活する」ことがどういうことであるかを理解できずに互いに論じ合うが、
マルコの文脈から見れば、イエスの復活は苦難と処刑を前提とするので、復活の無理解は苦難と死に対する無理解と不可分である。
それゆえにイエスの復活について語られたのち、ただちにイエスの受難が語られる。
したがって10節における弟子達の無理解は最初の受難予告に対する彼らの無理解と同質である。

11~13節
イエスは「エリヤは来た」と確言する。そして「人々は好きなようにあしらった」という言葉が暗示しているように、ヘロデ・アンティパスによって不法に処刑された洗礼者ヨハネが再来のエリヤと同一視される。

「人の子」の受難について語る12節bは右の議論の流れを中断しているように思われる。おそらく8・31を念頭においたマルコの編集句であろう。

11~12a、13節の伝承はイエスをめぐるキリスト教とユダヤ教との論争を反映している。
エリヤの再来なしにメシアの到来はありえないと論じるユダヤ教に対して、エリヤはすでに洗礼者ヨハネとして再来した、と教会は答える。
ここにはまた、洗礼者ヨハネを「光」とする洗礼者教団に対して、彼をメシア・イエスの先駆者として位置づける教会の立場も表されている。
マルコの文脈においては、この伝承はイエスの受難と復活についての弟子達の無理解をも示すものとされている。
終末前に再び来るはずのエリヤがまだ現れていないのであるから、イエスの復活は―したがって彼の処刑も―起こりえない、と彼らは考える。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神様
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
と、神さまのおっしゃるように、イエスさまに聞き従うことができますように。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるイエス様に、
自分を捨てて、自分の十字架を背負って、従うことができますように。
どうか、弱いわたしですが、お導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン



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