暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

人生の皮肉とは

2012-11-05 18:49:15 | Weblog

 人生の皮肉とは。『老後の為の貯蓄』が出来る人ほど、消費支出が少ないから、老後の為の貯蓄がいらなくなって。『老後の為の貯蓄』が出来ない人ほど、消費支出が多いから、老後の為の貯蓄が必要になるという皮肉である。

 

 “自由”と簡単にアメリカ人は言うけれども。『あなたは自由だ』と言って、無一文のまま放りだされたとしても、全然自由なんかではないと、私は思う。自由になる為には、金がいる。それは真実だと思う。

 

 本当の自由とは、『私は少ない消費支出で生きる事が出来る』と言う事だと思う。“必要経費、必要なもの”が多いと、自由を損なうと思う。“何でも選ぶ権利”は、“少ない消費支出で私は生きる事が出来る”という自信なしに得る事は不可能であると思う。

 『お金があれば、問題は解決するのに』と言って、『宝くじが当たらないかな』と言っている人達がいるのだけれども。それよりも、支出を減らすようにした方が、自由が増えるのではないかと。

 “必要なもの”が多ければ多いほど、不幸になる。本当の自由とは、『私が幸福になるのに、何も必要ではない』と気づく事だと思う。

 『しなければならない事は何もない』事に気づく事が、人生を幸福に生きるための秘訣であるとするならば。『買わなければならないものは何もない』事を“知っている”事は、幸福な人生を生きる為の重要なステップ(段階)であると思う。

 

 知らない人は知らないのかも知れないが。『私は少ない消費支出で幸せに生きていく事が出来る』というのは、大きな自信になる。いざとなれば、その“少ない消費支出”で生きていけば良いだけの事だからして。後は、ただの“権利と趣味の問題”である事を知っていれば、今の選択はただの選択の問題に過ぎない事が分かるからであるということで。

 

 生活保護で。『こんな少ない生活保護でやっていけない』と文句を言うより。『なんてありがたい事なのだろう。働かないで、こんなにもらえるなんて』と感謝した方が良くないだろうか。

 感謝というのは、他者の為にするのではなく。自分の為にするのである。

 自分の状況に感謝出来ない人間の事は、人として、信じられない。

 感謝の対義語は、不平不満であると思う。結局、それは、『生きている事に対する、不平不満』と言う事であると思う。なぜ、生きている事に対して、感謝出来ないのであろうかと思う。それは結局、自分の生命というものに感謝出来ていないで、不平不満があると言う事の現れであると思う。

 

 『私達の今のこの瞬間とは、二度とやってきません』と。『毎瞬毎瞬別のあなたは別の人です』と、バシャールは言う。

 今という、同じ時は、もう二度とやって来ない。人生というのは、一瞬一瞬が貴重な時な訳で。『20歳の時に行けなかった、海外旅行に、50歳の時に行けた。それは、同じ海外旅行でしょうか。いや違います。つまり、時間というのは、それほど貴重なものなのです』と書いていた人がいたが。

 “やりたい”と感じた時にそれをやること。それが、バシャールの言う、『その瞬間、瞬間に一番ワクワクする事をしなさい』の意味だと思う。

 医者も言っている。『トイレに行きたいと思った時に、トイレに行きなさい。尿意や便意を我慢してはいけない』と。トイレに行きたいと思って行くトイレと、1時間後に行くトイレは同じトイレではない、と。

 

 結局、感謝の念がない人間というのは。今の状況に対する感謝の念がないと言う事なのだろうと思う。当たり前か。

 

 何でもかんでも上手く行く“時”というのは、多分、存在しない。

 でも、何でもかんでも、自分一人だけで、出来る人間というのも存在しない。

 感謝の気持ちがない人間というのは、他人に対する、状況に対する、感謝の気持ちがない。

 それって、人間としての恥ではないかと思う。誰も、自分だけで完璧な人なんて、存在しないのに、と。

 

 私が考えていた事として。「神に対して感謝するより、人間に対して感謝する方が良くないか」と言う事である。

 宗教家はすぐに、『神に対して感謝の念を捧げよ』と説く。でも、私は「神に対して感謝を捧げるより、人間に対して、感謝の念を捧げた方が良くないか」と思う。神に対して感謝の念を捧げるより、人間に対して感謝の念を捧げる方が、絶対に幸せになれるよ、と思う。

 『ノート1冊に、ありがとうと書けば、幸せになれると信じて、ノート1冊、ありがとうという言葉で埋め尽くした事がある』と書いていた人がいたが。(須藤元気さん)。しかし、「ノート1冊に対して、ありがとうと書くより、100人の人間に対して、ありがとうと言う方が、絶対に確実に幸せになれるよ」と思う。“ノートに1冊”は信じられないが、“100人の人間に”は、議論の余地がない。

 

 『生活保護費は少ない』と文句を言っている人が。他人に対して、『生活保護をいただけて、ありがたい事です』と言い始めたら、周囲の人はどう思うだろうかと思う。その人に対する、悪意が好意に変わり始めないだろうかと思う。そしたら、その人は、文句を言っていた頃よりも、確実に幸せになれるであろうと思う。別に、隠された神秘も何もない。普通に考えたら、誰にでも分かる事だから、ということで。

 

 豊かさとは、今の状況に満足出来る事だと思う。

 周囲の人や状況に感謝出来るのならば、その人は充分豊かであると思う。それ以上のものは何もいらない。そう思うのだけれども。

 

 『発展途上国の貧しい人達に対して、お金を与えよう』という運動に賛成出来ないのは。援助を受けた人達が援助に感謝しているようには見えないからである。少なくとも、私の目には見えない。

 “感謝出来ない”のは、充分悪行なのに。その行いをする人達の事を支援するのは、間違いではないかと思う。

 本当は、物質的不幸は不幸の原因ではなく。精神的不幸が不幸の原因ではないか。イスラム教徒の過ちをそのままにしておいて、彼らを正しい人であるかのように言う事は善行ではないと思う。飴の袋を平等に分ける事が出来ないのは、アフリカ人の善行ではない。消費者の事を考えた商品を作れないのは、アフリカ人の過ちである。そこの問題を放置しておいて、『ただ、金を集めれば良いのである』という考えは受け入れられない。

 

 “信念、信念、信念”。すべての問題はそこにある。でも、なかなか、信念の問題を言う人は少ない。本当は、信念こそが問題の原因であるのに。そこの問題を放置して、『彼らはかわいそうな人達だから』という人達が後を絶たない。

 

 ソマリア人による誘拐による大金集めを肯定する事は出来ない。正直に言えば。『すべての不幸の原因は、戦争をする事にある』と言っても良いくらいだと思う。戦争をするのを止めれば、問題の第1番目は片付く。

 餓死をする人を見れば、『かわいそう』であると思う。でも、餓死の第1番目の原因は、戦争にある。それさえなくなれば、餓死は半減か3分の1以下か4分の1以下になってもおかしくないくらいである。

 

 世界の平和に責任を持つという思想を持つアメリカ(やヨーロッパ人)が世界の人達から、好意を持たれているかと言えばそうでもない。世界に対して、自国に対してどんな影響を及ぼすかという観点からしか興味を示さない日本が世界の人達から嫌われているかと言えばそうでもない。

 完全に自分の利益になるかならないかという観点しか興味がないとしても、その人が周りの人から嫌われているかと言うとそうでもない。むしろ、『私の行動で、世界を変えよう』という人の方が嫌われている場合も多い。

 他人の人生に対して、責任を持つというのは、傲慢な意見であると思う。

 子どもは親の思う通りにはならない。子どもと親は全く別の存在だからして。ただ、親は子どもの幸福を願うだけで良い。それ以上の事は出来ない、と。

 世界で戦争が起きているとして。それに対して、大抵の人はどうする事も出来ない。世界の不幸に対して、すべて責任を持っているというのは、傲慢な意見であると思う。

 

 他者は自分の思い通りにはならないのだからして。他者から“親切”にされたら、幸福なのである。

 感謝の念がない人というのは、他者や状況が自分の思い通りにならないといういらだちが大き過ぎるのだと思う。

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