こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

初春や、今年も運が向いて来た。

2013年01月31日 | 日記

 昨日、穴水に出て、へーちゃんを雪の無い所で走らせてみよう、ということになった。
 思いのほか、雪が残っていてがっかりした。
 仕方なく、コンクリートの上で走らせた。
 何せ、ドッグレース用の犬と聞いているので。
 ホームセンターの駐車場で、若い女の子についていきそうになった。
 育ての親譲りかも。

 犬と付き合うのは、猫と違ってほんとに覚悟がいるんだと痛感している。
 大変である。途中で投げ出して、捨ててしまう人がいるのは頷ける。
 でも、最後まで責任を持つべきである。
 
 昨日、「木漏れ日の家で」と言う映画を観た。
 おばあちゃんが、古い素敵な木の家で、犬と暮らしている。
 おばあちゃんのキャラクターが好きである。近しい感じがする。
 双眼鏡で、お隣の暮らしぶりを覗いている。
 フィルという名前の犬が可愛い。
 へーちゃんと同じ目をしている、と思った。
 犬はいつも一生懸命なんだ、と思わせるような目である。
 何だろうな、犬の目にはユーモアがない。
 猫は存在がとぼけている。

 今でも、旦那は夜へーちゃんと一緒に炬燵で寝ている。
 朝、わたしが一階に降りていくと、へーちゃんは炬燵から出て来る。
 ご挨拶、ご挨拶、とお腹を撫でてやる。その時、不器用に激しく動く前足で顔を引っかかれたりする。
 悪気がないけど、おばさんになっても、一応顔は大事だから出来るだけよける。

 野良猫に食べられて、へーちゃんの餌が全くなくなっているので、入れ物に入れてやる。
 オシッコは、シートの上にするし、近頃では8割5分くらいは成功している。
 しかし、まだうんこが外れる。
 見つけたウンコをティッシュで拾い、トイレに捨てる。
 うっ、「ここ?」
 うっかり見逃したウンコを靴下で踏んだ。
 気をつけてスリッパを履いているけれど、スリッパでも4回ウンコを踏んでいる。
 しかも、なぜかわたしばかり。

 こいつぁー春から縁起がいいやい。
 いよいよ運が向いて来たか。ハハ。
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今年の冬の勉強会終わる。

2013年01月30日 | 日記

 仏教って、どうしてこんなに難しいのか。
 これでは。普及しない、と断言出来る。

 イスラム教徒が今だに増え続けている事に、何か危険な臭いがするけれど、
 それは、貧困と関係があるのでは、と思ったりする。

 毎年、加賀から浄土真宗の佐野明弘(佐野賢明)さんに来て頂いて講義を聴いている。
 親鸞の言葉を読み解いていく一日2時間で、それが2日間ある。
 困るのは、講義が終わった時、一人づつ感想を言わされる事である。
 変なもので、自分の番になって、喋ろうと思っていた事が
 何処かに行ってしまって、違う話をしていたりする。

 言葉がどれも難しくて、自分の言葉に翻訳して聴いているわけだけれど、
 果たして、歪曲してないかどーか、と言われると自信が無いので、
 佐野さんが真宗の同朋新聞で、安富歩氏と対談している記事の中から抜粋しておきます。

  私とはいったい何か。宗教は、常に自己を問うことをしてきました。しかし、、人間を問うて来た宗教が
  人間によってその利用価値をを問われるようになりました。そして現代の日本は、宗教は無用である言う風潮が
  広がるとともに、科学が信望され、あらゆる分野において科学で解明出来る事柄が増えてきました。
  今、私たちはどのような相をとって生きているか。親鸞思想を学ぶとともに、親鸞思想によって人間とその営みを
  捉え直そうと試みておられる東京大学の安富歩さんと考えます。

 この対談集は本になる予定もあるとか。上の文章は編集者が書いたかもしれませんが。
 安富歩氏は「複雑系科学」というものを研究されており、著書に「複雑さを生きる」「東大話法」
 「幻影からの脱出ー原発危機と東大話法を越えて」など多数。

 佐野さんの生の講義が聴かれることは、有り難いと思いたいのですが、ほんと難しい。
 疲れました。でも、多くの人に聴いてもらいたいと思います。

 世智弁聰、傍生、心境、罪福。
 内容はわたしたちとの事と言える。
 にもかかわらず、仏教用語が感覚的にとても遠い。
 私の中では消化不良気味である。要するに分からないのである。
 うーん。
 としか言いようが無い。もやもやとしたものが私の何処かに残っている。
 それは、もしかして収まっていた自分の有り様を、グラリと揺すってもらったからかも知れない。
 その時々で、自分への入り方が違う。
 頑固な固まりがあるのかなあ。どうなるんだろう、わたし。

 追加のお話。
 源信僧都の「往生要集」に大像の一尾という話があります。
 像が迷いの世界を出ようと求め努力して、頭も体の出るが、最後に小さな尻尾がひっかかって出られないんです。
 分かった事で助かろうとしているその全体を行かせないものがある。
 そここそが聞きどころ、学習するところです。
 ですから、わかったことでなく、むしろそれを行かせないものの方が真実の宗教心というものでしょう。
 仏法者になる事自体が、自己を固定化し絶対化することで、ある意味で仏道から外れていくと。
 同朋新聞、9月号から佐野さんの記事を抜粋しました。
  
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静かな日。

2013年01月27日 | 日記

 今日は、時々青空が広がり、時々、静かに雪が降る。
 昨日までの暴風が嘘のように静かだ。
 除雪車の通ったあと、ハナちゃんが飛んで来た。
 

 わたしの部屋は猫ルームになっていて、へーちゃんは立ち入り禁止である。
 へーちゃんは旦那とマンツーマンで対峙している。
 一日に一回は大暴れする。聞き分けの良い時と、大暴れする時と、同じ犬とは思えない。
 我が家のトレーナーにお任せしておこう。なんたって、我等雌族は甘く見られてしまうのである。

 へーちゃんはわたしの部屋に入りたがるけれど、皆がコテのようにへーちゃんの相手をするわけではない。
 アーサーなんか、近づくと火を吹く。猫がゆっくり寝る場所も必要である。

 このところ、寝てたりして、うん?と思う事がある。
 どこかに猫ウンコがあるのでは、と思えるような臭いがするのである。

 今日は朝から、気合いを入れて、猫の臭いの元を捜した。
 押し入れの上の空間に猫がよく行くので、そこから始めた。

 寒いけれど、窓を開け放ち、すすを払った。
 そしたら、ボトっと何かが落ちる音がした。
 みたら、オレコが雪が積っている薪小屋の屋根の上に落ちて、困っている。
 慌てて、助けてやろうと脚立を立てたら、それにびっくりして屋根から滑り落ちた。

 オレコはこの間も一階の廊下の屋根に出ていて、小鳥でも狙っていたのか、雪と一緒に滑り落ちるところを見た。
 このオレコの大胆な性格。よくみていると、一番走り回って一番暴れている。
 おかあさん、と思わず言いたくなる時がある。
 我が家の唯一の雌猫。
 子供を守る為に秋田犬のハナちゃんに突進したけど、子供たちはもう皆オレコより大きくなってしまった。
 果たして、へーちゃんと仲良しになれるのだろうか。
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ボケ咲いた。

2013年01月26日 | 日記

 昨日、同世代の友達がお喋りしたい、というので輪島まで出た。
 冬型が強まる、とのことだったけど、このところ積雪が少ないので、車は出易いのである。
 車の上の雪掻きも必要ないし、簡単に走り出した。
 道路には殆ど雪がない。

 旦那の作品が輪島朝市通りのギャラリーに展示してあるし、それも見てもらった。
 昼を食べ、お茶を飲み、どこにいても声が大きくて困ってしまう二人である。

 「姑が、ありがとう、って感謝するようになったのよ」
 と彼女は言っていた。
 「喧嘩せんでよかったんだわ。分かる人間はそのうちわかるのよ」
 彼女は知り合った頃から、わたしら能登の人間は言いたい事は言えん。
 あんたらみたいに、よそから来た人間は言いたい事言えるのよ、と言われた。
 ホームセンターでバイトしている時も、わたしは違うおばさんと2回喧嘩をしている。
 言いたい事言ってしまったのである。

 普段から、家でも、「お前は我慢の出来ない女だ」と言われている。
 その場その場で、出してしまうので、後に残らない。
 自分にとっては誠に都合がいいのである。

 先日も、へーちゃんのことで旦那と喧嘩している。
 内容はさておき、ほんとに我慢の出来ない人間である事は確かである。

 ほんとの事、と言っても、ほんとの事は一人一人違うわけで、
 わたしは人と人がぶつかる事で、それまで見えなかった事が見えて来る事がある、と思っている。

 昨日、彼女の話を聞いていて、1つ気付いた事があった。
 なさぬ中の姑の世話をするのが、苦痛だと訴えている彼女である。
 生の心の触れ合いなどは全くない。ほんとにお姑さんが嫌いなのね、と思っていた。
 わたしには、絶対出来ないことを彼女は、週に何日かしているのである。
 希望も何も無い。最近ひどいわ、と言う。

 おばあさんをお風呂に入れて、体を洗ってやり、病院に連れて行き、食事や、食料を補充しておく。
 お姑さんはプライドの高い、物知りのご婦人である。
 彼女を見下すような、高慢な感じである。
 そのお姑さんが、感謝の気持を微かに見せて来た時、彼女は世代交代の時期が来ていると感じたようだ。
 お風呂で、お姑さんの体を丁寧に洗っている時、彼女は間違いなく天使に違いない。
 介護士さんに洗ってもらうのとは多分、違うだろうな。
 心は通わせてなくても、そこが触れ合う場所だったんではないのか。

 彼女は、これからいつも花を活けてやるわ、と言っていた。
 「江崎さん、希望が無いわ。あんたあるん?」と言う。
 「希望は無いけど、目標はあるよ。子供たちが生きていく時代が良くない、と思いたくないからね」
 「何にも出来ないけど、希望があるってことを、せめて子供たちに言いたんじゃん」

 彼女は、気が進まない、と言いながら、書をするわ、そして何処かに出してみるわ、と言っていた。

 わたしとおばあちゃんも、時に、お互いにビシを飛ばす事がある。
 その痛さは生きている証、という事も出来る。

 今年もボケが咲いたよ。
 
 
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トッププレーヤーの条件って?

2013年01月25日 | 日記
 

 全豪オープンを観てて、今年ジョコビッチは強い、と思っている。
 バブリンカとの5時間を越す大勝負の時、ジョコビッチは喘息が出たのでは、とそんな様子も見せていた。
 ところが、翌日のベルディヒ戦では、全身リニューアルしていた。

 ジョコビッチくらいの選手になると、チームジョコビッチという企業グループみたいだ。
 専用のシェフも同行して、一軒の家を借りて、一人の選手を戦闘マシーンに仕立て上げるのである。
 ナダルなんかも多分そんな感じなんだろうか。
 けれども、フェデラーにはそんな、システム化されたチームの存在が感じられない。
 知らないだけだろうか。

 今回、一番面白かったのは、アメリカの19歳の女性選手、スローン・スティーブンスの登場かも知れない。
 セレナ・ウィリアムスは調子が良くて、そうなると、誰も手がつけられない今の時代の最強の選手である。
 そのセレナ・ウィリアムスとの対戦である。

 スティーブンスはクールで静かな黒人の女の子である。
 しかし、多分、今までいなかったタイプの選手かもしれない。
 表情が読めない。ツタンカーメンの黄金の像みたいに、目が作り物みたいなのだ。
 しかも、ガッツポーズは小さく拳ひとつ。

 ストロークの強さ深さ、度胸の良さが感じられる。
 セレナが突然調子を崩した。
 メディカルタイムアウトをとって、どうやら腰の治療をしたみたいだ。
 普通、こう言う状況は相手選手にとってはチャンスなわけで、叩き伏せる事も出来る。
 しかし、ステーブンスも調子を崩した。
 こういうのを、ミラーゲームというらしい。
 そこが可愛かった。
 しかし、セレナは痛み止めでも効いて来たのか、よれよれサーブから普段のサーブが戻って来た。
 すると、スティーブンスも戻って来た。
 そして、結局セレナを下してしまったのである。
 試合後のインタビューがふるっていた。
 勝てるかもしれい、と思った瞬間があったらしい。
 
 父親はNFLの選手だったし、母親は水泳の選手だったとか。
 生まれながらにトップアスリートの遺伝子を持っているのである。
 負けず嫌い一家の中で育ったんだ。

 続く準決勝のアザレンカ戦も面白かった。
 又しても、第2セットでアザレンカがメディカルタイムアウトをとったのである。
 思わず、妄想を働かせてしまった。
 一流選手を追い詰める何かを持っているのでは。
 
 アザレンカはさすが、強かった。
 スティーブンスは負けたけれど、多くのテニスファンにその存在を印象づけたのは確かである。
 
 それにしても、ナダルがいないのは寂しいね。
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