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時事解説「ディストピア」

ロシア、イラン、中国等の海外ニュースサイトの記事を紹介します。国内政治、メディア批判の記事もあります。

汚職について3

2015-03-24 23:29:23 | 浅学なる道(コラム)
「やりすぎ…」野々村元議員を執拗に追い回すフジ取材班に批判が続出!

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mr.サンデーは22日、政務活動費を巡る収支報告書問題で
取り沙汰された兵庫県の野々村竜太郎元議員へのインタビュー映像を公開した。


放送された映像には、取材班が集合住宅の廊下を小走りで逃げる
野々村元議員を執拗に追いまわす様子が映されていた。

取材班は、「どうして会見で嘘をつかれたんですか?」
「なんで泣いちゃったんですか?」などの質問をしながら、
集合住宅の外まで野々村元議員を追いかけ続けた。

途中、立ち止まってカメラにぶつかり倒れこんだ野々村元議員の行動を
取材班は「体当たりのような行動」と表現し、
「痛い」という野々村元議員に「こっちが痛いです」と返していた。

この報道を見た人々から、ネット上に批判の声が多数寄せられている。

http://irorio.jp/nagasawamaki/20150323/215739/
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これは死刑存廃論にも通じるが、
犯罪者というのは、逮捕された瞬間から絶対的な弱者へと変化する。


「悪い奴には何をやっても構わない」と正義が暴走することが多々ある。

汚職について

2015-03-21 23:20:09 | 浅学なる道(コラム)
非欧米型国家を攻撃するさいに、汚職の蔓延がネタにされることが多い。

先日、紹介したベネズエラでも汚職は多くある。中国しかり、ロシアしかり、
アメリカやEU、日本が攻撃する国家はいずれも汚職が多く行われている印象を受ける。

しかし、ここで視点を逆方向に向けると、
実は汚職は攻撃する側の国でも頻繁に行われていることに気づく。


加えて、汚職の数よりも法に触れないレベルの悪さがありふれている。

例えば、自民党は財界から多額の献金を受け取っているが、
これは冷静に考えれば金権政治、利益誘導型の政治につながるし、
現にそうなっているにも関わらず、汚職としてはカウントされていない。


安倍晋三は各新聞社・テレビ局の幹部と頻繁に会食し、さらにはNHKの人事にまで介入し、
自分と懇意の中である極右思想の人物を経営委員として送り込み、
自分や自民党に有利な報道をするように働きかけているが、これも汚職にはならない。


鳩山元首相が沖縄から米軍基地を追い払おうとした時、
外務省の官僚がアメリカと連携を取り、同氏の妨害を行ったが、これも汚職ではない。


アメリカに目を向けてみると、証拠をねつ造し他国を侵略したにも関わらず、
このねつ造に関与したであろうラムズフェルドは一切罪を問われていない。


同じく、日本の集団的自衛権を非難どころか逆に支持したジョセフ・ナイは
世界でも有数の国際政治学の権威だが、この軍拡(アメリカの傀儡軍の誕生)を望む
およそ平和主義とは程遠い同氏の振る舞いは汚職にはあてはまらない。


そして、戦時から米軍の植民地と化している沖縄の環境を戦後初めて変えようとした
鳩山元首相は、実母から受け取った献金を記載していなかったために、
毎朝、毎晩、自民党と結託したメディア勢力が「政治とカネ」という合言葉を大合唱した。

実は、同時期の弟の邦夫も兄と同じことをしていたのだが、
こちらはあまり(というよりも全く)責任を追及されなかった。



こうしてみれば、汚職は確かに悪ではあるが、巨悪に比べれば些事であることがわかるだろう。
つまり、私たちが優先して撲滅すべきなのは合法の汚職であるはずだし、
汚職を行っていようと正しいことをしている政治家もまた存在するのである。

ある政治家を判断するにおいて、総合的な評価が必要となるはずなのだが、
汚職=絶対悪=全否定=辞職以外の道を認めないという思想が蔓延しているため、
汚職がない限りは、どんな非道なことが行われても事実上看過される奇妙な現象が起きている。
(ましてや、近年は歴史改ざんなどの問題発言すら、軽いたしなめで終わらせられている)


繰り返すが、汚職自体は悪である。しかしながら、それは相手を評価する絶対的要素ではない。
にも関わらず、それのみに着目して白か黒かを決めるのは単純な発想だ。

私たちが気にかけるべきなのは、汚職をしてまで何を目指し、どのような結果をもたらしたかだ。
例えば鳩山元首相だが、彼は社会保障の強化とアジア諸国との関係改善を望み、
結果的に部分的にではあるが、無償教育を成し遂げた(これすら税金の無駄と叩かれたが)

対して小泉元首相は汚職は「恐らく」していないが、アメリカに追従し、
自衛隊の海外派遣、新自由主義経済の導入、結果としての著しい格差と貧困をもたらした。

(不思議なことに彼のほうが国民のウケは良い。
 これは、小泉元首相への過剰な礼賛報道が影響していると思われる。
 実際、小泉首相がちょっと力士をねぎらうだけでニュースになるほど、
 アイドル様な扱いを受けていたのだ。鳩山氏の場合は、連日のごとく、
 政治とカネ、政治とカネ、米軍基地問題にせよ、彼が失敗するのを望んでいるかのような
 バッシング報道ばかりを集中して行った。米軍基地の県外移転に失敗しそうな時期、
 メディアは公約違反だ、公約違反だと大騒ぎした。これに対し、鳩山氏が
 米軍基地の移転はマニフェストにないと返答したところ、自分たちが虚偽の報道をしたことを
 棚に上げ、確かに明記されていないが、国民の期待を裏切ったと罵った。
 こういう一連の悪意ある報道がどれだけ世論に悪影響を与えるかは言うまでもない)


あくまで、汚職はプロセスの誤りであり、目的や結果の誤りではない。
私は、汚職はバレないだけで、ほとんどの議員は関わっていると考えている。

よって、なくすに越したことはないが、これを絶対の基準にするのには異議を唱えたい。

そして、欧米型国家だろうと非欧米型国家だろうと汚職が蔓延している以上、
どちらかがどちらかを汚職を根拠に否定しようとするのは、ナンセンスに思えるのだ。

最近のアイヌ本について

2015-03-10 00:28:28 | 浅学なる道(コラム)
去年の8月に札幌市議会議員が「アイヌ民族はもういない」と発言して以来、

瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社)、
テッサ・モーリス・スズキ編著『アイヌ民族否定論に抗する』(河出書房新社)、
崔 銀姫『テレビドキュメンタリーにおけるアイヌの言説と表象』(明石書店、近刊)など、

アイヌ民族の書籍が多く刊行されている。


ただ、読んだ限りではどうもパンチが弱い気がする。
これで果たして効き目があるのだろうかと。


私の蔵書にはアイヌ人である野村義一氏の著作『アイヌ民族を生きる』がある。
ブックオフで200円で売っていたものだが、この本には被差別民族にしか書けない凄味がある。

100年以上にも渡って差別を受けている民族の苦しみの声とでも言おうか。

この本は旧土人保護法が撤廃される前に書かれたもので、
この差別的な法律が廃止されることを望む必死な思いがこめれている。


これと比べると、最近の本は日本人の学者が他者の視点で書いたもので、
どうにも迫力というか、読み手を引きこませるものがない。


そもそも、被害者であるアイヌ民族ではなく、
その代理人を自称する識者の本が発刊されるのも考えてみれば変な話だ。


北海道ウタリ協会をはじめとするアイヌ民族の団体があるにも関わらず、
彼らではなく日本人が話す。これはおかしなことだ。


黒人解放運動がデュボイスやガーヴェイ、マルコムXなどの黒人活動家によって
展開されたように、本来ならアイヌ民族の問題はアイヌ民族の手によって牽引されるべきものだ。

出版社もまた、アイヌ民族の声を届けさせるのが本来の役目だろう。


ところが、河出書房の『アイヌ民族否定論に抗する』をはじめとして、
最近の本は、アイヌ民族の大和民族に対する怒りの声を前面に押し出すものになっていない。


つまり、アイヌ民族VS日本政府ではなく、左翼VS右翼になってしまっている。
これでは、いつまで経っても、日本人同士のけんかのレベルを超えないのではないだろうか?


加えて、これらの本は
右翼のヘイト発言に反撃するだけで日本の植民地主義を問うものになっていない。
こういう申し訳程度の反撃が果たして差別撤廃の武器になるか、非常に疑問である。


他の日本のマイノリティ、琉球人や在日コリアンも自分たちの声を届けている。
にも関わらず、なぜかアイヌ民族だけは、中間者を介して話が進んでいる。


こういう当事者を締め出した話し合いが、民族問題解決の転機になるとは思えないのである。

古本を読む楽しみ

2015-03-09 22:58:53 | 浅学なる道(コラム)
古本市に行ってきた。狙いは1950年代の古本。
前から欲しかった掘り出し物をたくさん買うことができた。

古本市というのは、通常数日をかけて開かれるものだが、
この間、毎日微妙に出品物が変化するため、何だかんだで数日は入り浸ってしまう。

Super源氏やAmazonの古本サービスが充実しているため、そこまで絶版本の入手に苦労はしないが、
それでも50年代以前の本は別格で、こればっかりは直接、自分の足で探さないといけない。


例えば、今回200円で入手できたブハーリンの『社会主義への道』(改造文庫、昭和7年)だが、
これはAmazonで「ブハーリン」と検索してもリストアップされない本だ。


なかには5千円以上の値が張る本もある。
そういう本を廉価で手に入れるのが古本ショッピングの魅力だろう。


一番うれしかったのは、有島武雄の『生まれいずる悩み』の大正版を買えたこと。

岩波文庫や新潮文庫、あるいはネットなら青空文庫で簡単に読める作品だが、
オリジナルにしかないオーラというものが、昔の本にはある。

特に興味がないので見送ったが、与謝野晶子の『みだれ髪』も装丁が凝っていることで
有名な作品で、これを文庫本でチョロッと読むのと原書を読むのとでは話が違う。


つまり、文字の大きさやレイアウト、挿絵、表紙のデザインもまた作品の一部であり、
文庫では、どうしても文章以外で表現している作品のメッセージが読み取れないのである。



文字がどんどんデジタル化され、ほとんどの情報がネットで読めるようになった。
新聞記事やネット記事が各サイトが引用し、回し読みされる時代だ。


そういう時代に生まれた人にはピンと来ないかもしれないが、
本当の本というのは(特に小説では)、紙の手触りや大きさをもって表現しているものがあるのだ。


そういうアナログでしか伝わらないものを大事にしなければいけないと思う。

映画『フォックスキャッチャー』感想(ネタばれあり)

2015-02-26 00:17:04 | 浅学なる道(コラム)
アメリカ映画の最大の特徴として「強いアメリカ」というものが挙げられる。

わかりやすいのが鬱エンディングで有名なパニック映画『ミスト』で、
霧の中、怪物に囲まれ孤立無援となった絶望的状況を州軍が簡単に解決してしまう。

独裁→アメリカ軍介入→民主化&万事解決というイデオロギーが戯画化されているのだ。


同様にハリウッド版ゴジラでも、何かと犠牲を強いられ、時には敗北を喫する
日本版と違い、アメリカ版は特に犠牲も苦労もなく簡単にゴジラを倒してしまう。


極めつけが冒険活劇『インディ・ジョーンズ』シリーズで、
ナチスやソ連といったアメリカの敵に勝利する物語がそこでは描かれている。

2作目は一応、舞台はインドで変な宗教集団が敵になっているが、
これは見る人が見れば、ベトコンのメタファーであることにすぐに気づく。


このシリーズでは、悪役はことごとく悲惨な最期を迎えており、
2作目ではインディの活躍により邪教徒に支配された村々が解放され、
自由な社会へと生まれ変わるというわかりやすいアメリカン・ヴィクトリーが描かれている。

まさに、強いアメリカは弱者の指導者となり、正しい結果をもたらすのだ。



(http://youtu.be/M_8_o_2sc0Eより)

2月14日より公開されている映画『フォックスキャッチャー』は
弱いアメリカを描いた稀有な、それだけに価値ある作品の1つだ。


主人公であるマーク・シュルツはオリンピック・金メダリストなのだが、
これといった援助を受けることができず、貧しい暮らしを送っていた。


まず、このアメリカの勝利の象徴である金メダリストが
国に守られず、惨めな生活をしているという描き方が斬新。



上の写真を見ても、スポンサーのジョン・デュポン(右)が堂々としているのに対して
体力的に圧倒的に優位に立っているはずのマーク・シュルツ(左)はどこか情けない。


マークはアメリカの大財閥、デュポン社の御曹司(といっても中年の男性)である
ジョン・デュポンから自身が所有するチーム「フォックス・キャッチャー」に
入団することを条件に、多額の資金援助をするという誘いを受ける。


アメリカは救うべき人間を救わないとジョンは言う。


結果を出したにも関わらず、何の恩恵も受けていないマークにとって
ジョンの言葉は、深く心に響いてくるものだった。


ジョンは兄であるデイブにも入団を勧めるが、デイブは誘いを断る。
事実上の育ての親でもあり、名コーチでもある兄と離れ離れになることを
悲しみながらも、マークは恵まれた環境でトレーニングを積み、見事、国際試合で優勝する。


とまぁ、ここまではトントン拍子なのだが、
この辺からジョンがレスリングチームを作ったのは、
自分の手で強いアメリカを生み出すこと、それを母親に見せて自分を認めてもらうこと
という思いっきり個人的な理由があったからだということが次第にわかってくる。


(http://i.ytimg.com/vi/Fi1m6wdJEK4/mqdefault.jpg)

デュポンを一言で表すならば、
アメリカ版三島由紀夫である。



自分のことを「イーグル(アメリカの象徴はワシ。ちなみに中国は竜、ロシアは熊)」
と呼ばせたがり、愛国者を自称し、自分の手でアメリカに勝利をもたらすことを夢見ている。


父親を演じることに憧れ、自分が作らせたドキュメンタリー番組では
自分が選手の第二の父親であり、主導者なのだということを高らかに宣言する。


ミリタリー・マニアでもあり、部屋にはライフルや拳銃のコレクションがあり、
戦車まで揃えるほどの熱の入り様だ(おまけに機関銃が取り付けられていないと文句まで言う)


軍人?らと共に射撃訓練に興じ、時にはトレーニングルームの天井を撃ち、
周囲の注目を浴びようとする典型的な劇場型の人間。それがデュポンだ。


彼自身もレスリング大会に出場し優勝トロフィーを獲得しているが、
実は、スポンサーである彼を気遣って勝たせてもらっているだけであり、
実際には大したことがない。

よろよろと組み手をしている様子は、かなり滑稽であり、
彼が名ばかりの監督兼コーチであることが瞬時に理解できる演出になっている。


競走馬の飼育に専念する母親と対立しているが、競馬がイギリスのスポーツであることをふまえれば、
これはイギリス(元宗主国)とアメリカ(元植民地)の関係を上手く表現したものだと言えよう。


(https://www.major-j.com/upload/info/images/campaign_photo704.gif)

ほぼ素人のデュポンが監督兼コーチである点からお察しの通り、
次第にフォックスキャッチャーのメンバーは、退廃した生活を送るようになる。

デュポン自体が兄からの自立を促し、コカインを勧めるという
どこの不良だとツッコミを入れたくなる指導?をマークに行う。

(スピーチ直前で緊張している彼を元気づけるつもりだったらしいが)


結果的に半中毒者となり、髪を伸ばし、練習をさぼりがちになるマークとメンバーたち。
だが、それはマークにとっては初めての自立であり、兄への反抗だった。


ただでさえ母親に自分を認めてもらえず、苛立ちを隠せない時に
チームの自堕落な様子を見てかんしゃくを起こすデュポン。


マークに、一度は断られたデイブを再度スカウトするよう求める。

それはすでに終わったことと断るマークを殴りつけ、恩知らずの猿と罵倒し、
兄のほうを雇うべきだったと彼のプライドを傷つける言葉を吐く。


その日、マークは髪を刈り上げ、デュポンに与えられた偽りの自立を捨てる。



(http://i.ytimg.com/vi/zWNHlt3mEOk/0.jpg)

内心、いつもデイブの弟としか見られないことにコンプレックスを抱いていたマーク。

デイブにもデュポンにも敵意を見せ、自力で試合に臨もうとする。
が、案の定、コーチがいないため、思うように結果が出せない。
いろいろあって、マークはデイブと和解し、彼の指導を受けることにする。


この映画でデイブは父性と母性を表している。

親の代わりに弟を育ててきた人格者であり、
選手としてもオリンピックで金メダルを取得し、
コーチとしても的確な指導をし、選手を勝利へと導く超人でもあるデイブ。

美人の妻と可愛い子供を持つマイホーム・パパであり、
家族を守ることを何よりの喜びとする。


態度の悪い弟に対しても一度も罵声を浴びせず、
ただひたすらにデュポンと何かあったのかと心配する。


まさに完全にして完璧な父親である。
聖書、放蕩息子と検索してほしい。まさにデイブとマークは放蕩息子の親子そのものだ。
(アメリカがプロテスタントの国家であることを踏まえると、この描写はかなり興味深い)


(http://ww3.sinaimg.cn/large/9e520155jw1envnf00063j20go0b4abq.jpg)

結局、マークはデイブという神の愛なしに勝つことができなかった。
弟ではない自分になれなかった。それがマークの自己嫌悪と不調へとつながっていく。


ソウルオリンピックでデイブとデュポンの指導を受けながら、
結果を出せず敗北してしまうマークは二人の父親に振り回される息子のようだ。


国家や教会の掲げる愛と正義に振り回され、孤立していくアメリカ人。
本作でマークが自力で勝利するシーンはわずかワンシーンしかない。

あとはひたすら負け、負け、負けだ。
弱いアメリカをここまで描いた作品はそうはないと思う。




(http://eigakansou.com/wp-content/uploads/2015/01/foxcatcher.jpg)

フォックスキャッチャーを辞め、兄とも別れを告げ、
異種格闘技(ようするに賭け試合)で生計を立てるマーク。

それは、かつて仲間に「ああはなりたくないものだな」と侮蔑された生き方だった。


「U.S.A!U.S.A!」という歓声を受けながらリングに上がるところで物語は終わる。


結局のところ、この作品は
デュポンが示す「アメリカの愛」とデイブが示す「キリストの愛」の板挟みに悩まされ、
挫折によって、双方から解放される様をドラマティックに描写したものなのだろう。



(http://u.jimdo.com/www58/o/sd2b0ec37a12ecd48/img/i87ff6a0b309a4737/1411048038/std/image.jpg)


この作品は、シュルツを殺害するデュポンの狂気が全面的に押し出されて宣伝されているが、
実際には、気難しい人物といったぐらいの演出で、言われるほど異常性は強調されていない。


マークとデュポンの関係も、オーナーと選手以上のものではなく、
お互いに信頼しあっているわけでも、理解しあっているわけでもない。


むしろ、デュポンと絶交してからマークは彼と全く会話せず、
問題のシーンまでデュポンの影は薄い。ようするに空気だ。


誰よりも父親であることに憧れ、指導者である自分にこだわったデュポン。
それはアメリカそのものであり、彼の愛するイーグルや銃はアメリカの正義のシンボルでもある。



勝利にこだわるあまりにデイブを雇ったデュポンだが、それは父親の役割を自ら売り渡すことだった。

もはや、彼を父と慕う者はいない。マークは去った。
アメリカの夢は敗北をもって終わったのだ。


デュポンの殺害動機は本作の最大の謎の1つだが、しいて言うならば、
それはアメリカの敗北を認められない愛国者の最後のあがきだったのかもしれない。




以上が「弱いアメリカ」を描いた意欲作『フォックスキャッチャー』の感想だ。


正直、娯楽性は大してない。面白い作品ではない。
だが、アメリカの傀儡国家イラクでアメリカの敵を次々と撃ち殺す凄腕の射手を描いた
『アメリカン・スナイパー』(直球すぎるタイトルだ!)よりは本作のほうが価値がある。


日本でも弱い日本兵を描いて古参の右翼のブーイングを受けた映画、
『永遠の0』があるが、これは内容自体は逆に右傾化を促すものであり、
『フォックスキャッチャー』のように反省を迫るものになっていない。


この辺の違いが、なんだかんだで
アメリカのほうが健全な言論を発信している何よりの証拠なのかもしれない。

(アメリカ批判として有名なチョムスキーもサイードも
 アメリカ在住の人間だ。アメリカでは言論の自由は確かに約束されている。
 問題は、まともな意見が発信されても政府や社会が全力で無視していることだ)

日本の右翼こそ売国奴だ

2015-02-16 00:58:20 | 浅学なる道(コラム)
あなたは黒人を露骨に差別する白人を見て、
アメリカ人に対して良いイメージを抱くだろうか?


あなたはムスリムを露骨に差別するフランス人を見て、
フランスという国家を素晴らしい国だと感じるだろうか?



少し考えてみればすぐにわかる話だが、差別を行う人間こそ、
その国や民族のイメージを損なわせる第一の要因なのである。



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安倍首相の政策アドバイザーだった作家の曽野綾子氏が、
産経新聞(11日付け)にアパルトヘイト(人種隔離政策)
をすすめるかのようなコラムを書いたのである。


労働力不足を補うために移民をもっと受け入れ、
人種別に居住地区を分けよ、という内容だ。


海外メディアは大騒ぎとなった。
ロイターやウォールストリートジャーナルが伝え、各国の新聞が転載した。


アパルトヘイトの撤廃を血で
勝ち取った南アフリカ共和国はたまったものではない。

同共和国のモハウ・ペコ駐日大使は産経新聞に抗議文を送付している。

「大手メディアがとんでもない政策を肯定するような記事を掲載してよいのか?」

http://tanakaryusaku.jp/2015/02/00010706
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産経が大手メディアかと言えば疑問が残るが、
少なくとも保守派メディアとしては最大手だろう。


これに限らず、政治・外交において恥をさらしまくっているのは
保守派の政治家、知識人ばっかりだ。


日本に限らずあらゆる国において、
その国のイメージを貶めているのは保守派の言動だ。



私も朝日新聞がいかに右傾化しているかを力説しているが、
朝日の吉田調書が問題視され報道される一方で、
曽野の差別丸出しの意見文がスルーされているあたり、
どうも日本のメディアは足並みそろえて自国の印象を悪くさせたいらしい。

今更だが建国記念日について

2015-02-12 23:49:36 | 浅学なる道(コラム)
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建国記念日の定義や性格は国それぞれ。

アメリカやインドのように独立を祝ったり、
革命を記念するフランスやキューバみたいに。
ドイツは東西が統一した日をあてています


▼きょう、2月11日は「建国記念の日」。

「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨で
1967年から「国民の祝日」として適用されてきました。


しかし、史実ではなく神話を基にしている日本の建国記念は、世界でもまれです


▼かつて、この日は「紀元節」と呼ばれました。
『日本書紀』の日本神話のなかで初代天皇とされる神武天皇。

その架空の人物が即位した日を
明治政府が算出し、国民が祝う日として定めたのです


▼神の子孫である神武天皇から日本の歴史が始まり、
 その子孫による統治は永遠に変わらない。

日本は神の国である
という天皇中心の歴史観を国民に植えつけるためでした。


偏狭な愛国心の押しつけは国の破滅を招きました

▼戦後、紀元節は廃止されましたが、
 自民党政府が「建国記念の日」として復活させます。

根拠のなさを指摘する歴史学者、
ウソを教えることはできないと反対する教育者。

歴史の過ちをくり返してはならないの声は上がりつづけます


▼安倍首相は今年も“建国神話の日”を前にメッセージを出しました。


「今日の我が国に至るまでの古(いにしえ)からの
 先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う」と。

彼のいう先人が何を指しているのかは分かりませんが、
この国を建ててきたのは神話ではありません。無数の民の力です。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-02-11/2015021101_06_0.html
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神話に基づく虚構の建国。


だが、これら事実を知りつつなお馬鹿騒ぎする右翼がいる限り、
決して鼻で笑うわけにもいかない。

問題は、日本の近代化は古代日本の復活という非常に宗教的な理念と
融合しながら推し進められたということだ。


これはイランのような宗教国家ともまた違う性質を伴っている。

イスラム教の場合、人間はあくまで人間である。

だが、明治神道の場合、
国の最高指導者が神として絶対の存在となっている。


神は常に正しく、間違いなど犯さない。
この信仰のもと、大日本帝国は発展を遂げた。

逆を言えば、理屈が通じないわけで、
戦争に勝とうが負けようが、建国記念日が神話に基づいていようが、
そんなものはどうでも良く、受け入れる者は正しく、
そうでないものは間違いだという狂信的な価値観の下、極右勢力は動いている。


因果関係の逆転といおうか、理由があって天皇や大日本帝国を崇拝するのではなく、
天皇や帝国の崇拝が国民の義務だという強烈な思い込みが先にあり、
そのあとに、それを正当化させる理屈をでっちあげるのである。

共産党と天皇制批判

2015-01-24 00:23:39 | 浅学なる道(コラム)
最近の共産党は、国民世論をひきつけるために
天皇制に対する批判的姿勢を若干修正しているらしい。

http://www.sankei.com/premium/news/150123/prm1501230005-n5.html


まぁ、しょせんは産経の記事だし、
党内にはハッキリと天皇制を批判している議員や幹部もいるようだから、
案外、路線は大して変更していないかもしれない。



実際、共産党は今も大日本帝国で天皇がいかに悪政を敷いたのかを
これでもかと強調して論じている。それは、宮本顕治氏をはじめとした
弾圧された党員が戦後も一貫して天皇制を批判していた名残だと思う。


とはいえ、この時代の人間はもう一線を退き、今は若い世代によって運営されている。
リーダーの志位氏も60そこそこで、全共闘世代よりも若い。


何だかんだで、かつてほど激しい怒りをぶつけることはもうないのではないかなと思う。


私が天皇制に反対するのは、天皇が国の象徴である限り、
大日本帝国の責任を追及する=最高責任者の天皇の責任追及=国そのものへの攻撃
という構図にならざるを得ないからである。

実際、右翼どころか中道を気取る連中でさえ、
アジアや欧米からの戦争責任を追及する声を「反日」と解釈している。


民間の手で開かれた慰安婦に関する国際法廷では、
天皇も有罪としてその責任が問われている




日本が謝罪と法的責任を認められない最大の理由の1つに、
靖国神社に象徴されるように常に正しい選択をすると信仰されている天皇を
外国の要求に応じて裁くという行為が右翼にとっては非常に屈辱的だというのがある。


なら、天皇を免責して大日本帝国を総括できるかと言えば、
それはスープに触れずにラーメンを食すようなもので、まず不可能だ。


大日本帝国の犯罪(戦争犯罪だけでなく植民地支配も含む)を
「本気で」反省するには、皇族の責任はどうしても避けて通れない。



中途半端な反省ならいざ知らず、大日本帝国という
天皇制を基軸として成立、約80年存在した国家の所業を
本気で反省しようものならば、この大日本帝国の遺物に関しても
相当に厳しい態度を取らざるを得ない。ここに日本のジレンマがあるのだと思う。

死票について

2014-12-24 23:57:46 | 浅学なる道(コラム)
今回行われた総選挙の295小選挙区で、候補者の得票のうち
議席に結びつかなかった「死票」の割合(「死票」率)が
50%以上となった小選挙区が全体の4割強にあたる
133に及ぶことが本紙の調べでわかりました。


「死票」は全国で2540万6240票にのぼり、小選挙区得票の48%を占めました。
民意を切り捨てる小選挙区制の害悪がいっそう浮き彫りになりました。

(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-24/2014122401_04_1.html)


小選挙区制度がある限り、死票は消えない。
選挙制度自体を元に戻すしかないだろう。


冷戦時に社会党の議席がそれなりにあったのも、
中選挙区制度が採用されていたからだと思われる。


なお、共産党は比例代表制度を中心とした選挙制度を考えているらしい。

オリンピックは景気を良くしない

2014-12-18 18:54:36 | 浅学なる道(コラム)
ロシアの経済が今後、最悪の場合2年は後退するという予想がされている。

http://rt.com/business/215507-putin-qa-economy-recovery/

今年の2月にソチでオリンピックが開かれてからわずか10か月、
異常な原油安、ルーブル安により物価が上昇している。


ここで重要なのは、自国の通貨の価値を下げ
故意に物価を上げている某国家の話である。


その国は数年後、夏季オリンピックを開く予定なのだが、
果たして90年代のバブル崩壊以降、ずっと続いている景気低迷に
終止符を打つことができるだろうかということである。


結論からいえば、オリンピックだけでは経済を回復させることはできないだろう。
長野オリンピックがあった時ですら、景気自体には特に影響がなかった。


オリンピックというのは、典型的な箱もの事業だと言える。

土建屋やスポーツ用具に関連する企業、観光業者等々、
このイベントで莫大な利益を上げるだろう団体はもちろんいる。


だが、それだけだ。

儲かるのは一部にすぎない。

特定の企業や団体に仕事を与え、雇用を増やし、連中に有利な政治をする。
誰かが得をするということは、誰かが損をしているということである。


一部の人間だけが得をすれば、大部分の人間は損をする。

よって、オリンピックを経済活性のカギとするには、
官民癒着体制を払しょくすることが求められるだろうと思うのだが、
実際には、典型的な右翼がこのプロジェクトを推し進めている。


とするならば、オリンピック以外の別の策をもって、
景気回復の道を模索しなければならないだろう。