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歴史旅 大阪・難波宮へ!!

2010-10-29 21:51:59 | 旅行
《歴史旅 大阪・難波宮へ!!》

難波宮・・・大化の改新・・・飛鳥より難波に都は移された。大阪は歴史のある町でもある。

太閤秀吉・・・大阪では、家康より秀吉のほうが人気があるとか。それにも増して真田幸村は大阪城を守った英雄だと感じた。

天王寺駅を降り、四天王寺へ・・・大阪は、戦災で焼けたたため、あまり古い建物は残っていないとも。

画像は・・・
http://picmate-club.panasonic.jp/p/29596/album/pFUST115N0SE/photo_list

四天王寺・・・今から1400年前の建立、聖徳太子七大寺の一つ(法隆寺、四天王寺、広隆寺、橘寺、中宮寺、法起寺、葛木寺)日本最古の官寺で、飛鳥建築の様式を色濃く残しているという。大坂冬の陣、大阪大空襲、室戸台風などの被害を受け、かなりの建物が再建ではあるが、五重塔など、その優美な建物は、今も見るものを感動させてくれる。


(四天王寺)

真田幸村・・・その生涯は劇的、信州上田城での徳川との戦いで勝利。関ヶ原の戦いでは西軍に付いて敗北。父、昌幸とともに高野山九度山へ島流しに・・・それから14年後、大坂冬の陣で活躍、家康の首を取る寸前まで・・・冬の陣にて戦死。

ここ数年の間に信州の真田郷、上田城、松代の海津城。高野山九度山の真田庵、大坂城、真田丸へと訪れることができた。これほど天下人の家康を苦しめた武将はいない。家紋の六文銭、それに込められた真田家の心意気は武士の鑑といえる。

なぜ、関ヶ原の役後、家康は真田家をお取りつぶしにしなかったのか。結果、後々まで苦しめられる羽目となるのに。兄、信之が徳川家から嫁(家康の養女)をもらっていたからか・・・。信州松代藩真田家は幕末まで続いた。家康にとって、強敵でありながらも武士としての才能を尊敬していたからか。


(玉造稲荷神社)

玉造稲荷神社・・・創建は紀元前12年とか、蘇我氏方の聖徳太子が物部氏との戦いで、この地に布陣し、戦勝を祈願したのが始まり。豊臣時代、徳川時代には大坂城の鎮守(守護神)として崇められたという。江戸時代にブームとなったお伊勢参りの出発点でもあった。

伊勢参宮本街道・・・伊勢まで170km、いつかは自転車で忠実に走破してみたい。その沿道には、今も当時の面影が色濃く残っているという。

越中井・・・細川ガラシャ(忠興の夫人)終焉の地とか。明智光秀の娘であり、キリシタンでもある。その数奇な運命は興味深い。

難波宮跡・・・正式には、難波長柄豊碕宮。日本の首都は転々としていて、飛鳥〇〇宮、難波宮、大津京、藤原京、平城京、恭仁京、紫香楽宮、長岡京、平安京、福原京などへと遷都され、現在は東京へと。大坂城の南に広大な公園があり、そこには大極殿の基壇や礎石が復元されている。首都高速道路がこの区間だけ高架から平面になっているのは、難波宮跡から大坂城が見渡せるようにとの配慮からとか。


(大坂城)

大坂城・・・大阪ではなく大坂、太閤さんのお城とも呼ばれ、関ヶ原の役後も秀頼が1615年の大坂夏の陣まで居城した。その後も、徳川幕府により、近畿や西日本へのにらみを利かす拠点の城となった。これは都市伝説の部類かも・・・未だ、東京へ都を移した家康は人気がなく、お城を構えた秀吉の方が親しまれているらしい。もちろん、家康を苦しめた真田幸村はトップアイドルとか・・・

真田十勇士・・・まさか実在の人物と思っている方はいないかと。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、根津甚八、海野六郎。江戸時代中期以降、元禄期に書かれた小説『真田三代記』あたりよりストーリーが成立し、今に至っている。悪役?の徳川方をやっつける十勇士に庶民は日頃のうっぷんを晴らしたことであろう。

歴史旅は面白すぎる!・・・また次のネタを探してネット三昧な日々を送っている今日このごろ。