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こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

新赤トラ太郎登場

2011年09月28日 | 日記

 
  昨日、アオリイカ釣りに出かけた旦那と息子が、釣果は小さいのが一杯だけだったけど、
  代わりに、赤トラの子猫を拾って来た。

  恐らく、生後2ヶ月くらいだと思う。
  すでにいる、2歳の雄猫アーサーのマーキングの臭いに頭悩ましているし、雄猫は要らない,と言っていた。

  アーサーは今までの飼い猫とはちょっと違っていた。完璧な野良の子猫で、これも旦那が山口県から拾って来た。
  家猫は人なつこいし、誰の膝にも乗って来る。ところが,アーサーは何が関係性を決定づけたか、私だけになついた。
  「俺が命の恩人だろ」と言っても,旦那になつかない。

  猫は木版画の題材にもなるし、かっての猫たちもモデルになっている。そう言う意味でも
  アーサーはモデルになりにくいものがあった。

  赤トラの場合、うちでは「太郎」と決まっている。
  横浜時代、お世話になった詩人の北村太郎氏から来ている。
  私達が出会った頃、北村さんは中区山下町のアパートに住んでおり、
  うちの人はよく,そのアパートに遊びに行った。

  北村さんは猫好きで、山下町には野良猫がいっぱいいて、遊ぶのに事欠かなかったらしい。
  北村さんが言うには、赤トラには顕著な性格があり、ふざけている、と言うのが特徴とか。
  しかも,猫らしくなく、犬風だと言うのだ。

  横浜で、北村さんの影響もあって、赤トラを飼ったことがある。
  その時、ふざけていると言う性格を目の当りにした。
 
  赤トラはともすると,顔が貧相で、私達が飼った赤トラは歴史の教科書に載っている秀吉に似ていた。
  自然、名前も秀吉になったけれど、ある日、家の前をいつも通る女学生に、犬のようについて行った。

  田舎に引っ越してからも2匹の赤トラを飼ったけれど、一匹は強い雄猫に追い出され、
  もう一匹は尿道結石で亡くなった。

  昨日、陽の当たる道路に半分疲れ果てて寝ている赤トラに出会ったのは、
  運命だと言うのだ。そうまで言われたら仕方ない。
  子猫は文句無く可愛いし、アーサーにとってもいいかもしれない。

  家の周囲には、強い野良猫もいるし、秋田犬の雌も放し飼いにしている。
  ここで,生きて行くのも,中々大変なのである。木登りが上手でなければならない。

  面倒な事は避けたい,と思っているけれど、中々思うように行きませんね。
 
  

映画「ルイーサ」

2011年09月27日 | 日記

 
 困った事に、WOWOWでは10月から映画専用チャンネルが見られるようになる。
 秋から冬にかけては映画のシーズンである。夜も長くなる。

 夕べ、渋い映画を観た。
 映画の情報が無ければ、主人公の顔を見ただけで、スイッチを切るかも知れない。
 
 レオノール・マンソと言うアルゼンチンの有名な舞台女優が主人公だった。
 見るかも知れない人の為に内容は説明したくないけれど、
 名女優のわずかな表情の変化は見る価値があるかも。

 霊園に就職していた年配の女性が愛猫の死と共に、職を失い、退職金も無く、
 日々の生活もできなくなり、電気も止められる。お隣の家族の夫が何かおせっかいで,救われる。
 
 それまで,誇り高くまともな暮らしをしていて、突然、全てを失う。
 地下鉄の中で、物乞いをする男や、怪しいカードを売ってお金にしようとする男に出会う。
 追い詰められて、選択の余地はない。カードを求めて男の真似をする。
 しかし、これはお金にならない。

 地下鉄の入り口近くに足の悪いルンペンが缶を出して、恵んでくださいと言っている。
 ルイーサはそれまで着ていた黒いスーツを脱ぎ捨て、ルンペンスタイルにし、
 早速、杖を買って、翌日その場所に座る。ほんの少しお金が入る。
 その老人とのやりとりが面白い。老人を演じているのはジャン・ピエール・レゲラスと言う俳優との事。

 この映画をこんな風に言えないかな。
 河原に色んな石がある。形、色、様々だ。たまたまわたしが魅せられて、拾った石が「ルイーサ」だった。
 また、元の河原に落としたら、もう分からない。石は一杯ある。
 
 私達は死ぬまで、闘わなければならない。生まれた時からそう決められていた、と思う。
 生きている,と言う事はそう言う事だと思う。
 大した人生と思わないけど、生きて行くと言う荘厳な事実があるだけである。
 たとえ,ルンペンでも問題ない。前を向いて行くルイーサの姿にかすかな希望が見える。

 昔の映画で、サムペキンパー監督だったと思う。「戦うパンチョビラ」と言うのがあった。
 革命家パンチョビラの話だったと思う。その名前が好きである。意味はない。
 戦争は駄目だけど、わたしたちは死ぬまで、生きると言う事と戦わなければならない。
 「ルイーサ」を見て、そんな事思った次第です。
 
 
 

被害者になりたくない

2011年09月26日 | 日記


  レディ・ガガのアルバムを楽しんでいる。
  ダンスの時は、リズムとメロディだけでいい。
  ガガの詩はハードだ。「ボーン.ディス・ウェイ」では
  どっちを愛してもいい,彼でも,神でも、と始まる。
  キリスト教の中で育つ事がよく分からないけど、
  そのままで完璧なあなたを、神は創ったのと唄う。神には一寸のブレもない。

  「ガバメント・フッカー」と言うのもかなりな詩だ。
  政府の売女。オシリ揚げて,腰を振れ、とくる。
  「ジューダス]では愛とはレンガのようなもの、
  だって家庭を築く事も出来れば,死体を沈める事も出来る。
  聖書によれば、いまさら懺悔しても手遅れ。
  名声、売女、娼婦、淫売脳みそがゲロを吐く。

  「アメリカーナ」では捕まえようとしないで、法のギリギリを生きている、と唄う。
  
  「ヘアー」もいい。わたしでいたいだけ、と叫んでいる。

  「シャイセ」は好きだな。曲のイメージがよく分からないけど。
  ガガは私の知らない事をいっぱい知っていそうだ。
  何か大きな力に体の奥深くから反発している様な感じがする。

  「ブラッディー・マリー」では最後にこう言う。
  凍えるパリの山頂で、あたしは待っている。
  「死にたくない,ひとりでは」

  ガガの世界観は簡単に分かりそうも無い。
  被害者ではない。
  
  最近思う。被害者になりたくない。
  人間は複雑だ。
  被害者になったら負けだ。
  被害者では前に進む事が出来ない。
  ガガさんよろしく、わたしをもり立ててね。
  

まあね

2011年09月24日 | 日記

  レディ・ガガの「ボーン・ディス・ウェイ」と言うアルバムで、
  朝の筋トレダンス、かなりハイテンションになってきた。
  ガガは爆発してる。止まらない。

  職場の男の子に
  江崎さん、ガガで筋トレダンスしてるんだって?と聞かれた。
  してるよ。
  江崎さんて、可笑しいよね。何時頃から踊ってんの?
  7時ごろだね。
  家族大変じゃん。
  まあね。

談志落語もう一度。

2011年09月23日 | 日記

  今日もお休み。
  来客の為にお休みをもらってある。
 
  レディ・ガガの『ボーン・ディス・ウェイ」をこっそり手に入れている。 
  当然の成り行きでしょう。
  部屋の掃除をしながら、大音声で鳴らしている。
  筋トレの為のアルバムのようだ。いよいよダンス向きに出来ている。
  ロシア風でいながら、曲名が「アメリカーナ」と言うナンバーが面白い。
  掃除しながら、踊ってしまう。楽しい。

  有り難い事に、今日は晴れている。
  友達が子供を二人連れて、埼玉からアオリイカ釣りに来る。
  
  到着するなり、うちの人と友達は話し始めている。うどん食べながら、お茶飲みながら話は続く。
  私も台所に立ちながら、耳をそばだてる。
  子供たちは自分のする事を分かっている。
  その態度に快感を覚える。押さえつけられている訳でなく、
  自分の退屈な時間をどう過ごすか訓練されている。
  それは、親が中心にしっかり有る事を物語っている。今の日本はともすると子供中心だったりする。
  それはないでしょ、と思っている。
  男性二人、今の日本の教育現場の話、政治、中国について、しまいに三国志まで出て話が止まらない。
  
  それでも、1時頃には、4人は目的であるアオリイカ釣りに出かけた。

  先日の「談志落語とその遺伝子たち」と言う番組で、気になる事が多々あったので、もう一度見たかった。
  皆の留守に見ましょう,とテレビを点けた。
  談志の言葉はキラキラと重く輝く。
  「落語は人間の業の肯定である」
  60歳を過ぎた頃から
  「落語はイリュージョンである」と言い始める。このイリュージョンと言う言葉の意味が難しい。 
  非常識の奥にある人間のナンダカワカンナイ、ドロドロとしたまとまりのないもの、と言っている。
  狂気無しではイリュージョンは語れないとか。更に
  「生きて死ぬ、丸ごと全てが落語である」とまで言っている。

  談志が好きと言う落語の登場人物、ヨタロー。
  見事に人生を遊んでいる、らしい。これ、いいな。
  談志のイリュージョン落語に、江戸の風が確かに吹くらしい。
  何とか,早いうちに落語聞きに行こう。
  それにしても、わたしってミーハー?