時事解説「ディストピア」

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ジェンダーと植民地主義(なぜ日本ではフェミニズムが受容されないのか)

2022-07-26 00:12:34 | 植民地主義・ジェンダー

 

上の動画は
タリバン政権下の女性の状況について
現地の学生に語ってもらったものである。

 

アフガニスタンの女性の権利というと、
私達の脳内には虐げられる女性と
虐げるタリバンとの戦いの構図が再生されがちだ。

だが、実際にはむしろ
これら女性、特に大学で女性の権利について
学んでいるアフガン女性にとっては

むしろ親米政権のほうが
悪質なものだったのである。

 

その一例として
前政権では公務員になるためには
男性との性交渉を条件にされることが
しばしばあったことが挙げられており、

結果として
女性の社会進出は事実上奪われていた
と、そう彼女たちは告白している。

 

現在、彼女たちは
タリバン政権にむけて
イスラム法に照らした形で
より高度な教育を求めている。

そして、タリバン政権下で
男性と同等の労働権を得られることを
確信していると発言しているのだが、

こうした諸発言からは
日本の知識人、特にフェミニストから
発信されるタリバンに対する憎悪とも言える
感情が微塵もない。対極的だとも言える。

 

日本のフェミニストは、しばしば
自分がアフガンの全女性の意見を代弁
しているかのように語るのだが、
実際にはズレがあるわけだ。

そのズレは両者の
イスラム教に対する信仰心の度合いの
落差を意味してもいる。

「イスラム法に照らした形での改革」は
その好例だろう。

日本ではしばしば
全職業への参画を求めているように報じるのだが、
実際には、本人達の宗教生活を妨げない
レベルでの勤労を望む女性も多いのである。

 

注目すべきは上のコメントで、

ここでは欧米や日本で跋扈する
フェミニストに対する批判がされている。

いわく、フェミニストは
家族や夫に対する敬意を持っていない、

彼女達は男性に偏見を抱いていて
私達の多くは彼女たちが
アフガンの権利を提唱してはいない
と強く思っている

・・・と語っているのだ。

この発言は
世俗化された世界に生きるフェミニストと
イスラム世界で暮らす活動家との間の
埋めがたい溝を如実に物語っている。

 

Believeは「信じる」と訳されがちだが
正確には「強く思う」という意味であり、
日常では「マジで思う」というニュアンスで
使用される。

それだけに、この人達の怒りや反感は
ダイレクトに伝わってくるだろう。

 

タリバン政権に対する信頼と
西側民主主義に対する不信。

こうしたスタンスは
前回の記事で私が言及した
近代フェミニストとは正反対だ。

彼女たちにとって
日本や西洋で女性の権利がどうのこうの
と騒ぐ連中は非難の対象なのである。

 

これは女性の権利について
彼女たちに関心が無いことを
意味するものではない。

 

インタビューでも、
大学ではイスラム世界における
女性の社会的地位について歴史的に
勉強していると答えており、

むしろ一般の女性よりも強く
関心があると言って良いだろう。

 

実際、日本のフェミニストは
アフガニスタンの女性の権利を理由に
執拗にタリバンを罵倒するわりには、

300万以上の児童を
栄養失調の危機にさらした
アメリカには申し訳程度の批判を
軽く述べる程度で済ませているので

こうした偽善性を
彼女たち学生は敏感に嗅ぎ取っている
のかもしれない。

 

ただ、それとは別に
ここで私が問いたいのは

何が差別で何が差別でないかを
決定づけるのは、どこまで行っても
本人の主観でしか無い

ということである。

 

よく日本では
ブルカやヒジャブの着用の強制を
女性差別の典型例として紹介される。

だが、先述の動画を見ればわかるように
ほとんどのアフガニスタン女性は
そもそも最初からブルカやヒジャブを
着ているのである。

 

こうした人達にとって重要なのは
「いかにイスラム教徒らしい生活を
 送れるか」であり、

本人たちにとってブルカやヒジャブは
制服であり、清く正しい生活のために
必要不可欠ですらある。

 

無論、こうしたイスラム化に対して
懐疑的な女性も存在する。

もともとアフガンの避難民であり、
米軍占領後に帰国し、現地の「民主化」
に貢献したサハラ・カリミは
その代表的女性だろう。

カリミは8月の混乱時に
真っ先に国外へ逃亡、もとい、
避難した女性の一人であり、奇しくも
ウクライナ軍の軍用機に乗り、同国で
しばらく生活を送った。

現在でも、タリバン批判の急先鋒として
活躍している。

カリミがタリバンを非難するのは
本人の勝手だろう。

 

問題は
あたかも全アフガン女性の意見を
代表しているかのように
カリミ本人やメディアが演出していることだ。

 

カリミの意見はあくまで多数ある意見の
1つであり、それ以上のものではないのに
絶対の真実として語られる。

 

そして、それはしばしば
悪のテロ集団タリバンから
女性を保護するために介入せよと言う
植民地支配の口実として利用される。

 

私が清末愛砂女史のような輩を
強く批判しているのも、

こうした演出を多用するからだ。

 

アフガンの女性を悲劇化しているのは
あくまで清末やカリミ的なアフガン人
の価値観によるものであり、

これは、どこまで行っても
西洋的価値観に従って、「これは
差別だ」と感じるものでしかない。

 

その際、辻褄を合わせるため
本記事で紹介したような女性の存在は
彼女たちの文章から抹殺される。

 

これは民主主義といえるものだろうか?

少数意見の透明化。

民主主義という思想に懐疑的な私ですら
これはデモクラシーに反するものだと
強く感じる。

 

実のところ、
ジェンダーやフェミニズムというものは
平和の対地にある戦争のために
利用されてすらいる。

 

第二次世界大戦では
女性を戦争に動員するために
強い女性あるいは優しい女性を描いた
ポスターが活用された。

同様のアクションが
今日でも行われているのは前掲の
新聞記事を見れば明らかだろう。

ここで私が確認したいのは
サハラ・カリミしかり、市原房江しかり、

リベラル原理主義的なフェミニストは
こうした動員に対して抗うどころか、

むしろ、それらを主導し、
好戦的なムードを醸し出すのに
一役を買ってきたという事実である。

つまり、ナショナリズムやレイシズム、
コロニアリズムやモダニズムを利用して
女性の社会進出を実践してきた
という負の歴史がここにある。

清末やカリミの親米政権と協力しながらの
女性の「民主化運動」はその典型例だろう。

アメリカの国民化運動の旗手に
フェミニストがいたのは偶然ではない。

 

女性を弄ぶ博物学/工作舎

 

こうしたフェミニストは
進歩的な思想を悪、保守的な思想を
善と捉える逆転現象を起こしがちだ。

 

イスラム教と共生する形の
女性の権利獲得というのは多様化する
世界において、望ましくすらあるのに
それを否定し、絶対唯一の答えを強要する。

同様に、日本では
「性差は先天的なものではない」
という見地が逆に差別的なものとして
否定されることがしばしばある。

それどころか性差が身体的なものである
という考えが理想視されることさえある。

この逆転現象について筆者は過去、
幾度かネットやリアルで語ってきたが、
次回、改めてシービンガーの研究に触れながら
その不可思議さについて説明をしたい。