聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 手の萎えた人をいやす

2006年07月14日 | 新約聖書日記
◆手の萎えた人をいやす
『 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、
その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書より)

新約聖書略解(日本基督教団出版局)をまとめて
『不特定の人々(全員?)が、彼を訴えるために、安息日にその人を癒すか、注目していた。
イエスはその人を真ん中に立たせ、人々に、「安息日に・・・許されているのは」AかBかと、二重に対比させて問う。
安息日にイエスを殺すことを企んでいるからである。彼らは押し黙る。

当時、ファリサイ派は、命の危険があるときには、安息日でも治療を認めていた。
ここのケースでは、それほど緊急でもなく、別の日に癒せば、衝突が回避できる。
しかしイエスにとって、安息日こそ、苦しみを持つ人が解放されるのにふさわしいのだろう。

一人の人が生かされた時、ファリサイ派が出て行って、ヘロデ派と一緒に、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。
原文は、14・1、15・1という受難物語の文章に基づく文章である。
ここでガリラヤの指導者が、また11・18ではエルサレムの指導者が、明確にイエス殺害を決める決定的瞬間を告げる重要な記述である。』


わたし、最近、考えたことは、
人間は絶対に神さまに勝つことができない、っていうこと。
それは、必ず人間には死ぬ時が来るから。
神さまを信じず自分の力を信じて生きてきた人でも、死を迎える時になって初めて、人は神さまの前に負けを認めるんじゃないかと思う。
と、ぜんぜん関係ない話を書いてしまいましたが。。。

お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
人間のために定められた安息日が、人間を拘束するものになってしまった、
それをイエスさまが、改めて、人間を解放し癒し救われることを、感謝します。
自分の命を捨てて、わたしたちを救うことを使命とされた、
イエスさまの愛を想います。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


最新の画像もっと見る