《国国宮めぐり 安芸・伊予・備後へ!!》
奈良時代に律令制で決められた国を巡るのも面白い。国府、国分寺、一宮を訪ねる旅を続けています。今回は、安芸国、伊予国、備後国、備中国、備前国、美作国、播磨国を回ってきました。
温故知新・・・千年を越える歴史の場所を訪ねたからと言って何かが変わるわけではないかもしれませんが、奈良、平安時代に生きた人々のエネルギーを感じ、少しでもあやかりたいというのが本音です。
安芸国府・・・安芸郡府中町として地名が残っている。現在の田所明神社の辺りに国庁があったらしい。当時、現在の広島市街はデルタ地帯と思われ、高台となる山裾に位置していたのであろう。
(安芸国分寺)
安芸国分寺・・・広島県西条(現・東広島市)の丘陵地にありました。現在の国分寺の裏手一帯が国分寺跡のようで、発掘調査も進み、整備がされるようです。かつての官道「山陽道」も近くを通っていたようで、丘からの穏やかな丘陵地の風景は、千年前の旅人も同じ思いで見たのでしょう。発掘された塔跡には17個の基壇が・・・七重塔であったという。
(伊予国一宮)
伊予国一宮「大山祇神社」・・・尾道よりしまなみ海道を渡り、大三島へ。ここは三島神社の総本山といわれ、島の名前もそこからという。鳥居をくぐって玉砂利の境内を行くと樹齢2600年と云われる楠木が・・・。朝の8時、毎日の日課として境内はくまなく掃除がされているようだ。
備後国府・・・広島県府中市にあったという。元町ツジ遺跡が国府だと云われ、発掘調査もされているという。その場所は地元の方でも知らないようであった。
(備後国分寺)
旧道沿いに行くとちょとした松並木が現れた。その入り口に建つ自然石の碑には国分寺と刻まれ、長い参道が現在の国分寺まで続いていた。その途中に金堂、講堂、塔などの遺跡があったという。
(備後国一宮)
福山市新市町に吉備津神社があった。名前は備中一宮と同じで、平安時代に分祀されたためとも。古い家並みの旧道を行くと、突然と左手に随神門が現れた。車でその下をくぐり、境内の広場へと・・・立派な銀杏の木がある。
神楽殿の横のロウバイが咲きはじめていた。
奈良時代に律令制で決められた国を巡るのも面白い。国府、国分寺、一宮を訪ねる旅を続けています。今回は、安芸国、伊予国、備後国、備中国、備前国、美作国、播磨国を回ってきました。
温故知新・・・千年を越える歴史の場所を訪ねたからと言って何かが変わるわけではないかもしれませんが、奈良、平安時代に生きた人々のエネルギーを感じ、少しでもあやかりたいというのが本音です。
安芸国府・・・安芸郡府中町として地名が残っている。現在の田所明神社の辺りに国庁があったらしい。当時、現在の広島市街はデルタ地帯と思われ、高台となる山裾に位置していたのであろう。
(安芸国分寺)
安芸国分寺・・・広島県西条(現・東広島市)の丘陵地にありました。現在の国分寺の裏手一帯が国分寺跡のようで、発掘調査も進み、整備がされるようです。かつての官道「山陽道」も近くを通っていたようで、丘からの穏やかな丘陵地の風景は、千年前の旅人も同じ思いで見たのでしょう。発掘された塔跡には17個の基壇が・・・七重塔であったという。
(伊予国一宮)
伊予国一宮「大山祇神社」・・・尾道よりしまなみ海道を渡り、大三島へ。ここは三島神社の総本山といわれ、島の名前もそこからという。鳥居をくぐって玉砂利の境内を行くと樹齢2600年と云われる楠木が・・・。朝の8時、毎日の日課として境内はくまなく掃除がされているようだ。
備後国府・・・広島県府中市にあったという。元町ツジ遺跡が国府だと云われ、発掘調査もされているという。その場所は地元の方でも知らないようであった。
(備後国分寺)
旧道沿いに行くとちょとした松並木が現れた。その入り口に建つ自然石の碑には国分寺と刻まれ、長い参道が現在の国分寺まで続いていた。その途中に金堂、講堂、塔などの遺跡があったという。
(備後国一宮)
福山市新市町に吉備津神社があった。名前は備中一宮と同じで、平安時代に分祀されたためとも。古い家並みの旧道を行くと、突然と左手に随神門が現れた。車でその下をくぐり、境内の広場へと・・・立派な銀杏の木がある。
神楽殿の横のロウバイが咲きはじめていた。