時事解説「ディストピア」

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中公新書からの新刊 横手慎二『スターリン』

2014-08-03 21:53:55 | 反共左翼
シリアやウクライナなど、国際紛争においてロシアが米英の敵対者として
君臨している今、ロシア理解のために満を持して登場したような気がする。


その辺のソ連史の本よりもよっぽど読む価値がある。悲しいことに。

本書の特徴は「スターリンの見直し」を念頭にして書かれたことである。


日本のスターリン評価は彼を悪魔化して説明するものしかなく、
そのような歴史解釈は日系アメリカ人を収容所に連行したり、
原爆を落としたルーズベルトやトルーマン、そしてナチスをソ連の当て馬に
利用しようとしたチャーチルなどの悪漢を相対的に天使化することに他ならない。


…などと書くと「いや、彼らも良いことをしたよ?」と反論する人がいるだろう。
まさにそこが問題で、実はロシアでもスターリンの評価は分かれていて、
政府としてはスターリンを批判しているのだが、他方でソ連の近代化や
第二次世界大戦の勝利に大きく寄与した人物として評価する者もいる。

実は今、空爆を受けているウクライナ南東部では
スターリンは民主主義の伝道者としてヒーローになっている。

では彼らはスターリン主義者と俗に呼ばれる乱暴者かといえば、
全く逆で、代表制や自治権の確保、そしてネオナチへの抗議をしているのである。


要するに同地では、スターリンは、地方の意向を無視して
国内を植民地化しようとする強圧政権に抗議するための、
反ナチスと民主主義の象徴として機能されているわけだ。



これは私にとっても、かなり意外なことだったが、
スターリン時代のソ連というのを単純に地獄絵図として
描く歴史叙述は「欧米や国内の反対者(現在の東欧・ロシアの権力者)
中心のものではないか」という疑問に応えるものだった。

この本の筆者もまた、スターリン評価は見直しの余地があることを
指摘し、ソ連時代をもう一度読み直している。


ただし、構想の割には、どちらかといえば、先行研究を
なぞっただけのような気もして、そこが残念と言えば残念だが、
発想としては大変意欲的な作品で、著者の今後の研究の発展に期待したい。



私は「独裁というのは民主的に行われる」という考えを、
ここしばらくのウクライナに関連する欧米のネオナチ政権へ対する民主的な支援と、
安倍政権の国民の排外主義を煽った上での軍拡推進から経験的に感じており、
従来の「スターリンは自由がない地獄の世界を築き上げた」という説明には
激しい疑問を抱いている。


つまり、スターリン時代のソ連は、「そこそこ」民衆が主体的に
活躍できる場が約束されており、「そこそこ」自由があったのではないかと。


現に、ナチス研究では国民が積極的にナチスに協力していたこと、
日本史研究でも国民が積極的に天皇と軍隊を支持し肯定していたという解釈が
すでにあり、これはスターリン政権においても通じるように思われる。

(ホロコーストや三光作戦、ユダヤ人や朝鮮人への人種差別を
 ほかならぬ民衆が積極的に関与し協力していたという事実。
 これはスターリン時代の粛清にも通じるのではないか?)


戦前の日本がジョージ・オーウェルが描くような自由が全くない
灰色の社会だったかと言えば、そんなことはないのは自明である。

確かにその社会では共産党や社会主義者のような国内の反対者を
拷問にかけたり、あるいは無実の罪を着せて処刑したりしているが、
それでもほとんどの日本人には「ある程度の」自由があったのである。


問題の本質は、その「ある程度」や「そこそこの」自由を与えて
飼殺しにし、それに異を唱える者を物理的あるいは社会的に抹殺する
システムであり、実はこのシステムは現在の欧米や日本などの
民主主義国家で当然であるかのように存在するということだ。



現在はより巧妙で、戦争に反対する自由はあっても、
戦争を終わらせる権利を民衆は持っていない。


国内の人種差別に反対する自由はあっても、
国内の人種差別を戒める法律を民衆は作れない。


口をパクパク動かすだけの自由を与えられ、
仮に国家や社会に逆らう行為を行えば(例えば君が代を歌わなければ)
国民失格とみなされ、実際に排除されている。


こういう社会をスターリン時代の社会とは別物だと印象付けるような
愚かな行為を研究者も喜々として加担していたような疑念が拭えない。

というのも、ソ連研究は無色透明の歴史家というよりは、
反共主義的な政治学者や国内外の共産党勢力を攻撃することで
自らの正当性を主張する新旧左翼によって、行われてきた経緯があるからだ。
国内や国外の政治情勢に左右されやすい分野なのである。

そうであるからこそ、今こそ改めて、多角的にソ連を読み直すことが必要だ。
今回取り上げた中公新書の横手慎二氏の著作はその一助になるはずである。

最後に、同書の紹介文を抜粋して筆を置こうと思う。


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「非道の独裁者」――日本人の多くが抱くスターリンのイメージだろう。
一九二〇年代末にソ連の指導的地位を固めて以降、
農業集団化や大粛清により大量の死者を出し、晩年は猜疑心から側近を次々逮捕させた。
だが、それでも彼を評価するロシア人が今なお多いのはなぜか。

ソ連崩壊後の新史料をもとに、グルジアに生まれ、
革命家として頭角を現し、最高指導者としてヒトラーやアメリカと渡りあった生涯をたどる。


http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/07/102274.html
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・追記

ちなみに、ジョージ・オーウェルの作品は冷戦が開始された直後に評価され始め、
彼自身もイギリスのインドやシンガポール、南アフリカなどの植民地国に対する
横暴な政策よりも、よその国(ソ連)の批判に情熱を燃やし続けた人間だった。

よくある転向者の一人で、日本で言うならば有田芳生氏のような
共産党や北朝鮮を悪魔化する言説を流布して排外主義を助長させておきながら、
いざ国内でヘイト・スピーチが活発化すると反対姿勢を取る無責任な人間だった。

なにせ、結核に苦しみながらも書き続けたのは自国の政治的経済的侵略の批判や
反省ではなく、「イギリスが共産主義国になるとこんな地獄になりますよ」とでも
言いたげなソ連批判の小説(『1984年』)だったのである。

現代で例えるならば、アメリカの小説家が自分は左翼だと言いながら、
アフガン派兵への批判を全く行わずにアサド政権を非難しているようなものである。

つまり、やってることは少しも偉くない。
そのへんの平凡な自称左翼運動家と大差ないのである。


もし彼が、幸徳秋水や小林多喜二のように自国の帝国主義政策を
激烈に批判し、そのために国家権力によって処刑されたり惨殺されたりしたのであれば、
私も彼を勇気ある人間と称賛したいのだが、悲しいことにそんな事実は存在しない。


彼自身がこうまで高い評価を受け続けているのは、冷戦が開始され、
敵国を悪魔化するためのプロパガンダが求められたという時代の流れに救われた面が大きい。


実際、『動物農場』や『1984年』は政治色の強い作品で、
これが仮にソ連や中国の人間がアメリカやイギリスを批判するために
書かれたものであったならば、誰も見向きもしないまま終わったであろう。


今でも彼を異常に評価する人間がいるのだが、
私は彼がソ連を悪魔化することによって相対的に自国を弁護するという
姑息な行為がどうも目について、とてもじゃないが礼賛する気になれない。


この種の一見、反対者のようでいて、実は権力者が飼いならせるレベルの
抗議しか行わず、結果的に体制に支持する人間が跋扈している現在、
オーウェルは模倣すべきテーゼではなく、克服すべきアンチ・テーゼだ。


スターリンの評価も彼の影響が大きく、このスターリンに全責任を転嫁し、
民衆の協力を軽視する個人主義的歴史観の開祖の一人であると言ってもよい。


・追追記

ちなみに『動物農場』では大衆は支配者である豚の言葉に唯々諾々と従う
愚昧でありながらも人間味のある集団として描かれている。

気立ては良いのだが頭が悪い集団として被搾取者を描く手法は、
黒人やアフリカの先住民族を心は豊かだが知能は劣っている人間として描き、
保護や憐憫の対象としてしか見ようとしない欧米の知識人がえてして陥った
家父長主義(劣った人間を導いてやるという独善的行為)でよく見られるものである。


その代表的な作品として『アンクル・トムの小屋』が挙げられるだろう。

この作品の主要人物であるアンクル・トムは敬虔なクリスチャンではあるが、
白人に対して全く抵抗しようとしない非常に白人にとって都合の良い黒人であり、
出版された当初こそ奴隷解放の小説として注目されていたが、
今ではアンクル・トムという言葉は白人に迎合する黒人の蔑称になっている。


この小説を読む人間も稀有であろう。こういう一見、良心的な小説の根底にある
独善的・植民地主義的・人種主義的思想を批判的に解釈する運動が、
なぜかオーウェル研究になると全くと言って良いほどない。


これもまた、現代世界は未だに冷戦が継続中であり、中東や中央アジア、
アフリカ、東北アジア、南米、ロシアなどの非欧米主義的政治を行っている
地域をイデオロギーの面から攻撃するための道具が必要とされているためであろう。

集団的自衛権に反対する気がない岩波書店

2014-08-03 19:32:19 | マスコミ批判
今月は岩波新書から『集団的自衛権と安全保障』、
そして単行本から『集団的自衛権の何が問題か』が出版された。
いずれも、これから集団的自衛権について勉強する上で参考になるものだと思う。


しかし、こういう本を見ても、残念ながら私が思うのは、
岩波はいつも問題が起きてから行動する
ということである。

集団的自衛権の見直しは2013年の2月にはすでに開始されており、
共産党や一部の市民団体は随分と前から反対し続けていたわけだ。

その間、岩波は確かにブックレット(『ハンドブック 集団的自衛権』)を
出版したり、同社の月刊誌『世界』でもこの問題を問い続けていた。


であるからして、まったく無視していたわけではなかったのだが、
それでも200頁ほどのまとまった形で反対姿勢を明確に表す本は発刊してこなかった。

それがいざ、集団的自衛権の容認が閣議で決定された直後に
「待ってました」とばかりに二冊も出版されるのだから、
これでは事故が起きてから問題点を指摘する
屑マスコミと同じではないか。



問題が起きてから騒ぐのは誰でも出来るのであって、
出版社がすべきなのは問題を提起し改善を訴えることである。


…などと書くと「出版社は営利団体ですから」という回答が来そうだが、
まさにそこが問題で、現在の出版社のほとんどがこの利益のために
社会的には意味があるが売れない本より社会的に害悪なのだが売れる本を
大量生産し、薄利多売し、そのくせ売上を落としている
醜態をさらしている。


加えて、高文研や柘植書房新社、緑風出版社、旬報社、新日本出版社、学習の友社など
市民団体や学者を対象として社会改革に役立つ本を出版している弱小企業も存在しており、
仮にも戦後を代表する左派系老舗出版社が問題が起きるまで腰を上げないのを
「それが金儲けの本質ですから」と言い訳をするのはおかしいと思う。



繰り返すが、岩波は集団的自衛権の容認を全く無視していたわけではない。
しかし、それでも既に去年の冬には本格的な内容が書かれた本が
大月書店から発刊されており(浅井基文『すっきり!わかる集団的自衛権』)、
遅すぎるといった印象がぬぐえない。

不十分な反対は遠回しの賛成である。

まだ完全には容認されていない今、岩波はようやく必死になったというところだが、
そもそも、集団的自衛権の問題というのは、日本軍の美化や自衛隊の入隊、
靖国の参拝、新兵器の購入、武器の売買の規制緩和、北朝鮮や中国への強硬政策など、
全体の歪みの中の一部部分にすぎない
ので、
これだけ取り上げてもあまり意味はない。

よって、これは岩波だけでなく前述の出版社各社にもお願いしたいことだが、
安倍政権の軍事政策を多角的に分析し、日本が軍拡に邁進していることを
告発する本を手遅れになる前に、ぜひとも出してもらいたい。


批判のためのメディアから予防のためのメディアへと変身する機会は
いくらでもある。本が売れないこのご時世、何が売れるかのトレンドは
自分から創っていかないといけないような気がしてならないのである。