聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙 1章 人類の罪 その4

2010年05月05日 | 新約聖書日記
つづき


新聖書講解シリーズ 6 ローマ人への手紙 いのちのことば社 を、まとめて。
(新改訳聖書にもとづいて)
『「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」(1・18)
罪がどれだけ重大なものであるかは、それに対する神の怒りの大きさによってのみ知らされる。
神は罪に対して無関心ではない。
神は絶えずその聖なる怒りを示し続けておられる。
神の怒りは、人格的な神の、罪に対する厳しい反応である。
だが、私たちはその神の怒りを真正面から見つめて恐れなければならない。
また、神の怒りは「天から啓示されている」と言われる。
つまり、神の怒りは自然と歴史を通して絶えず示し続けられているのである。
一方の人間はというと、「不義をもって真理をはばんでいる」状態にある。
人間は宗教的存在であるから、多かれ少なかれ神を知っている。
しかし、同時に自分達の持っているその罪のゆえに、真の神知識を提供してくれる真理を抑圧し、これに反対しようとしているのである。
その顕著な例が、生きておられる神を捨てて、死んだ偶像を礼拝するという行為に現れている。
神に対する「不敬虔」と人間に対する「不正」。これが罪の二大局面である。
この二つは切り離すことができない。
この世の不正、不義はすべて、人間と神との関係が罪によってゆがめられたことから生じているのである。

「神について知りうることは、彼らに明らかである」(1・19)
神御自身の本質は人間には測りがたいものであるが、神は人間の心をも含む自然界のあらゆるものを通してご自身のことを示しておられる。
神は創造のみわざを通して、御自身を示しておられる。
神は目に見えないが、その「力と神性」は神のみわざにおいてはっきり現れている。
人間は被造物の一つであり、しかも理性による識別力を与えられている者であるから、神の創造の力についての知識を自分の内に持っており、またそれを否定し去ることは不可能である。
「彼らに弁解の余地はない」と言っているのはそのためである。
ただしパウロはここで、聖書による啓示がなくても人間は理性の力で神を知ることができ、その結果宗教や神学が自然に成り立つと言おうとしているのではない。
自然啓示によって神が示されているにもかかわらず、それを徹底的に無視して反抗している人間の罪の姿を描いているのである。

「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」人間達(1・21)
彼らは神を真の神としてあがめず、神を神以下のものにしてしまった。
またすべての良いものの源である髪に感謝することがないばかりか、自分は自力で立派に生きていると思っている。
また、「その思いはむなしくなり」とあるように、人間は心理を拒み、その代わりに虚偽を持つようになる。
確かな信仰の代わりに理性の思弁に頼って満足し、真の啓示の代わりにむなしい哲学の導きに頼ろうとする。
それらは人を真理に導くと称しながら、結局は人を迷わすだけのものであり、このむなしいものの究極が偶像なのである。
こうして罪に落ちた人間の「その無知な心は暗くなった」。
「心」は人格の中心であり、理性と感情と意志のセンターである。啓示の光を拒否するとき、心は完全に暗黒の状態と化す。

「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」(1・22)。
人が他の神々や宗教を求めるとき、彼らはそれを自分自身の判断によって評価する。
そしてその結果、自分の真の姿が見えなくなってしまう。
偶像を拝することの愚かしさが理解できなくなってしまうのである。
人間が神のようになろうとするとき、その人は自分自身が何者であるか理解できなくなる。
真の神を神として知ることを拒むとき、人間は自分を神の被造物として知ることができなくなるのである。
神知識と自分について知ることは不可分であるから、哲学者が真の神知識から離れて、いくら「汝自身を知れ」と言っても、それは不可能である。

「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」(1・23)
イスラエルが出エジプト後、シナイ山で真の神の代わりに子牛の像を造って拝した出来事に言及している詩篇106・20の言い回しがここに用いられている。
偶像を造る者たちは、像は目に見えない神を表すものであると言い、人は力ある神に像を通してでなければ近づくことができないのだから、像を造るのは当然であると主張する。
しかしこんな議論は聖書の前では通用しない。
イスラエルの人々は、子牛の像は自分達を導く神を拝する手段にすぎないと考えた。
しかし神の激しい怒りは彼らの上に燃え上がったのである。
彼らは「像を拝んだ」とはっきり非難されている。
偶像礼拝は、真の神を何かの物体と取替えてしまうことである。
さらに偶像礼拝は、宗教的な礼拝の対象としての神々の像を拝することだけでなく、被造物にすぎないものをいかなる形であれ神格化する行為のすべてを含む。
それには抽象的な概念も含まれる。ピリピ教会においてパウロに反対する教師達の神は「彼らの欲望」であったとパウロは言っている。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」(1・24)
罪を愛する者を罪に引き渡す、これが罪人に対する神の怒りの現れである。
「神は引き渡す」という句が三度も繰り返されているのは、異邦人の間に見られる数々の不品行が、実は彼らの不敬虔に対する神の罰にほかならないことを強調するものだと言うのである。
おまけに人間はその「心の欲望のままに」行動するのだから、それを神の怒りとして自覚しない。
しかしその結果として現れるものは、異邦人にとってもおぞましい性的な乱行なのである。

25節は、パウロはここで、人間が造り主と被造物の区別を無視したままで放置されることはありえないということを、造り主への賛美の言葉で強く訴えようとしている。

「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」(1・26)
24節で暗示された異邦人社会の性的不品行、汚れ、倒錯は、ここでもっとはっきり語られる。
異教の教えはこれを抑制するどころか、かえってかき立てている。
結婚のことを考えてみよう。
結婚は神が創造の時に定められた男女の神聖な秩序である。
しかし26節から27節にかけて見られるのは、その「自然の用」に対する公然たる反逆の姿である。
パウロはそれらを評して、「誤りに対する当然の報い」、すなわち神が創造の秩序として立てられたものを無視し、誤用かつ濫用して放縦に走った結果として、人間は自らのうちに荒廃を招いたと言っている。
もちろん異邦人社会のすべての人が等しく放縦に走り、荒廃をきたしているのではない。
しかしここに描かれた人間の罪の姿は、異邦人社会そのものの罪を告発することのほかならない。

「彼らは、してはならないことをするようになりました」(1・28)
神を知る知識は、すべての人に明らかに提供されている。
しかし人は神を神として正しく知ろうとしていない。
この人間の実際上の無神性は、ただちに人間の「良くない思い」に結びつくのである。
人間の宗教性と道徳的な心情とを直結させるのは神の御手である。
悪い宗教は悪い道徳心と結びつく。
そして心の働きは同時に行為として現れる。神に対する不誠実な態度は、ただちに隣人に対する悪い行為となって表に表れるのである。

29~31節は、長い罪のリストである。
Ⅱテモテ3・1~4にも同じような悪徳のリストがあげられているが、こちらは「終わりの日」が到来さいた時、人の心に現れる特色であるとされている。
だが、一世紀の使徒の時代から来るべき再臨の時までを含めて終わりの日と理解すべきであろうから、テモテの記事も、今日のわたしたちの問題に直接結び付くものである。

32節「神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです」。
この節は「知っていながら・・・行ってる」という句によって、18節からの内容を要約している。
そして、罪に対する刑罰が死であることは、人間の心に深く刻まれていることだとパウロは述べる。
それにもかかわらず、自らの悪を重ね、これを喜びとし、他人の同じ行いに対しても拍手する人間の徹底的な悪性。
パウロはそれを私たちにも突きつけている。
永遠の刑罰は未来に待っているだけでなく、現在すでに始まっている。
すべての人に与えられている自然啓示を通しての神の声を黙殺した時、地獄への道は始まる。
神はこの道を行く人間を「汚れに引き渡される」ので、人は自分の力では引き返すことができない。
ただ福音において啓示されている神の義だけが、人を罪の道、滅びの道から連れ戻す力を持っているのである。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
罪の中にあるわたしをお赦しください。
罪の中から抜け出すことはできません。
弱いわたしをお赦しください。
どうか、主の御手によって、わたしを罪の中から救い上げてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


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