暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

楽しいと思う事を

2012-11-24 09:18:09 | Weblog

 「楽しいと感じることをしなさい」というのは教えとして、シンプル(単純)過ぎるのだろうかと思う。

 バシャールの本に書かれてある、『ワクワクすることをしなさい』のワクワクは英語表現では、『エキサイティングなことをしなさい』である。つまり、『興奮することをしなさい』。それを言うなら、アップル創業者のスティーブ・ジョブズの、『情熱を傾けられることをしなさい』と同じであろう。スティーブ・ジョブズは言う。『情熱がないととても出来ない。普通の損得勘定の人でなら避けて通るような事を我々はしようとしているのだから。そんなことは、よほどの情熱がないと出来ない』と。

 

 『情熱を傾けられることをしなさい』というのは、絶対に怠ける為の意見ではない。どんなことでも、情熱を傾けられる事をするのは、その人の生きた意味を体現することになるのだからして。

 

 自分の信念に従うことは重要である。大抵の人は他者が自分に言ったことを『正しい事である』と言って受け入れている。でも、それは、違うのではないかと思う。

 

 『仕事だからという理由で仕事をしている人は、熱狂的に好きで、仕事をやっている人に負ける。だから、好きな事を仕事にしなさい』と書いている人がいる。

 

 『私達は皆特別な存在なのだよ』という。でも、その特別さは、他者の考えを正義であるとして受け入れている限り分からないと思う。それぞれの人間が完璧な個性を発揮することによって、世界は完璧な世界となる。

 完璧に自分を愛せると、完璧に他者を愛せるようになる。

 自分を愛していないから、他者を愛せない。他者に対する判断は、自分に対する判断と同じである。

 

 『あなたの人生の目的は、霊的な師に従うことではなく、あなたが霊的な師になることである』という考えを受け取った人がいる。

 『誰かに従え』という教えはその“誰か”を迫害する意見に繋がる、という意見もある。

 『誰かに従え』ではなく、「自分の中の神性に従いなさい」と言った方が良いと思うのだけれども。

 

 霊性とは、自分の中の神聖に繋がる事であって。誰かを神聖視することではないと思うのだけれども。世界はこの考えを受け入れることが難しいのだろうかと思う。

 他者を神聖視する前に、自分を神聖視した方が良いと思うのだけれども。

 誰にとっても、自分という存在は特別な存在なのである。その事を無視すべきではないと思うのだけれども。

 誰に言われなくても、皆、自分の事は自分にとっては、特別な存在であると知っている。

 本当は誰に言われなくても、自分は自分にとっては特別な存在であることを知っているのに、宗教は、自分以外の『特別な人』を自分自身よりも、特別な存在であると、見なさい、信じなさい、考えなさいと教える。それが、人類が不幸を感じる最大の原因のような気がするが。どうだろう。

 

 バシャールは『自分にそんなに厳しくしないで下さい。あなたはそんなにいじめられるような人ではありません』というが。これは、名言だと思う。

 皆、自分に対して厳しすぎるのだ。例え、殺人者でさえ、神の愛を受ける権利があると思う。

 殺人者は自己評価が低い。親の愛をたくさん受けたと信じられる人で、人を殺す行為を正義であると言う人達がいるだろうかと思う。

 『私は愛を受けていない』『愛される価値のない人間である』と信じているから、他者を傷つける事を当然視するのであると思う。

 

 加害者は大抵、『自分は被害者である』と信じている。まあ、そういうもの。

 幸福を感じている人が他者を傷つける行為なんて、するはずがない訳で。

 だから、ドイツをそういう状況に追い込んだ、第1次大戦の戦勝国の責任は言われるべきだと思うのだけれども。

 

 条件を付けて。『これを守らない人達は永遠の地獄に落とす』という存在を神と信じている人達がいる。

 でも、人を愛すのに、条件なんて必要なのかと思う。

 それは自分を愛すのに、条件が必要であると言っているのと同じ事だと思う。

 世界のすべての人を愛すことは普通の人間には、難しいであろうが。自分を愛すことを、世界のすべての人に勧める事は、非難される行いではないと思う。

 

 小学校の時の先生は、『自分に厳しく、他人に優しく』と言っていたが。今の私なら、『自分に優しく、他人にも優しく』と言うと思う。

 自分に厳しい人達は他人にも、厳しくなる。だから、まずは、自分を甘やかさなければならない。

 心理的トラウマを解消させる方法として。“子供の自分を想像して”、『あなたは愛されているのだよ』と言ってあげるという方法がある。

 大抵の人は、心の中に、“子どもの自分”を持っていて、その子どもは、“愛されたい”と思っている。それは、大抵の人がそうだと思う。だから、この想像は大抵の人に効果があると思う。

 

 「自分の中の神聖に従いなさい」と言うと。頑固な宗教的教えは台無しになってしまう。『神の教えに従え』と言えなくなってしまう。

 イスラム教徒すべてが悪人ではないことは知っている。でも。『条件付きでしか神は愛さない』神を正しいとしている限り、世界を幸せにすることは無理だと思う。

 

 “ハッピー”は、英語では、“楽しい”を意味するらしい。

 “楽しいこと”をすることが、幸せに至る道であり、そして、世界を幸せにする道なのだと思う。「楽しいことを否定して、世界を楽しくすることは出来ない」と思う。

 自分に厳しい人は他人にも厳しい。自分に許していないことを、他者がするのを幸せのうちに、認められる人がいるのだろうかと思う。

 だから、他人に幸せになって欲しいと望むのであれば、まず、自分が幸せになることが必要であると思う。

 だから、『条件付きの愛』を信じる人達のことを『愛ある人間である』とは言えないと思う。

 

 『条件付きで人を愛す』と言っている限り、他者と世界を本当に愛すことは無理だと思う。

 結局、愛がすべての原因なのだ。

 『間違っている人』なんていない。私もあなたも、皆、不完全なのだ。完璧な人間、存在なんて、誰一人、何一つとしてない。

 『宇宙には完全なものは、何一つとして、ありません』。『「あなたは完璧ではない」と言われたら、こう反論します。「この宇宙は不完全さがあるが故に私達生命が生まれたのに」と』。最近見た、NHK、BSの宇宙に関する番組で宇宙物理学が言っていました。

 ほんのわずかな不完全さ、それが、宇宙に物質的生命、世界が存在出来る理由なのだって。

 

 『ワクワクすることをしなさい』を、『辛いと感じている仕事を辞めなさいという意味か』という人がいます。

 でも、人生の目的とは、人生全体を幸福にすることである。すなわち、“辛い”と感じている仕事を辞めた結果、もっと、辛い状態になるのであれば、その仕事を辞める選択は間違っていたと言えると思う。

 『楽しいことをしなさい』と言って、遊びまわって、借金を作る事は、後で、辛い思いをするだけなので、全然、楽しい事ではないと思う。

 なんらかの制約があるのは仕方ない。でも、その制約の中で、出来る限り、楽しいと感じる事をやる、決心を持つ、ということだと思う。

 

 変な神を信じている人達がいるのだけれども。

 「あなたがそれをすることで、世界が幸福になる事をしよう」。それは、凡人には、難しいとしても。「あなたがそれをしても、世界が不幸にはならないような事をしよう」。「あなたがそれをすることによって、世界が不幸になるような事はやめよう」。

 人生に掲げるべき目標とはそれで良いのではないかと思うし。これ以上の目的というのは、ないと思う。

 

 しかし、絶対的な神、唯一の神を信じている人達が大勢いるのだけれども。

 世界は相対性の世界なのだ。

 共産主義は、崩壊した。“科学的”“客観的に”富を分配出来るとうたった、共産主義は崩壊した。そして、“客観的に富を分配することが出来るとはうたわない”資本主義が、生き残った。

 昔は、ドルを金に変える事が出来、それぞれの通貨はドルと固定相場であった。つまり、ある政府の発行したお金はある量の金と交換する事が可能であったという意味である。そして、金とは永遠の価値を持つものとされた。つまり、通貨には永遠の価値があるとされていた。

 今は、変動為替相場で、ドルは金と交換不可能である。つまり、現在の為替相場は相対性の世界である事は誰にも否定出来ないと思う。

 唯一の神を信じる思想も同じである。つまり、“絶対的な神、正義が欲しい”という信仰である。

 でも、私達は相対性の世界にいるのだから。『聖書だけ読んでいれば良い。なぜなら、そこにすべての答えが書かれてあるから』とは言えない。

 キリスト教は宗教としては、不完全だと書いている人がいる。イスラム教は宗教として完璧なのだそうである。でも、キリスト教徒が科学を生み出せたのは、キリスト教が、宗教として不完全だからだと思っている。完璧な宗教は科学を生み出せない。完璧でない宗教であるが故に科学を生み出せたのであると思っている。

 

 たった一つの情報源から、すべての答えが得られるという考えは、霊的な衰退につながると思う。事実はそうじゃない。多くの情報から、自分の頭で、相対的に思考する。それが、相対性の世界の現実なのであるという事で。

 

 世界の人達が、『世界とは相対性の世界だ。絶対的正義も、絶対的悪もない。たった、一つの情報源の情報からすべてが分かるというのは、過ちである』と気付くのは、いつなのだろうね。

 何となく、そんな気がするのだけれども。

 

 どうせ話をするなら、楽しい話がしたい。人の非難をする事に人生を費やすのは、あまりにももったいないと思う。たとえ、人生が辛いものであったとしても。楽しく話をしよう。そうすれば、楽しく感じられるようになるのではないか。そう思うのだけれども。

 

 イスラム教徒の過ちは外国人の書いた本を読まない事だと思う。『自分だけ、自分達だけで完璧だ』と思うのは、あまりにも傲慢だと思う。

 知識が人を幸福にしてくれる。知識なしに幸福になる事は難しいのではないかと思う。

 他者が与えてくれる知識について、もっと、感謝すべきであると思う。

 たった、一人で完璧な人なんて、誰もいない。その認識が必要なのではないかと思う。

 

 ちなみに。自殺について。私も、良い事であるとは思わない。

 “辛い”と思っていても、最後まであがくべきだと思う。大人しくあきらめて、死ぬのは、善行ではないと思う。

 『他者に迷惑をかける心配』についてはすべきではないと思う。どうせ、人はお互い助け合って生きているのだからして。助けるという部分を他者に与える事は世界にとって必要な事である。

 ブッダは言う。『貧しい人から施しを受けなさい』と。信者が驚いて言った。『金持ちから施しを受けなさいの間違いではないのですか』と。ブッダは言った。『金持ちは施す機会が多くある。施す機会のない、貧しい人に施す機会を与えなさい』と。

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