時事解説「ディストピア」

ロシア、イラン、中国等の海外ニュースサイトの記事を紹介します。国内政治、メディア批判の記事もあります。

映画『ズートピア』感想(アメリカ大統領選挙と絡めて)

2016-08-24 23:01:30 | 文学
知人に勧められてBDを視聴したが、ファミリー向けとは思えない濃いテーマの作品だった。

日本でオリジナルのファミリー向け映画というとジブリぐらいしかないが、
千と千尋の神隠し以降、映像ありきの作品へと変化していった気がする。


まぁ、アメリカもアメリカン・コミック原作の映画ばかりが作られて、最近では
ヒーロー同士が殴り合いをするという日本の仮面ライダーと変わりないレベルにまで堕落しているわけだが。


あらすじは単純明快で、兎の警官が狐の詐欺師と協力して事件を解決するというもの。

素晴らしいのは世界観の設定で、この世界では肉食動物と草食動物が
一見、平等に暮らしている社会のように見えて、その実、種類によって職業が振り分けられている。

といっても、法律上は完全な「民主主義」であり、
そのような差別を自発的に助長しているのは動物たち自身だ。

この点は「民主主義国家」でありながら、非常に差別的な社会を構築している
アメリカをはじめとした西洋型国家の有り様をよく描いていると感じた。
(もっとも、そのような差別を前提にして成り立たざるを得ないのが民主主義だと私は思うが)


警察が最終的に善として描かれているのはご愛敬だが、
代わりに市長や副市長を悪役として描いているのは今の大統領選挙を思うと大変興味深い。


肉食動物代表の市長、草食動物代表の副市長、どちらも利己的な人物として描かれており、
特に副市長に至っては、リベラルのように見えながら実は非常に好戦的な人物として表現されている。


複数の政党が存在しながら、事実上、共和党と民主党の二大独裁体制を取っているアメリカの政治を思えば、
保守派と言われる共和党にせよリベラル派と言われる民主党にせよ同じ穴のムジナということか。


世論調査によれば、アメリカ市民の半数は
トランプ・ヒラリーのどちらかを選ばなければならない現状について不満に思っているらしい。

さもありなん。

私は中東やアジアに争いをけしかけようとするヒラリー・クリントンという戦争屋と比べれば、
各国との関係改善を望むトランプのほうが大統領としてふさわしいと思うが、
こちらはこちらで移民やムスリムに対して非常に差別的な言動を取っており、看過できないものがある。


人の上に立つべき人物が政治のリーダーにならず、
代わりに民心を慮ることを知らない利己的なエリートばかりが特権を貪る。


人種差別をテーマとしてファミリー向け作品は数多けれど、
このようなアメリカ社会の現状に対する強い憤り、政治に対する不信感をこれほど見事に表現した作品はない。

そのような意味でも本作は、むしろある程度、良識を持ち、
アメリカの政治や社会に関心のある学生や社会人にぜひとも視聴を進めたくなる佳作だ。

ディズニー作品は、しばしば人種差別的だと揶揄されることがあるが、
ウォルト・ディズニーの存命のころはいざ知らず、最近の作品に至ってはそう決めつけてはいけないようだ。


ディズニーも『マレフィセント』などの駄作も多く作っているが、
逆を言えば最近のヴィランに対する再解釈は従来の勧善懲悪型のストーリーに対する反省があるのかもしれない。

映画『ベスト・キッド』『ベスト・キッド2』

2016-08-12 19:34:09 | 文学
今、テレビ東京で特集を組んでいるので、せっかくだからこの映画についてコメントしようと思う。


時期的にはスターウォーズ・エピソード6が公開された翌年1984年から1989年までの5年にかけて
3作品が制作されたファミリー向けの青春アクション映画、『ベスト・キッドシリーズ』(4?気にするな!)


同時期に作られた『バックトゥザフューチャー』(1985年)同様、
この時期の代表的なアメリカ映画の一つであるが、実のところ、この映画はかなりの異色作である。



物語はカリフォルニア州のある町にアメリカ南部から引っ越してきた黒人の少年、ダニエルが
現地の白人エスタブリッシュメントの家に生まれた少女に恋をするところから始まるわけだが、
この時点からすでにこの映画が一見、典型的な勧善懲悪に基づいたアクション映画であるように見えながら、
貧富・人種間の恋愛というかなりナイーブな問題に切り込んでいることが感じられると思う。



1の中盤では富豪やその御曹司、令嬢が参加するパーティでダニエルが笑いものにされ、
逃げるように去るエピソードがあるが、そういう社会の爪はじきにされた少年と友情を育むのが
日系アメリカ人収容所に収容された経験のある元従軍兵士、ミヤギ氏であることは非常に興味深い。

ミヤギ氏は戦時、「敵国外国人」として、
日系アメリカ人が強制収容された場所として有名なマンザナ収容所に身重の妻と共に収監されていた。


青年日系アメリカ人の中にはアメリカへの忠誠心を見せるために、
志願兵になる者もいたが、ミヤギ氏もその1人であったことが映画では描かれている。


ミヤギが戦地で戦う中、刑務所ではろくな治療もされず、妊娠中の妻が死亡してしまう。

アメリカのために命をかけて戦った礼として
妻を見殺しにされたミヤギは、酒を飲むたびに妻を思い出し泣くのである。



ここまで読むとなんとなくわかるが、
実はこの映画、大衆映画のくせにやたらとリベラルな映画なのだ。



同時期に公開された『ランボー2』や『インディ・ジョーンズ2』は
同じく勧善懲悪を基軸としたストーリーでありながら、
敵はベトナム兵(あるいはそれをモデルにしたもの)であり、強いアメリカを訴える内容であったのに対して、
こちらは黒人が白人に勝つ話なのである。

(同じ監督が手掛けた『ロッキー』1作目も結果だけを見れば、
 白人の素人ボクサーが黒人チャンピオンに負ける話である。

 勝負には負けたが「戦いには勝った」というような男のロマンが1作目の魅力だったが、
 これに納得がいかなかったのか、シルベスタ・スタローンは続編では自分が監督になり、
 白人素人ボクサーが黒人チャンプやソ連のボクサーに勝つ映画を作った。当然、つまらないのである。

 ちなみにスタローンはランボーでも同じことをして作品をチープにしていった)

BTFも「白人家庭にとっては」懐かしの古き良き50年代アメリカ社会を舞台にしているが、
同時期に人種隔離政策の下、白人より下の存在として無下に扱われていた黒人の存在はそこにはない。

しかもこのBTFでタイムマシンを狙って博士を襲撃・殺害するのはなぜかリビアのテロリストなのだ


BTFは当時のレーガン政権の下で進んでいたリビア(および中東)に対する偏見が露骨に表れた作品で、
最後には殺害されたはずの博士が歴史改ざんという荒業によって見事、復活する。

アメリカの科学力が海外からの侵入者に勝利する。運命さえも乗り越える。
非常にアメリカらしい「アメリカすげー!」映画。それがバック・トゥ・ザ・フューチャーである。


これらの「アメリカすげー!」映画、ベトナム戦争のリベンジをしている自慰的映画とは対照的に、
『ベスト・キッド』で登場する悪役は元ベトナム兵士だ。


作中登場する元ベトナム兵士のジョン・クリースは「コブラ会」という
あんまりなネーミングの空手道場の経営者・師範として子供たちに空手を教授しているが、
その練習風景はまさにアメリカ軍のそれであり、「敵を同じ人と思うな」、「勝つことこそ全て」という
スポーツマンシップとはおよそ縁遠い教育を行っている(その教育方針が原因か3では経営難に陥っている)。


このコブラ会の門下生を相手にダニエルが大会で戦うことになる。

言わば『ベスト・キッド』は第二次世界大戦を通じて暴力の愚かさに気づいたリベラルと
ベトナム戦争という惨禍を経験してもなおアメリカの正義を信じる保守との間の戦いを描いた映画でもある
のだ。


この戦いの決着は『ベスト・キッド2』の冒頭でつくことになる。

徹底して争いを好まず、自ら仕掛けることはないミヤギがクリースの攻撃を軽々を交わしてく。
クリースの両の拳はミヤギの背後の自動車のガラスを割ったことで負傷し、戦闘不能になる。


クリースの血まみれの手とミヤギの傷一つついていない手。
この対比こそ、ベスト・キッドシリーズの名シーンの1つだろう。




さて、『ベスト・キッド』では人種間の友情と恋愛がテーマだったが、続編では
白人と黒人の和解など知ったことかと言わんばかりに、白人少女との恋愛はなかったことにして
ダニエルは沖縄でアジア系美少女クミコと恋に落ちる。良い意味で暴走したのが『ベスト・キッド2』だと思う。


実際、クミコは地元の資産家サトーに牛耳られている村民の1人であり、
前作にあった貧富間の恋愛という要素は一切、ない。ちなみに2では基本的に白人自体が登場しない


マイノリティはマイノリティ同士、仲良くしていくぞという極端な左翼思考がここにはあり、
現に作中で描かれる沖縄が非常におかしなものである以上、日本が好きで沖縄を舞台にしたというよりは、
沖縄に象徴されるエキゾチックな感覚、アメリカのマイノリティしか存在しない社会が作りたかったのだろう。


なお、この2では「一夜にしてアメリカ兵が何万も死んだ戦い」として沖縄戦を記憶しているダニエルに対して
「その10倍以上の日本人が死んだ戦い」と答えるミヤギの会話があり、この歴史観などは第二次世界大戦を
アメリカが全体主義国家と戦い勝利した戦争とみなす一般的なアメリカのそれとは一線を画する



1、2と一貫して『ベスト・キッドシリーズ』はアメリカの正史を否定しているのである。


2の悪役として登場するミヤギの元親友でもあるサトーは、後半で改心したのち、
それまで着込んでいたスーツを脱ぎ、作業着に着替えて村人に土地の権利書を委譲し、
台風で破壊された村の再建に協力すること、自分が間違っていたことを認め、ミヤギに許しを請う。


村人を苦しめる資本家としてのサトーから労働者の味方サトーへと変身する象徴的な場面である。
『ベスト・キッド2』は製作者のリベラルな思想が1以上に強烈に表れた作品で、
 およそ大ヒット映画としては似つかわしくない反アメリカ的な内容がふんだんに盛り込まれているのだ。


2では屈強な米軍兵士が割れなかった氷の板を一般市民のダニエルが空手で叩き割るシーンがある。
これなどは、アメリカ軍の強さを強調するハリウッド映画では到底表現することができない

B級映画ならではこそ可能な自由な作風。それこそがベスト・キッドの魅力であろう。


このようにアメリカの映画としては、かなりの変化球である『ベスト・キッドシリーズ』だったが、
3では名が売れすぎたのか、普通の青春映画として仕上がっている。


面白いことは面白いが、2まであったスタッフたちの強い自己主張はもはや存在しない。
1&2で一つの作品、3は番外編として位置づけるのがベストな解釈だと私は思う。


4になるとダニエル少年がダニエル中年になりかかっていることもあってか、
白人美少女女子高生とミヤギとの交流になっており、ハッキリ言って凄くつまらない。
(監督も1~3までを手掛けたジョン・アヴィルドセン氏ではない)


この「カッコよくてかわいい女の子を前面に推し出せば売れるだろう」という
男性主義的な考えが見え見えの時点で、もはや1~3まであった左翼くささは完全に消え去っている。


当然、売れなかった。


また、2010年に公開されたジャッキー・チェンが関わっているリメイク作品では
空手ではなくカンフーを習うことになっており・・・えーい!書くのも面倒だ!


自分から仕掛けてはいけない、まず心を磨くべし。
こういう空手っぽい精神を訴えることが肝なのに、ただのアクション映画にした時点で、
ジャッキー・チェンはやっぱり、どこまで行ってもジャッキー・チェンだなと思ってしまう。


以上、長々と書いたが、それなりに有名なB級映画であり、レンタルビデオ店に行けば
まず置いてある作品なので、興味を持った方はぜひ鑑賞してほしい。


私たちが目にするアメリカ映画は基本的に金のかかっているハリウッド映画で、
そこには非常にアメリカくさい大衆性、保守性が散見されるのだが、B級映画になると、
俄然、話が変わり、アメリカの嫌な部分に焦点を当てようとする意欲作もよく作られている。


そういう映画を作ることが出来るというのがアメリカの良いところでもあるのだが、
そういう映画に限ってあまり日の目を見ることがないというのがアメリカの悪いところであろう。

やっぱり村上春樹は駄目だった

2015-10-08 23:29:59 | 文学
イスラエルに媚売ってるような作家が
ノーベル文学賞をもらえるわけないだろ
と言う話。


なんで毎回、受賞候補に挙げられるのかな・・・
たぶん、本人も迷惑してると思います。

村上さんの作風自体がノーベルに不向きなのに、
どうして毎回、挙げられるのだろう?他にいないからか?


今の日本の文学は、娯楽性が強すぎて
ノーベル文学賞に選ばれそうな作家がいないような気がする。


いや、いることはいるのだが、あまりにも無名すぎて注目されないというか。
本来なら、そういう作家こそ、文学賞や書評で持ち上げなくてはならないのだが、
又吉を見ればわかるように、賞=ショーなわけで。日本の受賞は当分ないと思う。

直木賞作家、東山彰良氏の緊急サイン会

2015-07-30 22:57:14 | 文学
池袋のリブロが閉店したのは出版業界では大ニュースだったようで、
リテラをはじめとした様々な場所で騒がれていたが、私にとっては、
正直、どうでもいいと言おうか、そこまで惜しむ本屋ではなかった。


新宿の紀伊国屋や神保町の三省堂のほうがでっかくて好きだ。
同じ池袋ならジュンク堂のほうが品揃えも良く、イベントも多い。


まぁ、それはともかく、
旧リブロがあった場所を借りて三省堂池袋店が昨日から営業を開始した。

初日だから何かプレゼントがあるかなーと思い、早速、本を一冊買ってみた。
残念ながら、そのようなものはなかったが、そのかわり、この度、直木賞を受賞した
東山彰良氏の緊急サイン会が明日(つまり今日)開かれるとのことで、これ幸いとサインを頂いてきた。



ピース又吉の芥川賞受賞ばっかり取りざたされているが、
正直、東山氏の『流』受賞のほうがビックニュースだ。

それも良い意味での。



この本は基本的には、青春&ミステリーにジャンルされるものだが、
台湾現代史が背景としてあり、気楽に読める植民地文学にもなっている。

より正確に言えば、ポスコロ(ポストコロニアリズム)作品と言うべきか……


まぁ、要するに、文学的に大変価値が高い小説なのである。

旧植民地を舞台にした小説は他にも色々あるが、この作品の優れているところは、
得てして気難しい内容になりがちなこの手の話を娯楽小説として完成させたことだ。


結果、大衆小説としてストレスなく読めるようになっている。

この「気楽に読める」というのは結構大事で、
純文学が売れないのも、読んでて疲れる人間が多いからだと思う。



もちろん、純文学も大衆文学も好きだという人はいるだろうが、
少なくとも昔の芥川賞受賞作家、例えば安倍公房の『飼育』や
大江健三郎の『死者の奢り』は難解なテーマでありながら同時に読ませる話だった。



ページをめくりたくなるというのは作家に第一に求められるものだと思うが、
この点、どうも純文学は、どこかマニア向けになっているような気がする。

(この点、田中慎也氏の『宰相A』は娯楽性タップリの佳作だと思う。
 村上春樹氏の諸作品もまたしかり)



若干、話題がずれたが、この『流』が世間的に評価されたというのが
ちょっと驚きで、昨今の何でもかんでも「反日」にしたがる日本社会で
数少ない吉報だったのではないかと思うぐらいだ。(大げさか?)


こういっちゃ何だが、はっきり言って、社会性など皆無のベストセラー小説が多い中、
このように深読みすると様々な発見ができる小説が褒められたのは、純粋に嬉しい。


こういう背景は骨太で、ストーリーがまろやかな小説がもっと増えればいいと思う。

冷戦史観(西側中心史観)の克服を

2015-06-24 00:12:40 | 文学
ロシア・中国文学(ノンフィクションも含む)が顕著だが、
外国文学の翻訳書は、基本的に西側の価値観に沿う作品が選ばれる。


また、文学の評価もまた、冷戦史観、すなわち、
アメリカも非道いことをした、ソ連も非道いことをしたという
二項対立を基軸とする単純化された歴史観に基づいてなされている。



社会主義国では自由が抑圧され、芸術は開花されない。決まり文句である。
では、実際にはどうなのか?「独裁国家」イランを例に見てみよう。


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それではここで、
セイエド・モルテザー・アーヴィニーについてご紹介することにいたしましょう。



彼は、1947年に生まれ、幼少時代から芸術に親しみ、
詩を吟じたり物語や論説を執筆したり、絵画に没頭したりしていました。



大学では建築学を専攻しましたが、
彼は次第に文学や神秘主義哲学にも関心を持つようになります。


アーヴィニーは、イスラム革命後の数年間に人生の転機を迎え、
人生観や価値観が根本的に変化したことから、評論家、作家、革命芸術家に転身しました。
彼は、この時期について次のように述べています。





「私は、知識があるふりをすることが決して、
 聡明であることの代わりにはならず、しかも聡明さは
 哲学を学んでも得られないことを熟知している。

 我々は、真理を探究すべきである。これは全ての人々が本当に求めており、
 また見出すであろうものであり、しかも、身近に見つけられる」




アーヴィニーは、この真理を探究しようという動機をもって、
テレビ用のドキュメンタリーの制作を手がけるようになりました。



彼は、イラン北東部のトルクメンサラー地方、南西部フーゼスターン州、
そして郡部に住む貧しい人々の生活を題材としたテレビの番組を制作しており、
それらはいずれももドキュメンタリー制作の分野において注目に値する作品とされています。




また、イラン・イラク戦争の勃発とイラクの旧バース党政権軍のイラン攻撃は、
彼の人生の中で重要な時期とされています。



彼は、撮影班の一団と共に前線に赴き、
「勝利の伝承」という連続テレビドラマの制作の基盤を作りました。



このドキュメンタリーは、戦争中の数年間から戦後も継続され、
イランにおける聖なる防衛に関する芸術作品の中で最も成功を収めた作品の1つとなりました。


(中略)

彼は1993年4月10日、イラン南西部のある地域で、
ドキュメンタリー映画「空の中の町」のロケーションを監督していた際、
イラン・イラク戦争時代から残存していた地雷の爆発により死亡しました。



この栄えある芸術家の殉教後、イスラム宣伝機関の芸術家や作家、
詩人による、イランイスラム革命最高指導者への提案により、
この日はイスラム革命芸術の日に制定されています。

http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-
52-07/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%9B%9B%E
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しばしば東側の国では、『抵抗の文学』という言葉が使われる。


これは、大きな意味では西側諸国に対する抵抗であるが、
より小さな意味では、戦争を描く文学として通用している。



アメリカの支援によってイラクがイランを侵攻したように、
いわゆる「独裁国家」の戦争は、「平和国家」によって仕掛けられたものが多い。



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現代のイランの物語文学には、イランイラク戦争を題材にした作品が存在しますが、
作家の多くは、実際に戦争を間近に目撃し、その舞台に居合わせた人々です。


イラン人の作家が、サッダーム・フセイン率いるイラク軍の侵略に対抗する、
イラン人の聖なる防衛を書き綴ることに努めた結果、数十もの長編小説や
数百もの短編小説が生まれました。


また、小説に加えて、近年では戦争体験の回想記も数多く出版されています。


戦いの最前線や、戦争の巻き込まれた町、兵隊らのキャンプや
捕虜収容所での出来事が書き綴られたことから、イラン・イラク戦争を
題材とした「聖なる防衛」という独立した文学のジャンルが生まれました。


これらの作品の一部では、戦争という出来事が非常に詳細、
かつ正確に述べられており、その中から大傑作が生まれることとなりました。

http://japanese.irib.ir/2011-02-19-09-52-07/%E3%82%A4
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ソ連のスターリン政権期にも、
当時、彼らが体験した内戦や大戦、国内問題を強く意識した文学が登場した。


特に、戦後の冷戦下での諸外国の商業主義や封じ込め政策を批判する作品は、
当時の西側諸国が本国、植民地で展開された共産党狩り(と言う名の民衆弾圧)を思えば、
なかなか考えさせられるものがある。文字通り、抵抗の文学になっているのである。


もちろん、これらの文学は基本的に自国の政府批判はあまり書かれないが、
だからといって、植民地主義を続行させる欧米列強への批判が無価値になるわけではない。



非常に思い切った発言だが、どうも東側(共産か否かを問わず、
アフリカ・南米・東ヨーロッパ、アジアなどの非西欧型社会)の文学を
評価しない連中は、彼らが批判している西側の独善を無視している嫌いがある。



政府よりだから、政治的だからというそれだけで、
彼らが一体何に対して批判をしているのかについて目を向けようとしない。



冒頭で私は冷戦史観を「どっちもどっち」の見方だと書いたが、
よりつぶさに見ていけば、「どっちもどっち」と言いながら、
その実、西側の犯罪は極力軽減して叙述していることに気がつく。


例えば、ロシアや中国、東欧の国家犯罪は指摘されても、
イギリスやフランス、スペイン、ベルギーが同時代に起こした
戦争犯罪、国内・海外への弾圧に関しては、同等のページが割かれてはいない。



文学もまたしかりで、例えば、アガサ・クリスティの推理小説では、
アフガニスタン侵略戦争に従事した軍人が好漢として描かれており、しかも、
この戦争がイギリスがアフガンを侵攻したという肝心な点が書かれていないのだが、
この点について、批判的な意見を大物の歴史家や文学者が寄せたという話を
私は聞いたことが無い(彼らの基準では間違いなくプロパガンダ文学になるのだが)。


アメリカも悪い、ソ連も悪い、どっちも悪いと言いながら、
実は、自分たちが行っている植民地主義への反省はほぼない。


これらに対して、本格的に異議を唱えたのが
亡命パレスチナ人のエドワード・サイード、ケニア作家のジオンゴ、
フランス領東インド諸島出身のフランツ・ファノンなどであった。


彼らの批判が本当に受け入れられているのかを考えると非常に怪しく思える。

この西側中心史観を抜けて(昔流に言えば脱構築)、
新たに作品を読み直していかなければならない……と思う。
(もちろん、すでに多くの文学者が着手しているはずだとは思うが)

磔のロシアその3

2015-06-22 00:32:10 | 文学
その2では、亀山が自分の結論を正当化させるために、
原文を無視したり、改ざんに近い誤訳をすることを挙げた。


これが一つの著作に限定した話ならともかく、
少なくとも『悪霊』・『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、
『罪と罰ノート』、『謎とき悪霊』などなど、ほとんどの著作に通じる。



亀山の誤読や誤訳は、単なるニュアンスの違いではなく、
内容そのものを歪めてしまう。


『作り上げた利害』というスペイン人作家、ベナベンテの喜劇で、法律家が
「要するに皆無、罪となるべきものなり」のコンマの位置を移動させて、
「要するに皆、無罪となるべきものなり」と改竄する場面がある。


このシーンは、法律や裁判の偽善を暴く物語の肝とも言えるものだが、
これと同じことを亀山がしているというのは、かなり無気味なものである。


ドストエフスキー研究会の面々が抗議するのも想像に難くない。


しかしながら、単に学問上のアプローチを飛び越えて、
亀山現象の恐ろしい点は、このいい加減な作品を同業の文学者が絶賛し、
新聞社を主としたメディアと結託してセールスに励んだということである




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ところで、驚いたことに本書は昨年度の「読売文学賞」なるものを授与されている。


その選評を書いたのは、ロシア文学者の沼野充義氏である。


沼野氏によれば、
本書は「ロシアの文豪にも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作」
になっているそうだ。


同氏は毎日新聞の書評でも、本書を「原作そのものに張り合えるくらい」と持ち上げていた。
本気だろうか。振り返ってみれば、大量誤訳を指摘されている亀山訳
『カラマーゾフの兄弟』を賞賛し、光文社後援の関連イベントを催す
などして旗振り役を演じたのも同氏だった。


(この時も毎日新聞の書評で「ドストエフスキー本人にも
対抗できるような個性を持った稀有のカリスマ的ロシア文学者」
とまで亀山氏を称揚していた。)



両氏は旧知の仲らしいが、こうした事象は、
一介の文学好きの私からすれば、メディアも含めた一種の業界談合に見える。


「談合」とは、即ち、責任ある立場の人々が、公益よりも、
あるいはそれを損なっても、私益(また内輪の関係)を優先すべく裏で
(また暗黙裡に)示し合わせる行為をいう。


この場合、「公益」に当たるのは、真実、あるいは、読者の利益ということになろう。



沼野氏は本書を「偶像破壊的」とも呼んでいるが、
同氏こそ一連の行為を通じて、逆に別の「偶像」
(あるいは裸の王様)を作り上げているのではないか。そして、それは何のためなのか。



これは、沼野氏だけではない。世過ぎのためか、加担する専門家は他にもいるようだ。
同じ理由で、傍観し口を閉ざしている研究者はもっと多いだろう。


こうした事態が続けば、ロシア文学界全体の信用も低下するのではないか。

他の外国文学研究、たとえば、英米文学やドイツ文学、フランス文学で、
今どき、似たような手法の、作品の中と外の論理とをごっちゃにした、
しかも詐術すら見え隠れする研究書が出て、
それを専門家が激賞するようなことがあるだろうか。


ロシア文学の世界が談合渦巻く狭隘な村社会にならないことを
僭越ながら切に願いたい。部外者とはいえ、一読者として、
また原作者のためにも、良質の翻訳や著作に恵まれたいからである。


http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost137.htm
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これに加えると、亀山は、あの文科省と結託して、
自己の研究を正当化し、批判者を糾弾していたりする。





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実例:新訳『カラマーゾフの兄弟』その他の著作に対するアカデミズムの反応


わたしが提示した新しいドストエフスキー像におけるスターリン学の成果

「二枚舌」の発見→過去のすべての言説への根本的な疑い

歴史研究における文学的想像力の不可欠性→歴史との対話的視点の欠落

アカデミズムの反応→恐るべき閉鎖性

読者を持たないアカデミズムの悲惨 

悪意をむきだしにした批判と倫理的視点からの人格攻撃


結局、文学の精神からの批判を提示できない

文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる

新領域創生の可能性
 →ジャンルおよび研究領域の異種交配


http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/siryo/attach/1343274.htm
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上の発表では
教養教育のモデルを提示することが目的になっている。



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文学科目の設定と音楽教育の普及

『ファウスト』や『オテロ』さらに新作オペラ『カラマーゾフの兄弟』の例

共感力の育成が急務

新たな国家モデルの模索

科学大国と教養大国の二本柱を構築する


人文学とくに文学研究の再生のためのプロジェクトを展開
 翻訳文化の充実化
 →古典新訳文庫も3万部どまりの現実のなかで何が可能か?
 →国際交流基金と光文社のジョイントプロジェクトの可能性
 (専門研究者たちの貧困と編集者たちの驚くべき知性との亀裂


プロジェクト型の大規模な翻訳出版助成
 →文学の国民への還元に無力
 国家は文学と文学者の育成のために積極的な方策をとるべきである
 例:その貢献度をはかり、出版社に対する助成も考える。

(Ibid)
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つまり、亀山は出版社や新聞社だけでなく、政府とも結託し、
キャンペーンを文化政策に転化させようとしている。



ここまで来ると、亀山は学者と言うよりは官僚である。
産官学の癒着が、一連の亀山現象に見受けられる。


資料の所々に自分への批判者に対する低劣なコメントがある。

確かに専門家と言いながら、実にレベルの低い業界は存在するが、
少なくともドストエフスキー研究においては、亀山のほうが
明らかに恣意的な改竄をしているのだから、文句を言ういわれはない。


「研究領域の異種交配」とあるが、仮に本気で他ジャンルの研究者、
 例えば、ロシア史のそれと協力しようとしても、上手くはいかないだろう。

(その4へ続く)

ギュンター・グラスが死んだ

2015-04-14 00:24:58 | 文学
20世紀ドイツ文学の金字塔、『ブリキの太鼓』の著者、ギュンター・グラス氏が亡くなった。
数少ないドイツの良心が他界したことを実に残念に思う。


グラス氏は東西ドイツ統合に反対していた数少ない人間の一人だ。

我が国の知識人を含め、ほとんどの人間は「統合」を素晴らしい出来事だと思っている。

しかし、これは実際には西ドイツによる東ドイツの「併合」であり、
実際に、東ドイツの大学で既存の教授が解雇され西の学者が就任したり、
これまで公務員として勤務していた労働者が解雇され、大量の失業者が発生したりと、
自由が与えられた代わりに生活が破壊されたのだった(これが東部におけるネオナチ台頭へと繋がる)


そういうわけで、単純にこの統一を喜んでいるのはそうはいないということ、
特に東ドイツの住民に至っては自国がボロクソに叩かれることを
面白く思わない人間も少なからずいたわけだ。グラスは西ドイツの作家だが、
この空気に敏感に察知し、大作『はてしなき荒野』を世に送り出した。


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テオ・ヴトケは同郷で誕生日も同じ小説家の「不滅の人」
(作中では名は出されていないがテオドール・フォンターネのこと)に入れ込んでいて、
周りから「フォンティ」と呼ばれている。


そんな彼には、若い頃当局をあてこするような発言をしたことや息子たちが西側にいることから、
秘密警察官ホーフタラーが「つきまとう影」のように寄り添っている。

その年、「ベルリンの壁」が崩壊した。
娘マルタは西側から来た不動産会社社長と結婚し、シュヴェリーンに住む。
しかし地上げ屋同然に公社の仕事をし、家庭を顧みない夫にいつしか離婚を口にするようになる。


ホーフタラーは、フォンティが戦時中フランスにいたときの恋人が産んだ
娘の子・マドレーヌを連れてくる。まだ見ぬ祖父を思ってかフォンターネの研究をしていた。


そしてあれよあれよと言う間に東西ドイツが一つになった。
ウンター・デン・リンデンの大通りのあたりは、
東西ドイツ統一の悲願達成を祝う群集で溢れかえり、夜空には花火がはじけ、
この世紀の大事業をなしとげた喜びは「歓喜の歌」の大合唱となってベルリンの空を震わせていた。


ホーフタラーはフォンティに、信託公社での書類運びの仕事を見つけてくる。
信託公社とは旧東ドイツの国営企業の民営化及び「解体」をする組織で、
まるで資本主義が旧東ドイツを食い物にしているかのような事態を、フォンティは憂慮していた。


公社(かつての帝国空軍省)のパタノスタ(旧式のエレベータ)の中で、
フォンティは信託公社の総裁と知り合う。二人は文学談義に花を咲かせるが、総裁は暗殺される。


新しい女性の総裁が来て、フォンティもお払い箱にされる。
追い討ちをかけるように親友フロイントリヒ教授が自殺。
フォンティは失踪を企てるが、ホーフタラーに阻止される。


そのことと妻エミーの自殺未遂のダブルショックで寝付いてしまう。
実家に駆けつけたマルタも鬱病を発し、ホーフタラーが一家の面倒を見るはめになってしまった。


夫の事故死の知らせを聞いて、マルタは突然正気に戻り、
入れ違いに来たマドレーヌにフォンティの世話を任せ、母を連れてシュヴェリーンに帰る。


孫娘の顔を見たとたんみるみる回復したフォンティは、
ホーフタラーがお膳立てした講演会で熱弁をふるう。
信託公社についての話で会場が最高潮に達したときに、ホーフタラーが叫ぶ。


「信託公社が火事だ!」

それ以後、フォンティは孫娘ともに行方不明になる。
懇意にしていたフォンターネ資料館あてに絵葉書が届いた。

「とにかく、荒野には終わりがあるってことが、このわしには分かるんですよ・・・。」

http://doitsugo-mode.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-ad5b.html
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グラスは英米によるアフガン侵略戦争に対しても批判していたらしい。

みんながハッピーでいる時に、そのハッピーは誰かを食い物にしたものだと告発するのは
実に勇気がいることだ。彼は自身がナチスの兵隊であったことも晩年、告白した。

非常に潔い、知識人らしい知識人だったと思う。本当に惜しい人を亡くした。

ワレンチン・ラスプーチン氏を偲ぶ

2015-03-16 00:02:25 | 文学
作家のヴァレンチン・ラスプーチン氏が、モスクワで死去した。77歳だった。
孫のアントニーナさんが、リア・ノーヴォスチ通信に伝えた。

ラスプーチン氏は、「マチョーラとの別れ」、
「フランス語の授業」、「最終期限」など、その他数多くの作品で知られている。

ラスプーチン氏は1937年3月15日にイルクーツク州ウスチ・ウジンスキー地区アタランカで生まれた。

ラスプーチン氏は社会主義労働英雄で、2012年には国家賞授与された。

続きを読む: http://japanese.ruvr.ru/news/2015_03_15/283339251/
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アフリカ文学や朝鮮文学がポスト・コロニアリズム研究の材料として利用される一方で、
ロシア文学は、逆に反共・反ソの材料としてしか紹介されない傾向がある。


私が知る限り、日本語で読めるソ連文学の多くは、反体制派の作家の作品ばかりだ。
そこには、したり顔で文学者がソ連批判をするだけのつまらない解説が添えられている。


結局そのような言説は列強の冷戦史観(悪のソ連が滅び正義の時代が訪れる歴史)
を正当化させるだけのものであり、実にいい加減な内容になっている。
現に、市民も参加する研究会によって、その解説・翻訳の胡散臭さを暴露されている人間もいる。


亀山郁夫著『謎とき『悪霊』』の虚偽を問う

― テクストの軽視と隠蔽、あるいは、詐術と談合 ―

(または、「マトリョーシャ=マゾヒスト説」の崩壊)


商品としてのドストエフスキー

-商業出版とマスメディアとにおける作家像-



亀山教授は日本のロシア文学業界で中心となって活躍している方で、
彼の言説を知ることで日本のロシア文学研究の水準を見極める指標にもなる。


ゴーゴリの新訳に対して私は以前、「ロシア文学の洗浄作業」といって酷評した。
ゴーゴリに限らず、最近の文学者は新訳と称して手前勝手な解釈を刷り込ませており、
正直、その翻訳のレベルも神西清氏や中村融氏といった過去の名訳者に遠く及ばない。



ここで、イギリス文学やフランス文学の翻訳状況に目を向けてみると、
植民地支配や戦後の独立運動に対する弾圧を批判する小説はなぜかメジャーになっていない。

ドイツ・イタリア文学でもナチスやファシスト政権を批判する文学はなぜか傍流だ。

アメリカ文学に至ってもキング牧師のような融和的活動家の翻訳書は岩波にはあるが、
マーカス・ガーヴェイやマルコムXのような対決的な運動家の本はなぜか翻訳されていない。


欧米の文学はむしろ、大衆文学の翻訳がメジャーで、
向こうの価値観が知らず知らずのうちに読者の脳にしみとおる様に作られている。


他方、ソ連や東欧、中国の小説は反体制派の本ばかりが翻訳され、
いかにこの国がろくでもない国であるかを読者に説明するものになっている。


真のプロパガンダとは、「本当は正しかった日本」だとか
「薄汚い国韓国」とかいった威勢のいい負け犬の遠吠え書籍ではなく、
むしろそれがプロパガンダとは決して思わせない透明感のあるものなのだと言えよう。



そういう中で、ワレンチン・ラスプーチンの作品は
プロパガンダ翻訳活動の波の中で珍しく発掘されたポスト冷戦を描いたものである。


そこでは冷戦が終わり、ソ連が否定された後に、時代に馴染めず翻弄される人間を描かれている。

実際、ソ連崩壊後のロシアは国の財産を新興財閥が収奪し、
そこからさらに欧米に資本が流出されるという非道い有様に陥った。

新興財閥の個人的利益と引き換えに、国や社会は疲弊し、多くの人間が貧窮したのである。


この時期、西側諸国は悪の帝国を葬り去ったことに小躍りし、
西側の左翼は、そそくさと手のひらを返し、反共主義者たちの犬となり餌をねだった。


抵抗者たちが自発的に解散を宣言し、権力者に服従し、弱体化した結果、
新自由主義が浸透し、中東・アフリカに軍が侵攻し、国内の貧困者が増大した。


その癌は、冷戦終結後、20年が経った現在になり、いよいよ勢いを増すばかりだ。

当然ながら、敵に降伏するだけでは飽き足らず、
味方を売り、時にはかつての仲間の虐殺作戦に参加したこの人殺しどもは、
現状の責任は自分たちにもあるという反省をしていない。しようともしない。


私は、常々ポストコロニアリズム研究はソ連や中国を対象にされるべきものだと思う。
冷戦時、ソ連は西側の敵としてありとあらゆる悪魔化がされてきた。ちょうど今の北朝鮮のように。


しかし、振り返ってみると、ペレストロイカは果たして本当に手放しに礼賛できるものだったのか?
冷戦終結は、新しい春をもたらしたのか?冷戦後20年たった今をみると、とてもそうは思えない。


どちらの事件も西側にとっては非常に喜ばしいものだったが、
東側にとって、それは必ずしも良いものだけではなかったのではないか?

ラスプーチンの小説を読むと、ペレストロイカを当初は喜びながらも、
やがてそれがもたらすものに悩まされる農民や町民の姿が描かれている。


私たちは今こそ、ラスプーチンのような本を読み、
西側の都合のよい歴史観から脱却すべきではないだろうか?

新右翼よ、三島由紀夫になれ!三島が草葉の陰で泣いてるぞ!

2015-02-20 00:44:21 | 文学
私は平成以降に現れた右翼、小林よしのり、東浩紀、三橋貴明、
最近では百田尚樹や古市憲寿等々を新右翼と勝手に呼んでいる。

非常に大雑把な分け方だが、一言で言うと、
以前の右翼に感じられた男らしさ、汗臭さが感じられないのだ。



古い右翼、旧右翼の代表的人物として三島由紀夫が挙げられるだろう。


三島は、男らしさ、雄々しさ、猛々しさ、
一言で言えば強さに美を見出す男で、生前の彼は老いることを非常に恐れていたという。


三島が腹を切ってサムライのような死にざまを見せた後も、
その遺体は若者のように筋骨隆々、張りのある肌だったそうだ。


その彼が自殺する直前に入稿したのが遺作『豊饒の海』だが、
同作は人間の生の華やかさと虚しさを輪廻転生を題材に描き切っており、
戦後日本文学の金字塔の一つとして評価しても差し支えない。


特に傑作なのが最終部「天人五衰」だ。

天人五衰とは仏教用語で、六つの世界(六道)の最高の世界、
天道に住まう人間(天人)が死の間際に現れる5つの兆しを意味する。


衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服が垢で油染みる
頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える
身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す
腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る
不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がる

要するに、体中が腐るのをただ耐えなければならないわけだ。

人間の場合、老衰や疲労によるダメージを少しずつ蓄積しながら死ぬのだが、
天人の場合、それらを一挙に味わうわけで、その苦しみは地獄の16倍だと言われる。


三島は、この言葉をもって自身のペシミズムを究極の美に高めた。

物語の最後で、語り手は、転生を繰り返したはずの男が
「実は初めから存在しない」ことを彼の恋人から聞かされる。


豊饒の海は、次のように結ばれている。


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これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。
数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何ひとつ音とてなく、寂莫を極めている。この庭には何もない

記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりを浴びてしんとしている。・・・
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強い日本をひたすらに信じてきた三島。だが、そもそも、それは存在したのか?
経済成長とは裏腹に、先の見えない戦後日本の不穏な気配を敏感に感じとった三島。

豊饒の海は一人の作家のパーソナルな内省と、ソーシャルな現実批判を描いた作品なのである。

左翼には彼が右翼だったというだけで作品を全否定する人間がいるが、
少なくとも彼の持つ類まれな芸術性だけは評価しなければならないだろう。



(http://danshi.gundari.info/neto-uyo-out-arrested.html)
仮に三島が生きていたら、上の右翼雑誌を見て、そのナヨナヨしさに絶句したに違いない。

近年、論壇に登場してきた面々をみると、
三島のような知性も男らしさも全然感じられない人物が実に多い。


それ以前に「強い日本」を象徴しようと努める姿勢が一切ない。


彼らは一言でいえば、日本が弱いことを前提にして話を進める傾向がある。
嫌韓にせよ、それは日本が「イジメられている」ことへの非難にすぎない。


そして、彼ら自身、どこかアニメや漫画のようなナヨナヨしたものを
クール(カッコ良い)とみなし、クールを愛する自分はカッコ悪くないと弁解している。


日本が戦争になったらどうすると聞かれて、逃げると答えた古市憲寿などは好例だ。
彼は自著で対談相手として、アイドルグループを指定していたりする。
小林よしのりもアイドルヲタクだし、東もアダルトゲームの愛好家と来る。

三橋はアニメの人物の格好をするパーティを自民党の費用を使い開き、
従来の保守派政治家の顰蹙を買った(当然だ!)


こういった女々しさ、情けなさを古参の右翼は非常に嫌っている。
その典型的な人物として、石原慎太郎がいると思う。


石原の思想というのは、
「人権だの民主主義だのグダグダほざいてお上に守られようとする前に、
 ちったぁ、自分で何とかしたらどうなんだ」といったもので、
弱さを強調して他人(政府)に同情(保護)されようとする考えが嫌いなのである。



http://danshi.gundari.info/neto-uyo-out-arrested.html

このサイトのように、新右翼=ヲタクというイメージを持つ人間は多い。


私の個人的経験でも、靖国神社で花見をするほどの右翼だった先輩が、
大のアニメ好き&ゲーマー、変な語尾をつけて話す(多分登場人物のマネなのだろう)
と大変、無気味な方だったので、右翼に対するイメージは非常に悪い。


実際、ネトウヨ反共ブロガー(笑)であるキンピーちゃんのサイトを見ると、
必要ないのにアニメのアイコンや画像が用いられていて、驚きあきれてしまう。
(彼もまた靖国参拝を楽しんでいる人間だったりする)


こういうヲタクくさいアクションから感じられるのは、
彼らはゴッコ遊びに興じているだけではないかという疑念である。


若年者に対して
自衛隊に入ろうという新右翼は多いが、工事現場で働けという新右翼は少ない。


冷静に考えれば、自衛隊などろくに戦いもせずに国税で飯ばかり食ってる連中だ。
絶対、ブルーカラーの労働者のほうが、この国のために働いている。


また、アニメを「クールジャパン」と美化している連中は多いが、
彼らが同じくらいの情熱をもって、日本文学の布教に努めているのを見たことがない。

はたして彼らが万葉集や平家物語を原文で読んでいるかどうか。非常に疑問である。


本当に日本文化を愛しているならば、サブカルチャーよりもメインカルチャー、
つまり、雅楽や水墨画や和歌、古典文学に習熟&布教しているはずだ。

最低でも三島文学や石原文学に精通していなければカッコ悪いのではないだろうか?


先述の先輩やキンピーちゃんが靖国参拝に興じる姿を見ると、どこか、
そういう儀式を行うことで自分が愛国者になれたという感覚にひたっているだけで、
本気で内政や外交について変革を望もうとする姿勢が全く感じられないのである。


三島のような祖国へ対する真剣さが微塵もない。

今こそ新参の右翼は三島を見習い、サブカルチャーから足を洗い、
古典に習熟し、筋トレに励み、男らしく汗をかくべきではないだろうか。


連中がどう言おうと、新右翼のイメージは悪い。
サブカル好きの愛国ゴッコに熱中する頭カラッポのアホ集団。
なんでもかんでも中国や韓国のせいにする遠吠えが得意技の烏合の衆。
他国にはそう思われている。欧米、アジア問わずに。


まだ遅くはない。万が一、この記事を読んだネトウヨがいるならば、
今日から筋トレと古文読解に励んでほしい。特に後者は必要不可欠だ。
この国で愛国を叫ぶならば。

レールモントフについて

2014-10-30 22:00:38 | 文学
ネルーダやプーシキンに匹敵するぐらい好きな外国詩人。

簡単にいえば、皇帝に逆らったために投獄されたり戦地へ送られたりした挙句、
最終的には決闘で死んでしまった享年26歳の青年詩人。それがレールモントフだ。

詳しい伝記は以下のサイトで閲覧可能である。

http://japanese.ruvr.ru/2014_10_15/278697001/
http://jp.rbth.com/arts/2014/10/20/50727.html
http://jp.rbth.com/arts/2014/03/25/47673.html


日本で言うならば、天皇制を批判して殺されたような人物で、
それだけでも、この人物がかなり日本の詩人とはタイプが違うことがわかるだろう。

当然ながら、彼が亡くなった時も、自業自得と得心する人間が多かったらしい。


彼の作品が一部しか翻訳されていないのは、かなり残念なことで、
これは中原中也や小林秀雄を抜きにして近代日本詩が語られているようなものだ。


それでいいのかと思うのだが……まぁ、変に取り上げられるよりはましか。

その数少ない訳詩、「雲」(一条正実訳)を紹介しよう。


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空ゆく雲

永遠のさすらいびとよ

るり色のステップを真珠の鎖さながら

わたし同様 追われる身のお前たちは駈ける

いとしい北から 南をさして

お前たちを追うのは身の運命(さだめ)か?

ひそかなねたみか?明らさまな悪意か?

それともおかした罪がお前たちを苦しめるのか?

それとも友の毒ふくむ中傷にはかられたのか?

いやいや、実りなき畑にお前たちは飽いたのだ

お前たちは情熱にも悩みにも縁がない

永遠にひややかで永遠に自由なお前たちに祖国はない

追放はない