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こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

うちの猫ちゃん達

2024年03月31日 | 日記
私たちが息子の家に避難してからほぼ2ヶ月間、寺のみんなが餌やりをしてくれ、元気にしていた。とても有難いことでした。
2匹でいることも大きかったかも。
普段からこんな感じで、仲のいい時もある。

けれど、時々喧嘩をするし、基本1匹づつという事もある。
一月の寒い中、停電中だったので、こたつ布団を二重にしておいた。
布団を覗くと2匹でいた。

キミ達よく頑張ったね。
帰ってからはべったりしてます。
ちょっと過保護です。まあいいか、と思ってます。

楽しかった避難生活

2024年03月23日 | 日記
息子の家に避難してほぼ2ヶ月お世話になった。
その間2、3泊で家に戻ったりを3回した。
我らが避難した息子の家は家から2時間弱の近くにあり、
津幡という所の山の中で、家の前には畑もあり、
周囲には巨木が点在し、環境としてはとても良かった。
旦那も孫とよく遊んでいた。
古民家を再生した家なので、天井も高く、居間が広く、快適だった。

即席で我ら夫婦の部屋も作ってくれ、そこで寝ていた。
昼は息子夫婦は仕事で留守。孫も、保育園、学校と出掛けていくので
我らが占領して好き放題。
初めのうちは大河ドラマの「篤姫」全話を息子が契約してるUNEXSTで見尽くした。宮尾登美子原作であるし、脚本もよくて、面白くみた。
私は夕飯係として、夕飯を作り続けた。嫁は朝7時過ぎには下の孫と出かけ、
5時ごろ帰宅する。息子は電気関係の仕事で、時には家での仕事もあったけれど、上の小学生の孫を7時20分にはバス停まで送り、その後仕事に。
夕飯係というポジションは楽である。しかし、子供に沢山食べさせるのは、
ちょっと考えねばならない。我らは老人であるし、食の好みも変わってきている。ついつい、孫の好みに合わせたくなる。しかも年と共に薄味好みにもなっている。孫が完食してくれればホッとする。
嫁の気持ちもよくわかる。私が作った料理を一番「美味しい」と言ってくれたのは嫁である。
調味料から、様々な食材が違うわけで、勉強になった。
嫁の作ってくれた餃子がことのほか気に入った。作り方も違っていたし
小学生の孫と私が餃子大好きで取り合いだった。
近くに住んでいる寺の三男の家の手巻き寿司大会に呼ばれたこともある。
金沢の台所、近江町で食材を用意してくれているし、輪島の水が出ない状況で
魚がなかなか手に入りにくくなっているので、久しぶりの手巻き寿司は美味しかった。相変わらず、輪島近辺は港が隆起した為に、船が漁に出られず、内浦の港の七尾で漁再開となり、津幡のスーパーには魚が入ってきていた。しかしお値段が高い。イワシがもはや高級魚である。それでも鰯の刺身とイワシのフライはやりました。孫達も大喜び。イワシは小骨が多いものの、私は丁寧に取りません。下の孫がちょっと喉にひっかっかったようだったけど、親も気にしないし、
尻尾まで食べてくれたのには感激した。
私が育った街も港があり、父は大の魚好きだったので、小骨が喉に刺さって泣いたことは何度もありました。でも朝にはほぼ治ってた。
息子は父親と同じ釣りが好きなので、孫達は美味しい新鮮な魚をよく知っている。
魚にはうるさい一族です。
今、輪島に戻ってきて眺めているに、魚を安く売っていたスーパーが「危険」の張り紙をされて、再開できていない事、港が壊滅だという事は
魚好き一族としては悲しいですが、仕方ありません。
長い目で待ちましょう。
国が7つの港の再開を目指すと言っています。
輪島港、穴水港、珠洲港、宇出津港、小木港、蛸島港、もう一つは何処だったか思い出せません。
まだ時間がかかるでしょう。待ちましょう。
このところ日々片付けです。断捨離と共に、新しい江崎家になるべく、
奮闘中です。
もう大きい地震が来ない事を祈ります。
もう一回震度7が来たら、家は潰れるでしょう。
昨日は寺の長男の友達が山梨から瓦屋さんの友達を連れてやってきてくれました。各家の屋根に登って見てくれました。
災害に会うと、人の優しさが身に沁みます。
息子の家の猫ちゃんの「クロ」。お世話になりました。





生き延びて元気です。

2024年02月26日 | 日記
今年の初め、戦後に生まれ、平和なうちに死ねるなんてなんてラッキー、
と思っていました。
しかし、震度7なんて災害に遭遇するなんて思いもよらず、全身で思いきり震えました。
今は、金沢の近くの息子の家に逗留し、与呂見の家の水が復活するのを待っています。
家は基礎が少しズレ、少し傾いています。縁台、廊下のサッシが枠ごと壊れていますが、時々帰っては片付け、住めないことはないなと思っています。
先日輪島の街に出向き、その被害の大きさにびっくりしました。メディアから遠ざかっていると、地震の被害の大きさは実感できません。金沢から輪島に車で帰る時、途中、道路の壊れ方を見ると、あちこちの家の壊れ方を見ると、本当にすごい地震だったと実感します。
ともあれ、生きていれば、なんとかなると思っています。
家での生活が戻ったら、またタラタラとブログなど始めようと思っています。パソコンも無事でしたし、買ったばかりのテレビも無事でした。
災害地から車で息子の家に避難する時、金沢に近づくと、灯りは灯り、水も出て、ウォシュレットも動いてた。そこには普段どーりの暮らしがありました。
考え方ですが、本当に貴重な経験をしたと思っています。
また、よろしくお願いします。


今朝の「山カフェ」聞きました。

2023年11月25日 | 日記
1975年と言ったかな?
奈良の高校生四人が山に入って遭難し、8日後に救出された事件の
その時の経験談が今日のテーマだった。朝から今日は唐辛子を粉にする
と決めていて、拭き掃除をして唐辛子にかかる予定だった。
でも、遭難事故の話を聞き始めると、ついラジオの前から離れられなくなった。
死ぬかもしれない、厳しい経験である。
高校生たちは今の時代と違い、携帯もなく、自分たちの位置を知らせるすべもない。
なんとかラジオの情報を得ていたらしい。今日の話をしていたのが、その時のリーダーだったらしい。
最年少の高校生が持っていた黄色いポンチョのような物を破いてつなぎ、
滝の上だったかなあ、かけていたらしい。捜索隊に気付いて欲しいのである。
他に手立てがなかったのだ。
彼らは捜索隊が自分たちを探していることは知っていた。
しかし、7日目だったか、専門家が絶望的だと判断し、捜索を中止する情報を聞いた。食べ物も水もない追い詰められた状況の中だった。
捜索隊が山を降り始めた。その時、最後尾にいた隊員が、目の端に黄色いものを感知した。
それが彼らの命がとぼれるのを阻止したのだ。凄い話で涙が溢れた。
その後の話は、次元が違ってくる。
ただ、生還したことを喜ぶだけではない。
最近、時々思うけど、我ら日本人て同調圧力が強い。連帯責任なのだ。
彼らのお陰で、体育クラブやその他のクラブの活動停止や、彼ら自身も停学をくらう。江戸時代の武士の藩制度で、お家断絶はよくあったみたいだ。
この感覚は現代も我らの精神的なところに繋がってる気がする。
警察や消防、そのほか200人もの捜索隊で探し続けたのだ。
その金額は400万円になり、4人の高校生の親たちが工面したらしい。
最近時々思うけど、われらって集団的ダンスとか、みんなでやることが実に上手い。それはいいことなんだろうね。多分。よく分からないけど。
アナウンサーの山本さんが、山登りをやめなかったんですね。
と質問した時、一瞬言葉が止まり、「山はいいですよね」と言った。
彼はその後、その時の捜索隊の隊長に会う機会があった。
その時の隊長の言葉に涙が出た。
「しっかり準備して、また山に来なさい」
あー、なんか分からないけど、この人は分かってる、と思った。
何が?って聞かれると困るけど、こう言えるかなあ。人間がって。
どうやら、夜中に霰が降ったらしい。
これから冬山になるんだね。
「山カフェ」聞いていると、登山ていいんだろうなって気がします。
今は山登りの前に保険に入るらしい。
今日、捜索隊の隊長は準備して詰めていた。
皆さん、気をつけて行ってください。


持病が悪化。

2023年11月07日 | 日記
元々悪かった右膝と股関節が悲鳴を上げた。
夏、調子に乗ってたかも。膝と股関節の事、すっかり忘れていた。
こんなに気温が高い11月なのに、坐骨神経痛が出た。
軽く考えて、散歩でもすれば治るだろうと思って、散歩を始めた。
しかし、一向に改善しない。
思わず、あすなろ治療院の M氏に電話した。
そしたらすぐに来い、と言われた。
ありがたい。
しかし、今回の鍼治療は久々に痛くて泣きそうだった。
途中、痛い、と訴えたけどM氏は大丈夫と言い切った。
帰り、やはり名医だと実感した。
右の膝と腿が痺れて寝られなかったので、本当に助かった。
痺れが見事に消えていた。
これで寝られる。
M氏はみんな歳とるんだよ、と言っていた。
自覚が足りないと反省した。もっと自分の手足を大事にしなくてはと思った。
少し前にも、リュウマチか、と思われた足の指も診てもらって、教えてもらったマッサージをしていたら治ったのである。
M氏には長生きしてもらわないと困る。
基本、自分の体は自分が治す、という考えは変わらない。
そこに友人の主治医がいることがありがたい。
三国志に出てくる曹操がひどい頭痛持ちでお抱えの鍼灸師がいた。
東洋医学が紀元前にもうあったのが凄い。気の流れって大事なのかなあ?