goo blog サービス終了のお知らせ 

こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

基礎の補修工事進んでます。

2024年06月05日 | 日記
こんな感じで、角の基礎は2センチほどで落ちそうでした。
浮いてるのもある。
今度大きい地震が来たら、家は壊れるんだろうか、と言う感じ。
でも、よくしたもので、平気で寝てます。神経の問題でしょうか?
真剣な顔です。
青い線は今時の水平器なのか。
昨日は息子も参戦。
防腐剤をぬった木にゴムのようなものを咬ませていました。
つくづく思いました。
大工さんって素晴らしい。
若い子に言いたい。IT関係じゃなく、大工さんは我らが気持ちよく暮らせる
基本を知っている素晴らしい仕事だって。
この時代、大工さんが減少しているとか。
残念です。
明日もまた。


昨日から、友人のOさんと寺の次男の二人の大工さんが我が家の基礎を。

2024年06月03日 | 日記
今朝、1月4日ぶりに震度5強の地震。
久々、心臓がブルブルっと来ました。
でも、しばらくしたら落ち着き、
我が家の基礎のジャッキアップが始まりました。
この二人が頑張ってくれてます。ありがたい。
思ったより、地盤は硬くないそうです。
自分の部屋に座っていると、ギシギシと家が動いています。
感動です。プロって凄い。
6月3日の報告です。

嬉しいことを拾うのです。

2024年05月24日 | 日記
車に乗って、田んぼ道を走って輪島まで買い物に行く。
嬉しいのは田んぼに水が張られ、稲が植えられている事。
我らの村では、今年はお米を作りません、と宣言したけど、
自分たちが食べる分のお米だけ作ることになりました。
6月1日から田植えをする予定です。
今まではお米を販売してたので沢山作ってました。
でも、みんなが一時バラバラになり、お米作りは困難かもと思われたのです。
何とか、田植えの時だけでも、集まり、作るとの事。
来年も美味しいお米が食べられるのは嬉しい限りです。
今年は収量の多い田んぼ4枚だけ作るとの事。
休耕田はこんな感じ。
先のことは分かりません。
その場その場で考えましょう。

去年の12月にプリムラジュリアンを1鉢買い、トイレの窓に置いておきました。地震で下に落っこちてましたが、避難先から帰った時に水をやる程度で、
この5月まで綺麗な花を咲かせてくれました。
あんなに干せ干せでも大丈夫なんだ。
偉いね。
流石に、4日ほど前、花が全部散りました。
今まで楽しませてくれてありがとう。


愛や恋はちょっとお預け。

2024年05月02日 | 日記
まともに演歌を聴いていると、内容の濃さに疲れてきます。
自分で歌うのは好きですが、何ともです。
その点、洋楽は直接言葉の意味が伝わらないので楽です。
言葉の意味は多分良いのだと思うのですが、
今度はアンデスの空を、コンドルが飛んでいる壮大なイメージで行きます。
音源を伝えなくて申し訳ないです。YouTubeで聞いてください。

仲間の家の解体が始まりました。
床板や天井を剥がしてみると、床下の割れ目がハッキリ見えました。
これは全壊ではないかと、再審査をお願いしようということに。
みんなが落ち着いて暮らすまで、時間はかかりますね。
元気であれば何とかなります。
今回の地震で、我らは地球の上に暮らしている蟻さんと何ら変わらないような気がしました。畑で巣を作り、鍬で耕運すると、大変だーと右往左往します。
しかし、すぐに再生し、移動し、何事もなかったかのように動き始めます。
今年の梅の花は普段になく爛漫、桜然り、その乱舞は地球の奥底の変化を感じているのか、
なんて妄想しました。
新緑も進んでいます。何年振りかで庭のチューリップの花が咲きました。

野鳥も元気に巣作りをしています。
我らも地球上の生き物の一種に過ぎないかも。

声を出して歌うのは、体にいい気がします。
リコーダーが無事だったので、また、「コンドルが飛んでいく」を練習します。
そのうち、誰かと合奏します。


お天気が続いています。

2024年04月14日 | 日記
家に戻って、4週間ほどです。
コーヒー豆が手に入らなかったり、新鮮な魚が手に入らなかったりしますが、
輪島のドラッグストアやスーパーマーケットも再開しました。
暮らしにさほど支障がありません。ですが、物価が上昇してることを実感します。
これは庶民は耐え忍ばなければなりません。
これまで、何度も輪島に出かけました。
やっと、朝市通りの焼け野原の撤去が始まっていました。
公費解体も少しづつ始まっています。
しかし、町の瓦礫はまだ放置に近い状況です。

これがなかなか慣れません。
一月の初め、総務省の消防庁、緊急消防援助隊の方達の活躍を、生で感じることができました。
我らの仲間が豆炭あんかによる一酸化炭素中毒にかかり、(長年使っていたものの今まで経験したことのないこと)恐らく機密性の高い車内で使ったためと思われたのですが、頭痛と吐き気、それに意識が朦朧となった為、金沢の身内が救急援助を依頼してくれたのです。しかし頭痛がひどく、たまたま陣痛剤を飲んだ所、症状が回復し、ホッとしていたところ、夜の道路状況が悪い中、担架を3台持って8人くらいの救急隊員さんが到着。我らのところはポットン便所であり、薪ストーブがあり、薪風呂も使えました。家に入ってきた隊員さんは部屋の暖かさにびっくりしていました。被災地は電気がなく、暖房もままならず、寒い時間を過ごしていた頃です。
余震がひどい時期であり、みんな車中泊でしたが、少しづつ、被害の少ない寺の庫裡の宿坊に寝る人もありました。
途中救急車の要請の中止を連絡したものの、うまく伝わらず、来てくれたのです。
一応具合の悪くなった3人を診察してくれ、「また何かあったら言ってください」と丁寧に対応してくれ帰って行ったのでした。申し訳ないと思いましたが、その動きの迅速さにとても安堵させてもらったのです。
震災直後は、夜には毎晩救急車の走る音が聞こえていました。
誰かが助けられたか亡くなったか。と思いました。
のべ59000人の動員は東北大震災に次ぐ人数だったようです。
息子の家から時々戻っていましたが、車で走っていると、九州から北海道に至るまでの県外ナンバーの救急車に何度も出会いました。
その度に「ご苦労様です」と車の中から謝意を聞こえないと思いつつ言いました。
先日、テレビで消防隊員の入社式(?)を目にしましたが、こういう人たちがいざという時に活躍してくれるのかと、感慨深く眺めました。
携帯会社のこういう車もよく目にしました。
仮設住宅も少しづつ出来ています。
まだまだ7000には程遠いけれど、街が動き始めるのは嬉しい事です。
時々、体がふわーんと浮くような感じがします。
戻らない人もいるでしょう。
寂しいけれど仕方ありません。元気であればいいです。
自分のこと始めましょう。病院も、スーパーも美容院も始まっています。
日本中、世界中、油断できませんよ。
備えあれば憂いなし、そうありたいです。